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『愛海、大丈夫?』
「だ、だいじょうぶ、なわけない……!」
歓声と罵声が、濁流のように、小さな愛海の体を押しつぶしていた。
手が震えた。いや、全身がすくみ上っていた。
電子世界でなら、今この場にいる人間の数倍以上の前でだって歌えていた。
これが、電子世界と現実世界の違い。
呼吸すら、瞬きすら、鼓動すらも押しつぶされて動きを止めかねない。
「だ、だめだ、できない……」
自分の声だと理解できないほど震えている。いや、声を発していた事すら動揺しきった彼女はわかっていない。
ラヴァーの施した電子色覚迷彩のおかげで、BCCによって視野を掌握されている人間からは今の愛海を見ることはできない。
それでも、この状況に飛び込めるほど腕っぷしに自信なんてあるはずがない。
「で、でも、それでも……」
震える手を握りしめた。
ここで、歌を歌うのだ。
すぐ目の前に奇声を上げて暴れる人間がいる。
そんな姿をさらすのが、彼らの目的ではなかったはずだ。
歌を聴いてほしい。認めてほしかった。
その結果がこれだとしたら、自分は間違えていたのだ。
なら、正さなければいけない。自分の破滅がわかっていても、正義のために引き金を引いた父がいた。ならばその娘が、この状況を正す引き金を引くのは道理だ。
『準備は、整いました。いつでもどうぞ』
「わかった……」
震えは、止まる気配がない。全身が冷や汗で冷え切っている。
「いく」
呼吸を、深く、自分の体の足の指先まで深く、全身の隅々まで呼吸を押し込むように吸い込んで、一瞬だけ止める。
そして、桃色の唇を開いた。




