殉教者と順境者。
騎士と大魔導士。
大魔導士が戦場に似つかわしくない布地の多い服をひらめかせ、崩れ落ちる身体を抱きとめる。あの身体は、自分を救った女神のものだった。
ダフィートはそれを見つめて、錆びついたようだった身体を無理に動かす。無理やりでも気を引き締めれば動かすことが出来るのは、彼女が暴力的に圧倒的な回復魔術をかけてくれたからだ。彼女の安全を脅かすものを排除したいという思いは、本能から生まれたように強固だった。
「伏していろ。動くのならば敵とみなす」
だがなんとか辿り着こうとすれば制される。
彼女は走って魔力をまき散らしていただけだから、泥の撥ねる足元以外は綺麗なものだった。その身体を汚したくないからか、大魔導士は自らの外套を広げて彼女の身を横たえている。豪奢な刺繍の施された外套は汚れても、彼女は綺麗なままで生気を失っていた。
それほどの気遣いをしているのだから、絶大な力を持つ大魔導士が彼女にとって庇護者なのは間違いない。そんな彼から見れば、泥を這う自分は敵に見えても仕方がないとダフィートは思う。それでも諦められなくて、握った剣を掲げる。
「せめて、こちらを」
彼女を腕の範囲で横たえた大魔導士は、聖遺物だと伝えられている杖を泥に突き刺し魔方陣を描こうとしていた。
大魔導士が魔方陣を描く姿など聞いたことがない。能力より複雑な技術や魔力のいる魔術を行使するときに補助的に使うのが魔方陣や杖の類で、それが不要だからこそ彼は大魔導士だった。
杖は常に手にしていたが、本来の使い方ではないから、ぬかるむ地面に線を描こうとして苦戦している。ならば人を切るために鋭い剣先ならば、まだ描きやすかろう。
だから手放さなかった剣を差し出す。横たわる女性が魔素を使いすぎたせいで如何な大魔導士といえど魔方陣が必要なのだとの判断は一瞬だった。剣に生きてはいたが、貴族であるから魔術の基礎は知っている。生まれに感謝したのは初めてかもしれなかった。
最も守りたい女性に救われた者たちが、奇跡を前に身体の自由を取り戻し始めている。彼女を救いたいのなら、この剣がどの手にあるべきかを見誤れなかった。
プライドだというものは、ここまで散々踏みつけられていた。今更、執着してもしかたない。だから差し出したソレを、大魔導士は高みから一瞥して言い下す。
「よこすなら鞘だ」
それが何故なのかは貴族の嗜み程度では分からなかったが、逆らわなかった。剣を手にしていられるのなら、大魔導士の許す位置だろうと自分にもまだやれることはある。
抜き身の剣を手にしたまま素直に鞘を差し出せば、大魔導士は鞘を弟子の身体の上に横たえた。
「……難儀なものだな」
その一言に沸き上がったのが羞恥だったら、この場にはいなかった。そして怒りだったら、もう少し前向きに生きられた。だがどちらでもなかったから、ダフィートはここに居た。
今、何より大事に握る剣は一流の職人が仕立てた名剣だが、鞘は正真正銘アルフェリドリーに伝わる家宝だった。混血の後継者が戦地で持てる、精一杯の見栄。もちろんこれだってダフィートの望んだものではなかったけれど、正当なるアルフェリドリーの後継者たる騎士が戦場に立つに相応しい体裁を整えたものだ。
剣まで家宝ではないのは、実戦では使いにくいという事情の他に、死地だと定めた身と共に刀身まで失わせられないという思いが拭えなかったからだ。
本来ならば貴族が死ぬような戦場ではない。だからこそ大魔導士の弟子が配置された。他の命を犠牲にすれば、無難にやり過ごせる程度の戦場だった。
そんな剣と鞘を大魔導士が看破したのだと思い至り、だがどのような感情を己は抱くのかを判じる前に、彼は弟子ごと姿を消していた。
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次に大魔導士の姿を見たのは、ダフィートが搬送された病院のベッドの上だった。
目覚めた病院は貴族専用だとすぐに気づき、身の振り方に迷う間もなくドアがノックされて、入室許可を得ることなく大魔導士は姿を現した。
「鞘はここの病院長に預けてある。君が回復次第返却するよう依頼した」
断りのない入室を気にしたふうも挨拶もなく、大魔導士は用件を投げかける。
