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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ジェントルスパイダーとミツバチ

作者: 嗣永永嗣

 みよんみよんみよん。


 たるんだゴムひものような、気怠い振動が脚にひびいた。獲物のかかった合図だ。


 ──ついにかかったな。会いたかったぜ。


 はやる気持ちを抑えながら、巣の端っこに引っかかったらしい獲物のもとへ、脚を繰り出しはじめた。一定のリズムで、遅すぎず速すぎず、丁寧に脚を前へ動かす。


 焦って横糸に脚をひっつけてしまうと、この上なく面倒なことになる。あのネバネバにはできるだけ触りたくない。尻から出すのが専門だ。


 それに、雨に降られようと風に吹かれようと、ナワバリの中央でじっと耐え忍ぶのが生業なのだ。せっかちにクモは務まらない。焦燥感に駆られることはあっても、それに負けたことは一度だってない。



 目標の数センチ手前。それまでぼんやりとしていた輪郭が、徐々に明らかになってきた。翅やら脚やらをもぞもぞと動かしている。


 ──おっと。鋏角(きょうかく)が緩んぢまった。無理もない。もう何日も吸ってないんだから。

 久しぶりの食事に、思わずヨダレがあふれてしまう。


 振り払おうと懸命にもがいているが、かえって糸が複雑に絡みつき身動きが取れなくなっている。


 ──いくらか大きいな。オスみたいだ。


 巣にかかっていたのはミツバチだった。あのフサフサは気味が悪いが、念願のご馳走に文句などつけようがなかった。


「おい、あんた! 待ってくれ。早まるな」青ざめたミツバチは、必死の抵抗をみせた。


「無様ですね。巣にかかったエサの分際で命乞いですか?」そう言って、クモはミツバチに追い糸を巻きはじめた。針を持たないオスとはいえ、暴れられては面倒だからだ。


「ああ。どうか見逃してくれないか。家を追われちまったんだ」


「家を?」


「そうだ。だからその、な? ……牙をこっちに向けるのはやめてくれ」


 クモは、牙を向けたまま少し考えた。食事をやめるつもりはなかったが、話くらいは聞いてやろうと思った。


 牙をひっこめたクモを見て安心したのか、ミツバチは落着いた口調で話し始めた。


「おれは見ての通りオスのミツバチだ。つい昨日までは家に住んでた。やることといえば、メスのミツバチに声をかけたり、家の中でブラブラしたり、まあ、そんなとこだ。食料はメスのミツバチが取ってきてくれるし、子どもの世話もしてくれるしよ。それにメスはオスの何倍もいるんだぜ。こんなに楽なことはねえ」


「そうですか」クモは一対の牙をかちゃかちゃいわせた。


「……で、でな。話はここからだ。昨日の夜のことだ。ハチミツを食ってうとうとしながら、おれは仲間と毛づくろいをしてたんだ。オスのたしなみさ。そしたら、メスの連中がぞろぞろと集まってきて……『もう、あなた達の世話はしません。出て行ってもらいます』なんて言いやがる! 食料が尽きたのか何なのか知らねえが、散々世話しておいて邪魔になったら出て行けとよ。こんな仕打ちがどうしてできる?」


 言い分はこれっぽっちも理解できなかったが、きらきらした黒い目を見開いて話すものだから、なんだか哀れに思えてきた。


「だいたい、おれだって何もしてなかったわけじゃない。先週だったか、密会の日があった。巣を離れて、とある場所でとある時間にクイーンと落ち合うことになってたんだ。おれは約束通り、時間きっかりに向かった。おれは目を疑ったね。そこにはオスがうじゃうじゃいたんだ。文句を言ったって仕方がないから、おれはクイーンの尻を追いかけて交尾しようとした。言い表せないほどの死闘だった。他のオスも必死さ。だが、結局クイーンとは交尾できなかった。お開きになっちまって、そのまま家に戻ることになった。()しくも、おれ以外のオスはほとんど帰ってこなかったが…… なんでだろうな」ミツバチは体をくねらせながら矢継ぎ早に話した。


