救いの名
全身が痛い。そして重い。
内臓をグリグリ弄られているような不快感もあって、頭が回らない。落ち着け、落ち着け、と言い聞かせて、なんとか頭を動かす。
あ、戦場に居たんだ。
そう思い至ったら、死にそうに――多分、文字通り魔力切れを起こして死にかけていたのだから、今の状況も仕方がないと納得できた。筋肉痛の可能性もあるから嫌になるなぁ、と思う余裕を持つまでに随分と時間がかかった。恨み言を考える余地すらなかったのだ。
そうやって長いこと苦痛を誤魔化しつつ呻いてから、やっと目を開けることができた。
「お目覚めになられたのですね」
心底安心したという声が聞こえて、そちらを向く。
薄茶色のサラサラとした髪に光が反射して輝いていた。金髪よりは目に優しい色だが、派手としか言いようがない。
その綺麗な髪色の前髪からチラチラ見える眉毛まで綺麗で、しかしそれ以上に顔面に度肝を抜かれる。あの大魔導師も大概、元の世界ではそうそうお目にかかれない美形だったが、また違うタイプの美形だ。
ここまでくると比べるのもおこがましくて、自分の顔にコンプレックスを抱く余裕すらない。
そんな美丈夫が瞳いっぱいに涙を浮かべているのだから、死にかけから目覚めて一発目の情景としては破格の威力だった。
「只今、医者を呼んで参ります」
と、潤んだ瞳もそのままに席を立った背中を見つめてから、目を瞑った。目を開けているだけでしんどいのは勘弁して欲しい。
だけど少しでも情報を取り込むと、脳がぐわんぐわんと揺さぶられる感じがするから、目を瞑っているのが賢明だった。
「リズ様っ!」
なのにあの美丈夫が戻ってきて、大声を上げるものだから失敗した。青白い顔で目を瞑っている私は、さぞ死体のようだろう。
なんでこれほど心配されているかは分からないが、どうせ師匠絡みだ。あいつのお陰で戦場でも随分と好待遇だった。それを不快に思いつつも、享受していたのだから私も大概、聖人とは言いがたい。
「大丈夫。目を開けてるのが辛かっただけ」
しかし余計な心配をさせるのも忍びないので、目を開けて答える。視界には二人増えていたから、彼らが医者なのだろう。やっぱり有り得ないほどの好待遇だ。
「お怪我などはございません。お手を宜しいですか?」
そう言って手を差し出される動作に見覚えがある。こちらに来た当初、何度か大魔導師殿にやられた動作だ。
体内の魔素の流れを把握するためだと言っていたから、彼は医者と言うより魔法使いなのかもしれない。
了承のつもりで瞬きをすれば、すぐに手は重ねられた――と思う。多分。
何分、身体を起こせないし、手の感覚がないから、正確なところが分からない。
「我が師・ジルベスター・カークライトは?」
そう呼ぶことは本気で嫌だったけど、関係性ごと伝わらなければ意味がないので口にする。これ以上ストレスを溜めさせないでくれ、と舌打ちしたい気持ちを何とか堪えて、苛つく名を呼べば、涙をすっかり払った美丈夫が答えてくれた。
「大魔導士殿でしたら、まだ最前線におられます」
そっかー……
考えなければならないことは沢山あったけれど、それを一番にぶつけたい奴が側に居ないのなら仕方がない。身体も思考もままならないし、すべてを放棄して弛緩する。
その後に魔法使いか医者か分からない人がもう大丈夫だと太鼓判を押してくれたけれど、全く全然、これっぽっちも大丈夫じゃない私は、ひたすらに天井を見ていた。
知らない天井なんて何度目だよ、ちくしょう。
「リズ様」
と、そんな風に現実逃避をかましていたら、知らない名前を呼ばれていた。でも今は、その名なんだよな、と少しだけ首を動かせば、美丈夫さんだけが居た。
私の(暫定)名前を呼んだのは彼しかいない。
「リズ様、とお呼びしても?」
明らかに騎士とか、その他でも階級のある格好をしているから、側仕えとかではないはずなんだけどな、と脳が勝手に考えていたら、誤解をさせてしまったらしい。
おずおずとした申し出とは裏腹に、今すぐにでも膝をついて乞われそうな動作にぎょっとする間もなく、
「魔法使いは家名はないとのことでしたので、名の方が良いかと判断したのですが、許可なく名を呼んだ無作法をお詫び致します」
と膝がつかれていた。ベッドから動けないから姿がすっかり見えなくなってしまったけれど、声には真摯さと懇願しかなくて、困惑しかしない。
私の不興を買ったことに対する謝罪としては、過剰過ぎる。私はこれっぽっちも気分を害してないから余計に居た堪れない。
「詫びは不要です。その名で呼ばれたことがなかったので、反応できなかっただけです」
なんとか社会性を集めて状況の打破を図る。しんどいのに余計な力を使わせないで欲しい。それがあの男の権威に付随するのだろうと思うからなおさらだ。
「ずっとアホと二人きりでしたし、あの人は私の名を呼びませんので」
大体あの馬鹿は、本当に馬鹿なのだ。そもそも最愛の人の名で他人へ呼びかけたくないのに、その名しか与えていないとか自業自得でちゃんちゃらおかしい。だが別に、勝手に与えられた名を呼ばれてもこちらとしても業腹なので放置していた。どうしても呼ばなければならないときは、異世界人、無能、魔素吸収装置、一番まともなので弟子、だった。
羅列しただけでもくびり殺したくなるが、目の前の青年には関係のないことなので気持ちを切り替える。
「敬称は不要です。リズと呼んで下さい」
「それはなりません。あなた様は私の恩人なのです」
やっと膝をついて頭を下げたままだと私の視界から消えると気付いた青年がそのご尊顔を上げてこちらを見ていた。上体を起こされると、今度は顔が近くて勘弁して欲しいが、文句が言える状況でもなかった。
「覚える必要はございません。ですが私は、あの日、あの時、あなた様の絶望を知っている。ダフィート・アルフェリドリー、それがあの日、あなた様が救った男の名です」
ダフィートと名乗った男は私が意地になって駆け抜けた理由を知っていた。
怒り狂っていたし、正気だとは思えなかっただろうけど、あれが絶望だったと言い切れる人間は少ないと思う。だって、力だけは圧倒的だった。自分自身でやっていて、瞬時に効果の出る治療とか、気持ち悪くて仕方がなかった。
すぐに血が止まる。苦痛の表情がなくなる。どう考えても人間の所業じゃない。
その力の行使者が、絶望しているなんて考えないと思う。私なら思えないし。
その理由を探るべく、今まで避けていた真っ直ぐ向けられた瞳を見返した瞬間に悟った。
あの、泥だらけで血だらけな、私と同じ絶望を抱えた相手だと確信が持てた。瞳の色はあのときとは違ったけれど、意志の強さだけなら私が見た中で一番強烈で強固で、印象的どころか無理矢理記憶に刻みつけられるソレだ。
彼が誰かが分かった瞬間に、その意志の強い瞳がトロリと溶けて、半月を描く。
「あなた様に救われた男がここに居る。それだけはどうか、覚えていて下さい」
今までで――それこそ頭に人生で、とつけても良い――一番の強さで希われて、私は顔が熱くなるのを自覚していた。