依頼というよりは命令だろう。そうは思ったが、ダフィートにとってもありがたいことだったので口には出さなかった。本調子じゃない人の出入りの多い病室に、家宝を転がしておくわけにもいかない。
今日中には歩けて、明日の朝には走れるだろう。その程度の調子だと判断したけれど、軽々しく扱える類ではない。
「御足労をおかけしてすみません。感謝いたします」
「アレのおかけで助かったのは事実だし、一応、返さないわけにはいかないからね」
そして大魔導士は借り受けた責務は全うしたが、礼は言わなかった。それが大魔導士と呼ばれる男に許された態度だ。だがダフィートには許されていないから、礼を欠かないために身を起こす。だがそれすら、大魔導士に気にした様子はなかった。
「クリアリングはしたから、私の魔力はじきに剥がれ落ちる」
だが魔導士としては魔術に使った道具の扱いの方が重要らしく、魔道具として用いたものの扱いを補足して、ダフィートが言葉を理解したかを観察していた。
理解を求められたダフィートは、大魔導士の言葉を咀嚼する。
「確認が必要ならば持ってくるが?」
だがダフィートの理解が遅かったのか、実物を確認するかと問われる。
貴族としての嗜み程度は知っているけれど、アドフェリドリーは貴族でありながら魔術が使えない家である。魔術の多くは血に依存するから、混血となったアドフェリドリーは魔術と距離を置いて久しい。だから余計に大魔導士は理解の程度を観察していたのだろうが、ダフィートとしてはそれ以前の疑問に躓いていた。
「他者の魔力があると道具内部で反発し術式が暴走することもある、とは存じていますが、魔法剣として用いたことはありません」
過去には剣に魔力を添わせる技を使っていた者もいたらしいが、伝え聞くだけだ。アルフェリドリーが混血となってからは魔導士としての道は断たれ、魔力の行使は途絶えた。それでも構わない家だったからアルフェリドリーは血の同盟先として選ばれ、家宝は宝としての価値しかなくても問題はない。
そしてそんなことはダフィートの家名を知れば分かることだ。なのに大魔導士にその知識がない様子なのが不思議だった。
「では確認は不要だな」
「はい」
だがそんな疑問など意に介さないから大魔導士は大魔導士だった。魔道具としての鞘が問題ないとダフィートの確認が取れれば、それで良いと言わんばかりに観察を解く。
しかしその慎重な確認は、尊大ではあるが礼がないわけではない証でもある。魔導士ではないダフィートには魔力の残滓の有無などさして気にするものではないが、魔導士は違うのだろう。
実戦剣としてあまり馴染みがなかったから忘れていたが、鞘には剣へ魔力を付与する際に増幅する何かしら細工がされていたはずで、大魔導士はそれを用いたのは察することが出来た。
そんなあやふやにしか鞘というより魔術を把握していなかったものだから反応が鈍く、大魔導士にしては気を使ってくれたのかもしれなかったが、ダフィートにはそんなものよりも気にしなければならないものがあった。
「リズ様の護衛を」
大魔導士が口にしたから初めて耳に出来た名をダフィートが発声すれば、最も憎むべき敵を射抜くように睨め付けられる。肌を刺すような圧を持った敵意は、身体がとっさに反撃を試みそうになるほど圧倒的だった。
それを無視するわけにはいかず、大切な響きだから取り下げたくはなかったが、ダフィートは望みのために撤退を選択する。
「お弟子様、の守護を担わせてて下さい」
ダフィートの訂正に、大魔導士の敵意は和らぐ。代わりに考えるように寄せられた眉に詰まる思案を見逃さないように観察して、ダフィートは相手を図った。
大魔導士は家名を捨ててカークライトとなったとは言え、あまりにも有名な出自を知らぬものはい。
――フランツィスクス。
それが彼が捨てた家名であり、貴族の中の貴族と呼ばれる魔術の大家の名である。
貴族は生まれながらそうであるように、感情を表に出すことがない生き物だ。中でも貴族中の貴族とまで呼ばれると、王族よりもよっぽど腹の内は探りにくい。ダフィート自身も貴族でありながら、感情を表に出さずに独自の思考を巡らす貴族的態度を苦手としていたから、大魔導士の分かりやすい敵意はむしろ有り難かった。
分かりやすく不快と怒りを表して貰った方が楽だと言い切るには鋭い敵意を持つ相手であったけれど、すでに誇りも命も犠牲すると腹を括っていたダフィートには些細なことだった。
