ジェントルスパイダーとミツバチ
みよんみよんみよん。
たるんだゴムひものような、気怠い振動が脚にひびいた。獲物のかかった合図だ。
──ついにかかったな。会いたかったぜ。
はやる気持ちを抑えながら、巣の端っこに引っかかったらしい獲物のもとへ、脚を繰り出しはじめた。一定のリズムで、遅すぎず速すぎず、丁寧に脚を前へ動かす。
焦って横糸に脚をひっつけてしまうと、この上なく面倒なことになる。あのネバネバにはできるだけ触りたくない。尻から出すのが専門だ。
それに、雨に降られようと風に吹かれようと、ナワバリの中央でじっと耐え忍ぶのが生業なのだ。せっかちにクモは務まらない。焦燥感に駆られることはあっても、それに負けたことは一度だってない。
目標の数センチ手前。それまでぼんやりとしていた輪郭が、徐々に明らかになってきた。翅やら脚やらをもぞもぞと動かしている。
──おっと。鋏角が緩んぢまった。無理もない。もう何日も吸ってないんだから。
久しぶりの食事に、思わずヨダレがあふれてしまう。
振り払おうと懸命にもがいているが、かえって糸が複雑に絡みつき身動きが取れなくなっている。
──いくらか大きいな。オスみたいだ。
巣にかかっていたのはミツバチだった。あのフサフサは気味が悪いが、念願のご馳走に文句などつけようがなかった。
「おい、あんた! 待ってくれ。早まるな」青ざめたミツバチは、必死の抵抗をみせた。
「無様ですね。巣にかかったエサの分際で命乞いですか?」そう言って、クモはミツバチに追い糸を巻きはじめた。針を持たないオスとはいえ、暴れられては面倒だからだ。
「ああ。どうか見逃してくれないか。家を追われちまったんだ」
「家を?」
「そうだ。だからその、な? ……牙をこっちに向けるのはやめてくれ」
クモは、牙を向けたまま少し考えた。食事をやめるつもりはなかったが、話くらいは聞いてやろうと思った。
牙をひっこめたクモを見て安心したのか、ミツバチは落着いた口調で話し始めた。
「おれは見ての通りオスのミツバチだ。つい昨日までは家に住んでた。やることといえば、メスのミツバチに声をかけたり、家の中でブラブラしたり、まあ、そんなとこだ。食料はメスのミツバチが取ってきてくれるし、子どもの世話もしてくれるしよ。それにメスはオスの何倍もいるんだぜ。こんなに楽なことはねえ」
「そうですか」クモは一対の牙をかちゃかちゃいわせた。
「……で、でな。話はここからだ。昨日の夜のことだ。ハチミツを食ってうとうとしながら、おれは仲間と毛づくろいをしてたんだ。オスのたしなみさ。そしたら、メスの連中がぞろぞろと集まってきて……『もう、あなた達の世話はしません。出て行ってもらいます』なんて言いやがる! 食料が尽きたのか何なのか知らねえが、散々世話しておいて邪魔になったら出て行けとよ。こんな仕打ちがどうしてできる?」
言い分はこれっぽっちも理解できなかったが、きらきらした黒い目を見開いて話すものだから、なんだか哀れに思えてきた。
「だいたい、おれだって何もしてなかったわけじゃない。先週だったか、密会の日があった。巣を離れて、とある場所でとある時間にクイーンと落ち合うことになってたんだ。おれは約束通り、時間きっかりに向かった。おれは目を疑ったね。そこにはオスがうじゃうじゃいたんだ。文句を言ったって仕方がないから、おれはクイーンの尻を追いかけて交尾しようとした。言い表せないほどの死闘だった。他のオスも必死さ。だが、結局クイーンとは交尾できなかった。お開きになっちまって、そのまま家に戻ることになった。奇しくも、おれ以外のオスはほとんど帰ってこなかったが…… なんでだろうな」ミツバチは体をくねらせながら矢継ぎ早に話した。
──じゃあ、何もしてねえじゃねえか。
