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紅に染む  作者: かこ
秋人
5/12

幕間|父と母

(わたくし)、怒っていますの」


 隆人(たかひと)を迎え入れたのは怒気を孕む声だった。そう言った顔が笑顔な分、言われた方の肝は冷える。

 軍服に負けない体躯に上背もある隆人が、病床で半身を起こした美幸(みゆき)を見下ろす形だ。しかし形勢はその逆なのは火を見るよりも明らかだった。寒気のする笑顔に対し、冷や汗のたれた顔の隆人はぎこちなく視線を合わせる。

 ここで下手な言い訳をしてはいけない。隆人はこの十年あまりで重々思い知らされていた。どうして怒らせているのか。正確に見極めなければならない。


「急に知らせが来て昼間に来れなかったんだ。すまない」


 無言に耐えきれなかった隆人が一石を投じた。


「いいえ、気にしていませんわ」


 美幸の笑顔は変わらない。

 隆人はいよいよ目を泳がし始めた。


「体調はどうだ?」

「変わりありませんわ」

「誕生日、おめでとう」

「ありがとうございます」

「……贈り物が、気に入らなかったか?」


 隆人の自信のなさそうな言葉に美幸は虚を突かれた。昼間に娘から渡された観劇券は本と共に机の引き出しにしまってある。棺に入れて欲しいほどに大切な贈り物だ。

 隆人が美幸をうかがっている。軍の一角を担う上長官がするにはあまりにも情けない顔だ。

 美幸は困ったように笑い、いいえ、と続ける。


「とても嬉しい贈り物でしたわ。今までで、いっちばん素敵な贈り物です」


 美幸の答えを聞いた顔が晴れ渡る。初めて出会った日の最後。結局、許してしまった時も同じような顔をしていた。

 その日、美幸は海を越えた異国の英雄譚を観劇する予定だった。ところが、美幸を指名手配中の詐欺師と勘違いした隆人がそれを許さなかった。数時間後、犯人が別に捕まり土下座をしたのは隆人だ。人気の芝居はなかなか券が取れない。平伏した隆人を見かねた美冬が、また開演された折りに招待してください、といつになるかわからない口約束をしたのが始まり。要人の茶会に出席した美幸と護衛を務める隆人が再会したのも何かの縁だろう。偶然で済ませなかった隆人が食事に誘い、憎からず思っていた美幸は頷いた。逢瀬を重ね結婚し、子を持ち育てるまで観劇の話題は出ることもなかった。だから、美幸は忘れていたと思っていた。


「一緒に行こう」


 そう言ってはにかむ隆人に美幸は目を細めた。


「約束ですからね」


 手を合わせ少女のように喜ぶ美幸に満足した隆人はやっと腰を落ち着けた。灯りはベッドの脇に置かれたオイルランプのみだ。消灯時間は過ぎているが、隆人は無理を言って入れてもらっていた。小さな椅子がきしみ、光に照らされた顔に影が落ちる。

 夫に浮かぶ色濃い疲労を美幸が見逃すはずがない。


「何か、ありましたか?」


 美幸は控えめに訊いた。

 静かに訴える妻の瞳に隆人は奥歯を噛みしめる。扉の外をうかがうように顔だけ振り返った後、膝に両肘をついた。組んだ掌に自身の額を押し付け、その状態で時計の一番長い針が一周した頃。隆人は顔を上げた。覚悟を決めた瞳だ。


「おそらく、戦争が始まる」


 受け止めた美幸はそっと目を伏せ、そうですかと吐息のようにこぼした。

 ほの暗い中、二人は視線を落としたまま言葉を交わす。


「早く終わればいいが、そればかりはわからない」

「私達のことは気にしないでください。ご武運をお祈りしております」

「気にするなと言われてもな。そう――」

「死んだら、貴方の所に付いていけますわ」


 重ねるようにして遮ったのは美幸の言葉だ。凪いだ瞳に鬼のような形相が映る。


「自分が何を言っているか、わかっているのか」

「お医者様に言われているのでしょう? 先が短いって」


 嘘をつけない隆人は無言で返す。


「旦那様、お手を貸してくださいませんか?」


 美幸の願いに夫は静かに従い、強ばる手を妻に差し出す。

 両手で握りしめた美幸は、あたたかいと微笑み、たくましい掌に言葉をこぼす。


「最後のわがままを聞いていただけますか?」

「最後、と言うな。お前のわがままなら、私から願いたいぐらいだ」


 困り果てたような今にも崩れ落ちそうな笑顔を見た美幸はゆるむ目尻を意識して上げる。


「最後は、家で過ごさせていただけませんか」

「いつ、病が悪くなるともわからないのに。体が辛いだろう」

静江(しずえ)さんに診ていただくよう、お願いしてみました。後は旦那様の許可をいただけたら、泊まり込みでもいいとまで、仰ってくれています」


 静江という名を聞いた隆人は目を見張った。口を固く結び考え込む。


「そうしてくださったら、旦那様をお見送りすることもできますし、留守の間も美冬にさみしい思いをさせませんわ」


 握りしめる美幸の手に力がこもる。

 隆人は深いため息をついた。妻はわがままと言ったが、結局は夫や娘を思っての願いだ。断ることが難しい。さらに考えられる懸念は事前に策を練っている。

 隆人は娘にとことん甘く、妻には滅法弱い。道行く人が見たら震え上がりそうな目で美幸を見返した。


「無茶はしないな?」

「はい」


 他にも体を冷やすな、睡眠は十二分にとれ、家事は一切するな、と思い付く限り念には念を押す。その全てに美幸は素直に返事をした。


「なら、許す」


 永遠に続くかと思われた問答が終わり、隆人は頷いた。赤くなった細い手が目に入り、慌てて離す。話に集中するあまり力がこもっていたらしい。隆人は妻の両手を壊れ物を扱うように武骨な手ですくい上げた。


「美冬には秋人がついている。だから、自分のことを一番に考えればいい」


 無理だとわかっていて、隆人は美幸に願った。

 凪いだ瞳を揺らした美幸は小首を傾げる。妻の困った時にする仕草につられるようにして、隆人は目尻を下げた。

 旦那様、と美幸は呟く。

 言いにくそうにする美幸を隆人は目だけで促した。


「私、怒っていたことをすっかり忘れておりましたわ。でも、こればかりは譲れません」


 話が最初に戻ってしまった。

 目を丸くする隆人の顔に免じて、美冬は己が怒る理由を述べる。


「やっと(とぉ)になった子供だけで、こんなへんぴな所に使いに出す人がいますか?」


 隆人は天を仰ぎたくなったが、我慢する。急な仕事でとか、護衛もつけているとか、様々な御託が並ぶが思うだけで止める。

 美幸は道理が通らないと思ったら、梃子(てこ)でも動かない。言い訳をしても根本(こんぽん)が覆りますかと冷えた瞳で言い負かされるのが落ちだ。

 隆人が妻の説教から解放されたのは、夜間の見回りに退出を促された時だった。




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