それよりも、大魔導士がその力を求められて戦地へ戻るのは必須なのだから、その力をもって弟子の守護を公認して貰うことが大事だ。
「一度は信じて頂けました」
言い募り、許しを乞う。
鞘を手渡すときに、抜き身の剣を手にしたまま近づくことを許された。だから突破口はあるはずだ。
自信を持った方が良いのか、縋るように憐れみを誘った方が良いのか。だが搦め手を使えるほど器用でないのも自覚しているし、自信や憐れみで結論を替えるような男でもないとも思う。
ダフィートの次を探る行為によって生まれた硬直した時間を経て、大魔導士は口を開いた。
「あの地に居る混血は、アルフェリドリーしかいない」
血まみれだったから貴族だとは一見して分からなかったはずだ。鞘を見破ったのだから簡単なことだったのかもしれないが、混血なのも外見では判じられない。
下々の方なら国の特徴も出やすかったが、ダフィートはすでに貴種が混じりあった帝国との貴種同士の婚姻だったからか、見た目から分かりやすい差異はない。特徴をあげるとすれば、貴族の中ではやや平凡で無骨なアルフェリドリーの血が濃い程度だった。つまり華美さが足りない、というだけだ。
「魔力の性質は血に準拠する」
しかし判別の理由は簡単で、ダフィートには見えない高みに座視する男の回答は端的だった。
そして、だからこそダフィートに微かでも信頼を寄せたのは混血だったからからだと知れた。前線にいる混血だから貴族であり、大魔導士に敵対する愚かさを身に染みて知っている。一族全てを人質に出来る自国の貴族だとあの混乱の最中に確定出来たのならば、他の人間よりは信頼に値したのだろう。脅すのに適した、と言い換えられる程度の信頼だったけれど、ないよりはましだ。
混血の二文字で背負わされたものを無視は出来ないから手放しでは喜べなかったけれど、混血でなかったら、今こうしてある意味で王よりも高みに座す男と相対出来ていなかった。
「……私には魔力はほとんどないと思っておりました」
「使えないことと、ないことは違う」
大魔導士はぶっきらぼうに答えながら、ダフィートを見定める目を反らさない。
値踏みしていると少しも隠そうとしない明け透けな視線を一心に浴びて、ダフィートも望みを持った視線を反らさなかった。
「私の出自をご存知ならば、あの方をどちらに移されても着いていけることがお分かりになるかと思います」
貴族でも、軍でも。
平民でも着いていく自信はあるが、豪奢な刺繍入りの外套を泥に広げることを厭わない様子を見れば、平民に紛れさせることを是とはしないだろう。
ふと見た外套は、白さと権威を取り戻して持ち主の肩にある。代わりがあるのかもしれないが、大魔導士ほどの者には大したことではなかったのかもしれないともよぎる。
それでもダフィートを見極めようとする視線は真剣だったから、ここを突破口として良いはずだと腹を括って活路を見出す。
「お弟子様を表立って害するものはいないかもしれません。ですが、害するものがいないと言い切れる地はこの世界の何処にもございません」
平民はともかく、貴族にあって大魔導士の庇護者を害せる者がいるとは思えない。口さがない者だって、嫌味の一つすら表立って言えやしない。だが、だからこそ目に見えない形で溜まった鬱憤は、どういった形で噴出するか見極めにくい。
それになにより、彼女は両方を救った。
誰の味方でもあると同時に、誰の敵でもあった。それがどういうことだか、ダフィートは身をもって知っている。だからこそ、自分が守らねばと思う。自分こそが守れると思う。
誰を傷つけてもいないのに、敵となる。その馬鹿げた理論で受けた苦渋なら、慣れた味だった。
「お前ならば守れると?」
「時間稼ぎくらいならば」
圧倒的な力を持つ、大魔導士が彼女の元に駆けつける時間くらいならば役立ってみせる。それくらいしか言えないのが歯がゆいけれど、権謀術数が苦手な身だから多くは望まない。それくらいしか出来ない己を知っていたから、返答を迷わなかった。
関わらない方が苦渋を重ねずにすむと分かっていても、ダフィートは突き進む。あの輝きは、失われてならぬものだという確信だけが胸にあった。
「隷属を受け入れるのなら許可しよう」
「お弟子様のでしたら願ってもないことです」
ダフィートの再びの即答に、分かりやすく感情を乗せる大魔導士殿は、分かりやすく不機嫌な顔をしてから、口を開く。