「世知辛いですね。あぶれてしまったというわけですか、かわいそうに」
「だろう? それで追い出されて──食料を探して飛んでいたら、まんまと引っかかっちまったってわけだ」クモの巣のすぐ下には、蜜たっぷりのビワの花が咲いていた。
──当然だ。巣を張るのにもコツがある。
「後世だから、今回は見逃して……」
「それは難しい相談ですね。こちらにも生活がありますから」クモは食い気味に答えた。
「……いや、わかった。命乞いはよそう。もう命は惜しくない。この糸を解いて、せめて、ビワの蜜だけでも食べさせてくれないか。そしたらおれは、甘んじて死を受け入れよう」
「…………」クモは考えるふりをした。
「いいでしょう。情けは虫のためならず──さんざん待ちましたから。少しくらい食事が遅れたって、どうということはありません」
「……いいのか! ハチがとう。あんたいい奴だな。この恩は一生忘れねえ。──あと少しだがな、はは」
「悪趣味な冗談ですね」
「へへ……」
複雑に絡みついた糸を、クモは何本もの脚を巧みに操ってほどいてやった。
ミツバチはよろよろと飛んで、枯れ落ちた葉のようにビワの花に降り立った。空腹のあまり、逃げるための気力など残っていなかった。
ミツバチは、クモが話しかけるのをほとんど無視して、うまい、うまい、と我を忘れて蜜を貪った。
ビワの蜜は溶けるように減っていき、ミツバチはみるみるうちに元気を取り戻して、あと少しで飛ぶのではないかという勢いで翅をばたつかせた。
「どうですか。もう満足でしょう」
「ああ、満足も満足、大満足……この上ない幸せだ」ミツバチは不気味にほくそ笑んだ。
「それじゃ、大人しくこっちに──」
「嫌だね──」
そう言うが早いか、思いきり翅を前後させ、ミツバチは離花準備に入った。
「黙って食われるやつがいるか、このマヌケめ! 脚が何本あったって、空は飛べないんだろう? 八八八、あばよ!」
いつものように翅を震わせる。が、いくら羽をばたつかせても景色が変わらない。足が縫いつけられたかのように、その場から動けない。
「……?」
みよんみよん。
「まさか──」
ミツバチの足元、もといビワの花序には無数の糸がびっしりと張り巡らされていた。
蜜を啜るのに夢中で、足元の罠に気がつけなかったのだ。
「やっと。理解しましたか? あなたは狩られる側で、私が狩る側。私が狩りに失敗したことはありません──そう、一度たりともね。さあ、観念して…」
糸を上に下ろしながら、クモはゆっくりと降下した。
「どうか、見逃してくれ。なんだってやる!」愚かにも、まだミツバチは諦めていないようだった。
「なんでもって、あなた一文無しでしょう」
「いや、あいつらに頼めば、少しくらい蜜を分けてくれるはずだ! そうだ、おれの足についた花粉だんごもくれてやる。ビワの花粉だぞ!」
──ちっ。
「俺はな、肉食なんだ」
そう言うと、クモは四本の脚を掲げた。
「こうやって使うんだ。この脚は」
ミツバチの顔が、はじめて恐怖に曇った。
ブチッ、ブチッ。
「あぁ、ああああぁぁ!!」
荒々しく翅を引きちぎられ、けたたましく叫ぶミツバチを後目に、クモは胸部の背中に噛みつき、堅い殻を食いちぎった。そして、ずっと待たせていた牙を突き刺し、消化液を存分に入れ込んだ。
ミツバチは最後の力を振り絞って足をじたばたさせたり、言葉にならない何かを叫んでいたが、消化液を注入されてからしばらくして、ぴくりとも動かなくなった。
それからまたしばらくして、ミツバチの内臓が融けたのを確認すると、クモは品など気にせず、がつがつとむしゃぶりついた。
甘い。
クモは二時間ほどかけて、ゆっくりと食事を楽しんだ。
それは、今までのどんな食事よりも甘美だった。