3
珍しくこちらに柔らかい笑みで会釈をする年かさの女性が視界に入って、穏やかな気持ちは霧散した。会釈に会釈を返して、その姿が消えるまでは我慢したけれど、眉はどうしても寄ってしまう。
相手はシーツの洗濯や掃除を担当する、下働きのような人だった。
ここが貴族の屋敷ならば私の目に触れないような人々は、病院だから慌ただしくも視界の範囲を通り過ぎる。命を守るのに悠長にやっていられないのと、使用人出入り口を別にするような余裕がある場所ではないから、割と目にする光景だった。
だけどこの世界は身分によって隔絶の構造があることを徐々に知り始めていたから、彼らが私の目に映るのがどれだけ異例なのかをもう知っている。
戦場に近い病院で、なんとか患者の心を和ませようと慎ましく咲いている花壇を見下ろす。
小さくても誰かが誰かのために心を砕いている証を見つめて、この世界も悪くないのだと言い聞かせて、私は何とか駆けだせる自分を集める。
私という存在に慣れて優し気な表情で会釈をする手には大量のシーツが抱えられていて、熱心に仕事をする傍ら、私という人間に気を使ってくれる姿勢は、好ましいを通り越して尊敬の念を抱ける。
それでも隔絶を当たり前とする世界は、そんなのを簡単に上回る不愉快さがあった。体力が戻ってきたら、怒る元気も戻って来たみたいで怒りっぽくなっている自覚もある。
しかも私の不快はそれだけではなかった。
「あいっかわらず、あのクソ野郎の弟子というより恋人か妻って感じの扱いじゃない!」
部屋の外へ出歩くようになってトップに躍り出た不快は、ぶっちぎりで怒りを発生させる。
本気で抗議したい。でも抗議すれば抗議するだけ、照れちゃってまぁ、みたいな感じの態度を取られて反撃の仕方が定まらない。妙に確信めいた表情だから、こっちの抗議が乙女の恥じらいとやらに貶められる。現に先ほどの女性も、柔らかい表情の中に最愛の人の帰りを待つ、兵士の新妻に向けるみたいな慈愛があった。
「お寂しいですね」
なんて言われてみろ。自制がどこまで効くか分からない。なお実際に言われているので、今までは堪え切れたけれど、思い出しては体力の続く限り悪態をついている現状だとXデーは時間の問題だとは思っている。
そんな風にこっちの価値観で言えば、“大魔導士のお弟子様の扱いにくさを身に染みていない気安い下々”とやらは、大変私の神経を逆なでしていた。
忌避されるよりかは良いけれど、良いけれど! 一定の距離がある使用人の視線は視線で腹立たしい。
「その、御髪の色かと……」
あまりに怒り狂うからか、私の怒りに遠慮がちに口を挟んだダフィートに首をかしげる。
私の髪色と言えば、少しずつ薄くなっているような気がするくらいしか取り立てて可笑しいところはない。……いいや、認めたくなくて抗ったけど、間違いなく薄くなってる。
しかもただ薄くなるだけじゃなくて、あの大魔導師の髪色に近づいているから嫌なのだ。だけど魔力をため込める髪は、その性質に左右されやすく、偉大なる大魔導師の魔力の結晶とも言える魔力供給で命を取り止めたのだから仕方がない。
何故その原理を知っているかというと、この世界に来た直後はリズさんの魔力を元に召喚された影響をもろに受けていて、髪が真っ赤になっていて大慌てで原因に詰め寄ったからだ。説明が面倒だというのを隠そうともしない様子にブチ切れながら、情報を引き出すのには苦労した。
私の本来の髪色は黒で、だからリズさんとは似ても似つかないとアピールしたけれど、最低限の生命維持に必要な魔力以外は貯蓄不要な身体では、“本来の髪色”などあってないようなものだと一蹴されて今に至る。
だから自分の髪色が魔力の影響を受けやすいのは知っている。魔力の元となる魔素の段階だとその限りではないので、コロコロと色が変わるわけではないけれど。
「そりゃだって、魔力の提供を受けたんだから、こっちの人らの方が原因は分かっているでしょ」
それとも見た目の話だろうか。
パラパラと確認すれば、所々に黒が少し抜けて、紫がかった白が混じっていた。正直、白髪混じりのようなものだからガックリくる。白髪で悩むには早すぎだ。
それでも鏡越しの距離で見ると、ほんのり紫の光沢をまとうアッシュグレーで綺麗だから救われる。だがそれだって、正にロマンスグレーの原理って感じで萎えるから、堂々巡りだ。
「まだらと言えばまだらだけど、見苦しいほど?」
遠目から見る分には見苦しくはないし、そもそも見苦しいのと恋人扱いは別だし、謎は深まるばかりだ。だが耳目を集める理由には、一役買っているとは思う。
「お色の変化が急速ですので、その、大魔導師殿と……」
「大魔導士殿と?」
伸ばしっぱなしの髪を適当に掴んで観察しながら、妙に言いよどむダフィートを促す。だけどその言葉だけでは決心出来ない様子に、視線を上げてジッと顔を覗き込む。
そうしてやっと、彼は口を開いた。
「……一般的に、髪色が同一になるのは夫婦と言われてます」
そーゆうこと!? つまりはこう、魔力が混じるなにかをしてるのね、ってやつ。
「なっ」
「戦地から戻られて、ずっと起き上がることもままならず、こちらに居られたのを承知してます」
驚きが嫌悪を連れてくる前に事実を口にしてくれたダフィートには感謝しかない。
それで少しだけ冷静になれたから、うっかりダフィートを殺さずにすんだ。
「そ、そようね……あいつ、一度も顔出してないし」
色んな意味で動揺が収まらない。動揺しきったまま上体を揺らすから心配したのか、ダフィートが支えとなる腕を差し出しながら身体ごとこちらへ向き直る。しかしそんなことにも構っていられなかった。
「なのになんで、あの視線なわけ!?」
「他の者は部屋に近づいてはおりませんから、訪れがあったのかと邪推しているのです」
「来てないよね!?」
「来てません」
私が誰より知ってる事実を確認せずにはいられないほど追い詰められているから、力強く言い切って貰えるのは心強い。荒くなる語尾に握った拳が揺れて、優しさで差し出された腕にガンガンぶつけているけれど、構っていられない。
「いやいや、あいつの髪色は変わってないよね!? 会ってないから分からないけど!」
戦場で話題になって伝え聞く、とかがないのだから、妄想としか言えない邪推は否定されてしかるべきだ。みな大魔導士様の噂は大好物で、毎日のようにしているのだからそれくらやって欲しい。
噂話を直接聞いているわけではないけれど、私に対する態度が面白いくらいに変わるのだから察して余りある。隠しているつもりかもしれないが、案外伝わっているからなって思いながら我慢している私は大人だとは思う。なのに大人ではないやつらは察しもせず、お蔭でダフィートの声が困り切っていた。
「大魔導士殿ほどの魔力となると、ご自身が染まることはないかと思われますので……」
くそぅ。みんな大好き大魔導士様列伝が一つ追加されただけか!
カッと目が見開いて、呼吸が浅くなっているのか頭痛がする。それでも構ってられなかった。
「ほんっっっっきっで、さっさとここからおさらばしてやる!」
魔力を切れを起こしてから一番の声が出て、身体中に力が漲ってくるのを感じた。怒りが原動力なんて我ながららしすぎて涙が出るけど、この際わがままは言わない。目標第一っ!!