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意識はゆっくりと覚醒していった。
卵の薄膜のように思考に張り付こ、不透明だった。
倦怠感が全身を支配していた、指ひとつ動かすのも億劫だった。
「お目覚めですね。起き抜けで申し訳ないのですが、ゆっくりお休みもできませんよ」
聞き覚えのある声。ぼんやりとした視界に、ぬっと突然現れた月面顔。
「うあ!?」
驚いて跳びあがると、鋭い痛みが体を突き抜ける。
「申し訳ございません。でも起きてください。緊急事態は続いています」
ジュ・トゥ・ヴである。すべてが謎に包まれた仁科笑のエージェント。
そうだ、自分は歌を歌っていた。そして男に撃たれた。
恐怖で身がすくむ愛海。
「大丈夫ですよ。あの男は今お二人が止めております故。愛海様は愛海様のお仕事をしましょう」
ジュ・トゥ・ヴが指さした先。そこにはとても同じ人類がいるとは思えない状況があった。
菅野一人を相手に優姫と仁科が全力で戦っていた。その様はまるでアニメの戦闘シーンを早送りに再生しているようだった。
優姫の強さの秘密は、BCCでホルモンを操作し知覚速度を上げ、全ての筋肉をハイパーコンピュータ化した外部リソースを使い最適に操作しているからだと言う。では仁科はどうなのだろうか。
見た所確かに反応速度は尋常ではない。しかし別段、優姫のような同じ人間とは思えないような速度で動いているわけではない。
「ああ、お嬢様ですか? あの方は若干とても気が触れておられるのです。5万時間の戦闘シミュレーションを仕事と並行しながらひと月で終わらせる方ですから」
「ごめん、ちょっと理解できない……」
愛海は自分がゲーム廃人である自覚はあった。それでもプレイ時間は数千時間程度だ。それを5万時間。それもそれをひと月で終わらせるとなると、脳内時間を80倍速にも速めていることになる。現代医学でも脳への負担が大きすぎる為、脳体感時間を人為的に操作する事は禁じられている。それでもそれをやっている。もはや正気の沙汰ではない。
狂気的なまでに一途な正義感。正義の為にはいかなる犠牲もいとわないという、彼女の覚悟の現れなのだろう。
恐怖すら混じった感心を向けていた愛海だったが、すぐに頭をふって思考を切り替えた。今はそれどころではない。
「早く、しないと」
歌を歌いなおさなければならない。
もう一度と思った所で、違和感を感じた。
「お気付きですね? このエリアは、重度に汚染されています」
ノイズと言うには、あまりに論理的な異物感。それが見渡す限り全体に広がっている。
「菅野が、D3Cを直接散布しています。今お三方がそれぞれ対抗電子戦を行いながらもなんとか拡散を防いでいる状態です」
あらゆる電子的オブジェクトにドラッグが仕込まれている。