 ──じゃあ、何もしてねえじゃねえか。


「世知辛いですね。あぶれてしまったというわけですか、かわいそうに」


「だろう? それで追い出されて──食料を探して飛んでいたら、まんまと引っかかっちまったってわけだ」クモの巣のすぐ下には、蜜たっぷりのビワの花が咲いていた。


 ──当然だ。巣を張るのにもコツがある。


「後世だから、今回は見逃して……」


「それは難しい相談ですね。こちらにも生活がありますから」クモは食い気味に答えた。


「……いや、わかった。命乞いはよそう。もう命は惜しくない。この糸を解いて、せめて、ビワの蜜だけでも食べさせてくれないか。そしたらおれは、甘んじて死を受け入れよう」


「…………」クモは考えるふりをした。


「いいでしょう。情けは虫のためならず──さんざん待ちましたから。少しくらい食事が遅れたって、どうということはありません」


「……いいのか! ()()がとう。あんたいい奴だな。この恩は一生忘れねえ。──あと少しだがな、はは」


「悪趣味な冗談ですね」


「へへ……」


 複雑に絡みついた糸を、クモは何本もの脚を巧みに操ってほどいてやった。


 ミツバチはよろよろと飛んで、枯れ落ちた葉のようにビワの花に降り立った。空腹のあまり、逃げるための気力など残っていなかった。


 ミツバチは、クモが話しかけるのをほとんど無視して、うまい、うまい、と我を忘れて蜜を貪った。


 ビワの蜜は溶けるように減っていき、ミツバチはみるみるうちに元気を取り戻して、あと少しで飛ぶのではないかという勢いで翅をばたつかせた。


「どうですか。もう満足でしょう」


「ああ、満足も満足、大満足……この上ない幸せだ」ミツバチは不気味にほくそ笑んだ。


「それじゃ、大人しくこっちに──」


「嫌だね──」


 そう言うが早いか、思いきり翅を前後させ、ミツバチは()()準備に入った。


「黙って食われるやつがいるか、このマヌケめ! 脚が何本あったって、空は飛べないんだろう? 八八八、あばよ!」


 いつものように翅を震わせる。が、いくら羽をばたつかせても景色が変わらない。足が縫いつけられたかのように、その場から動けない。


「……?」


 みよんみよん。


「まさか──」


 ミツバチの足元、もといビワの花序(かじょ)には無数の糸がびっしりと張り巡らされていた。

 蜜を啜るのに夢中で、足元の罠に気がつけなかったのだ。


「やっと。理解しましたか? あなたは狩られる側で、私が狩る側。私が狩りに失敗したことはありません──そう、一度たりともね。さあ、観念して…」


 糸を()()()()()()()()、クモはゆっくりと降下した。


「どうか、見逃してくれ。なんだってやる!」愚かにも、まだミツバチは諦めていないようだった。


「なんでもって、あなた一文無しでしょう」


「いや、あいつらに頼めば、少しくらい蜜を分けてくれるはずだ! そうだ、おれの足についた花粉だんごもくれてやる。ビワの花粉だぞ!」


 ──ちっ。


「俺はな、肉食なんだ」


 そう言うと、クモは四本の脚を掲げた。


「こうやって使うんだ。この脚は」


 ミツバチの顔が、はじめて恐怖に曇った。


 ブチッ、ブチッ。


「あぁ、ああああぁぁ!!」


 荒々しく翅を引きちぎられ、けたたましく叫ぶミツバチを後目に、クモは胸部の背中に噛みつき、堅い殻を食いちぎった。そして、ずっと待たせていた牙を突き刺し、消化液を存分に入れ込んだ。


 ミツバチは最後の力を振り絞って足をじたばたさせたり、言葉にならない何かを叫んでいたが、消化液を注入されてからしばらくして、ぴくりとも動かなくなった。


 それからまたしばらくして、ミツバチの内臓が融けたのを確認すると、クモは品など気にせず、がつがつとむしゃぶりついた。


 甘い。



 クモは二時間ほどかけて、ゆっくりと食事を楽しんだ。


 それは、今までのどんな食事よりも甘美だった。

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