「良いだろう」
そして了承を答える間もなく魔術への宣言が行われて、行使される。大魔導士の唱詞と自分の魂が悲鳴を上げる音を聞きながら、ダフィートの意識は途絶えた。
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そうしてダフィートが目覚めれば、鞘だけではなくダフィートの自身も病院長に預けられていた。
大魔導士猊下の庇護するお弟子様の護衛。
その肩書の効果は絶大で、ダフィートは鞘を受け取ってすぐに彼女の病室に入室が許されて、そこからジワジワとどれだけのものが自身に許されたのだと知った。
彼女の病室のある階は、彼女しかベッドを使っていなかった。他の病人は他の階に割り振られ、
警備も扉の前ではなく、階内に入る出入り口をふさぐ徹底ぶりだった。
魔術に対する防御策も大魔導士が施して行ったらしく、専用の魔道具を携帯しなければ病室に入ることすら出来ない。ダフィートの手に戻って来た鞘はこの承認の魔術が施されており、結局元の形では戻っては来なかった。
それでもダフィートは構わなかった。
彼女の病室を訪れるのは治療に携わる者とダフィートだけで、身体が動くようになってからは唯一同じ階に部屋を与えられた。動けるようになってからなので、病室というよりは居室であるその部屋で、ダフィートは仮眠を繋げるように寝食を繰り返して主の目覚めを待った。
女性である主の身の回りは看護婦に任せたが、怪しい動きがないか、ナイフ類の不審な持ち込みはないかを、職務に誇りある看護婦を傷つけてもおかしくはないほど徹底的に調べた。だが神経質とまで言えるダフィートの行動に否を告げる人間はおらず、病院の建物すべてが“大魔導士の弟子”の安否に怯えていた。このまま事切れることはないと誰もが分かっていたが、目覚めぬ貴人は現在の戦局を左右するとも分かっていた。
彼女の身に何かあれば、大魔導士によってどれほどの厄災が振りまかれるか。
大貴族出身でもある大魔導士に、病院全体が震えあがっていた。
それを肌で感じながら、ダフィートは時間――この場合は、自分の体調が護衛に相応しい水準――が許す限り、苦し気に眠る主の姿を見つめた。時折、痛みに喘ぐように息を吐き、しばらくすると不快程度に落ち着く。主に対する思考としては不適切な自覚はあったが、苦痛であるからこそ生きていることが知れて、喜んでしまう心が何処かにあると自戒していた。
これが美しく眠っていたのなら、生を疑って何度も確認を取らなければならなかった。恐怖と喜びを繰り返すその行為を厭うことなく確認しただろうけれど、連綿と続く生はダフィートの心に安寧をもたらした。
美しい人。清き人。
隷属を受け入れたから、主である彼女が弱れば全身が警告を発して血が滾る。
それが怒涛のように戦場へ追い立てられた身に平穏をもたらしていたが、どこに居ても分かるというのに物理的に離れることが出来ない。
今だ目覚めぬ魔術師の卵は、絶望しきっていたはずの身に更なる絶望を見せてくれた。
敵も味方もなく手を差し伸べられる人。自身が穢れることを厭わずに走り続けられる人。
もうこの世には存在しないと思っていた、血で隔たれたものを厭わない存在。それがもたらす希望が集約され、唯一となっていた。
彼女が失われること。彼女の宿していた絶望が続くこと。
それはこの世界が真に地獄となった瞬間を意味するのだと、ダフィートは理性を超えたところで思ってしまった。それは同時に、自身の知るありとあらゆる絶望よりも恐ろしいことが生まれた瞬間でもあった。
騎士に憧れ、騎士であれと育てられ、騎士であることを支えとして生きていたが、混血の身にこれと定めた主は持てなかった。
「リモリ」
大魔導士が上げた唱詞の中で、最も魂が軋んだ音を舌で転がす。その度に魂が震えたから、きっと特別な音なのだろうと確信が持てた。そうして確信を重ねるたびに、自信を救った希望が形作られていく。
あの美しき魂の救済と世界の救済、あの清き魂の解放と自身の解放。
目的と手段と願いが混ざり合って、戦場で見上げた絶望の瞳と希望の舞が集約されていく。軋んだ魂の欠片がその中に混入されて、取り除く気も起きないまま再構築されていく。
すでに本来の魂を失った確信を持ちながら、ダフィートは未だ眠る貴人を見つめ続けていた。