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そんなことが果たして可能なのだろうか?
理論上はできるとしても、それは数学的な可能性の話しであって、現実的な話しではない。それを現実に造作もなくやっている。優姫であっても当事者に気づかれないで遂行する事は不可能である。
二人は頭の悪いコメディを見ている気分と、絶対に立ち入られたくない絶対的固有圏に土足で踏み込まれた不快感に襲われる。
「ラヴァー、って、千の無貌の……?」
不快感の中、愛海はクラッキングされたBCCが見せるそれが語った名前に、ひとつ思い当たるものがあった。
伝説として語られている、特級のクラッカー。それがラヴァーと名乗っていた。政府最重要機密を新聞を読むように、造作もなく盗み見るという。無数のIPを持ちその正体を特定することは不可能とまで言われた存在。
口から出任せかと思う半分、今現状でそれは二人のBCCに侵入し、自分をアバターと見せている。そもそも”見えない”ようにしていた時点で、二人には想像もつかない芸当を行っているのだ。
「こんなわかりやすい所にいても捕まるだけだ。さっさと移動するぞ」
踵を返して歩き始めた。
「い、いやいや。外に何て出たら」
「自分らの顔、よく見てみな」
わざとらしくため息で優姫の言葉を遮り、振り向いて鋭く言い放つラヴァー。
「お、おいっ!?」
突然声を上げる愛海。驚いて優姫が振り向いて見た。
そこには、先ほどまで愛海がいたはずのベッドには、見知らぬ少年がいた。
どこかリスを連想させる大きな目を瞠目させている少年。誰かが入れ替わる気配はなかった。
いや、答えなど分かり切っている。
「これ」
少年、愛海が指さした先。大きな姿見には、予想通り見ず知らずの青年が映っていた。
もはや常識をかなぐり捨てた事象に、めまいを感じた。先ほどからあり得ないという言葉ばかりが思考を埋め尽くしていた。
「僕が保証してあげよう。今の君らを、行村愛海、葛城優姫だと気づける人間はいない」
電子世界の事情を少しでも知るものに、”ラヴァー”の名前を知らない者はいない。
そのクラッカーの作り出した伝説は数知れず、BCCネットワークの登場で情報通信最先進国となった日本の警察ですら逮捕ができず、公にその存在は否定され続けている。
そんなおとぎ話の伝承レベルの存在が、今目の前にいる。二人に魔法をかけているのだ。
「外に出て、どうするんだ……」
愛海が小さくつぶやいた。
振り向いた”ラヴァー”は小首をかしげた。
「外に行ったって、なにしたって、捕まるんだ」
絶望に打ちひしがれて、無気力に染まっている。
「葛城優姫。こいつを警察に差し出して恩情貰え。お前はこいつの犯罪に巻き込まれただけだ」
立体映像の下で、おそらく不敵な笑みを浮かべているであろう”ラヴァー”の言葉に、一瞬怯えてすがるように優姫を見上げた愛海。
その顔を見ずとも、優姫の決心は変わらない。
「そんなことできるか! オレは、もう誰も見捨てない!」
噛みつかんばかりの剣幕だったが、少女のホロディスプレイに包まれたそれは特に気に留める様子もない。
「ならさっさとやる気にさせろ。お前ひとりじゃ、死体の山を作るくらいしかできないだろ」
呆れの気配を隠す素振りもせず吐き捨て、”ラヴァー”は踵を返した。
「愛海。いこう。ここにいても、何もできない」
何もできないのは事実で、そのことはわかっているだろう。
しかしここから出て、何をできるというのか。
国家を相手にしているという恐怖が、重く圧し掛かる。
「大丈夫だから。オレが、付いてる」
肩を抱いて、力強く宣言する優姫。その言葉に縋り付きたくなる愛海は、ただ恐怖心で信じり切ることが出来ない。
泣きそうな顔の彼女。
「信じて。今後、何があっても、オレは君を裏切らない」
悠然と微笑みを浮かべる、真剣な声。
「ぜったい?」
「絶対。だから、行こう。ひどい目に合わせた奴ら、全員オレがぶっ飛ばすから」
恐怖心がぬぐい切れたわけではない。ただ優姫といれば大丈夫という、根拠のない希望が湧いてくるから不思議だった。




