村に脅威が迫ること
視覚外から黄色く鈍い光を帯びた矢がバンジィの、熊の毛皮で覆われた逞しい背中を深く抉った。
バンジィにはもう振り返る力も、気力も、もう残されてはいなかった。
バンジィはこの星の重力に牽かれながら、大地に跪いた。
バンジィの眼には晴れ晴れとした青い空と、地上を刺すように輝く太陽、そしてやわらかく地上を包む草原が映っていた。
バンジィには今日ほど、この光景が美しく見えたことはなかった。
後ろから蹄が土を蹴る音が聞こえる。
蹄の音を聞きながら、バンジィは今日に至るまでの足跡を思い返していた。
バンジィはルトガール村、この寂れた寒村で生まれた。
両親は帝都ダンボーイの出身であったが、都市の生活に馴染めなかった。
また時代に逆らって、自然と共生し、狩猟採集の生活を過ごし、衰えれば獣のように野垂れ死ぬ、そのような生き方に憧れを抱いて、ルトガール村に移住してきた。
そのような両親によるバンジィへの教育方針は、旧態依然のルトガール村から見ても、奇妙で不快感を覚えるものであった。
それは世間ずれをしたダンボーイの住人の脳内で構成された、理想的な自然との関係を基にしているので、ルトガール村民からすれば、とても想定が甘いとしか言えないものであり、また受け入れがたい思想の産物であったからだ。
例えば、バンジィの両親は農業を忌み嫌っていたし、バンジィが農業のことを知りたがるといつも決ってこう言うのであった。
「農業は人を、堕落させる。
美しい循環を忘れさせる。
バンジィ、お前はそのような醜いものにどうか触れないでおくれ。
清らかな母さんから産まれたお前が汚らわしきものに成り果てるのをどうか、どうか見せないでおくれ」
バンジィはそのような両親を見ると、いつも不安を覚え、もうこのような声を聴きたくないとの想いを強くするのであった。
ゆえにバンジィは両親を喜ばせようと、狩猟や採集の技術を磨き、古い戦士の人生観を内面化していった。
そしてバンジィは十八才の誕生日まで、ルトガール村の住人から疎まれながらも、両親からの愛を受けて、いにしえの狩人のように力強さとしなやかさを併せ持ち、かつあの恐ろしき万物流転の真理を胸に抱いた男として成長を続けてきた。
バンジィの十八才の誕生日の翌日、ルトガール村は逞しい胸像のような人間の上半身と、光沢のある赤い毛皮を纏い、一蹴りで人間の脳漿を打ち砕く四本の馬脚を兼備する知性あるモンスター、ケンタウルスの襲撃を受けた。
その年は例年に比べて比較的温暖であった。
田畑では農作物がたわわと実り、山川では動植物が溌剌と活動していた。天下泰平の穏やかな夏であった。
ルトガール村とケンタウルスの集落は別段なにか対立があったわけではなかったし、むしろルトガール村とケンタウルスの集落は交易も盛んで友好的な関係にあった。
しかしケンタウルスはルトガール村を襲ったのであった。
ルトガール村は、ケンタウルスの集落があるトレディ草原をトロジェン河を挟んだ南側に位置し、北側のトロジェン河を除いて三方向レベビ山脈に囲まれた、牧歌的ではあるが何処か息の詰まる村落であった。
ケンタウルスの集団は秘密裏にトロジェン河を渡り、レベビ山脈に散開した。そして夜が明けると同時にケンタウルスたちは大気の精霊に語りかけた。
「いまに天空に御座します大気霊よ!」
「神敵を撃ちます我らが弓に力を与えたまえ!」
ケンタウルスたちは極めて偉大な存在を、実在を感じた。
ケンタウルスの背負う矢筒に、何者かが息を吹きかける。
ケンタウルスたちは戦が迫っているにも拘わらず、偉大な存在からの寵愛を感じ、膝を崩し恍惚とした表情を浮かべていた。
バンジィは十フィートは優に越えていたであろう熊の吸い込まれるほどに黒い毛皮を身に纏い、短く弦の張った矢と弓、そして大型の鉈を携えて山中に熊を狩に来ていた。
バンジィは昨日盛大に自分を愛してくれた両親にお返しがしたかった。
バンジィは神経を尖らせながらも堂々と山を練り歩く、レベビ山脈の熊はとても気性が荒く、獲物を選り好みしない、争いを好み、殺して喰らう。
そのような気持ちのいいレベビ山脈の熊をバンジィは愛していたし、おそらくレベビ山脈の熊も愛していただろう。
バンジィは前方にケンタウルスを発見した。
バンジィはケンタウルスが好きであった。特に精悍な肉体とあの愛すべき哲学が好きであった。
ケンタウルスは人並みの知性があるのに、その知性を使って必要以上に便利な生活を求めたりはしない。
なぜなら彼らはこの宇宙と共に生まれた、宇宙から我々をも貫く偉大な法則と、その法則と極めて近い存在である大気霊と大地霊に絶対の忠誠を誓って生きているからだ。
人間は宇宙から我々をも貫く偉大な法則から逃れることは出来ないが、大気霊と大地霊に対しては逆らうことが出来る。
ケンタウルスも十分な知性がありゆえに逆らうことが出来るはずなのだ。
しかし彼らは二大霊には歯向かわず、彼らに与えられた役割を従順とこなす。
だからバンジィはケンタウルスに有らん限りの大声を掛けた。
ケンタウルスは悲しそうな顔をしながら、矢をつがえた。
次回予告
地に倒れたバンジィは己の過去を思い返していた。
奇異な少年時代、狩人としての成長、そして誕生日の翌日に起きたケンタウルスの侵攻を。
バンジィは敬するケンタウルスと戦い、そして悲しい別れを経験する。
次回もまた見てください!