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マンションから飛び出し、愛海は即座に対抗電子戦を始めた。
国家が本気で追いかけてくれば、まず逃げ切ることはできない。だが時間を稼ぐことはできる。
自分たち二人のIPを偽装し、近隣にいるBCCへ侵入。交互通信ネットワークへ偽のIPを使って接続し、自分たちの通信を仮だが回復させる。
ネット上で自律待機させておいたエージェント《AI》に新たな指示を飛ばし、情報の収集と違法回線の接続を命じる。
通信が回復すると、愛海は少しだけ生きた心地が戻ってきた。彼女にとっての電子回線は五感よりも遥かに重要な感覚のひとつだった。
以前仁科に追われた時の経験から偽装工作と情報収集は、エージェントを駆使し最大限行うようにしていた。完全に遮断された時のためにこうして手を用意しておいた。それがまさかこんなすぐに役に立つとは思わなかった。
優姫に抱かれたまま、30分以上は走った。
住宅街を抜け、繁華街へ。普段なら絶対に入らない地域に踏み入れる。
さすがの優姫も、疲労が蓄積していた。肩で息をしながら、額に汗を浮かべていた。
「どこかに、入ろう」
手近なホテルを検索し、その中でも非BCC依存の店舗を探す。本来ならBCCに依存しないのは法的にグレーなのだが、法的に黒い事をしたい者の為の店舗というものは必ずある。また取り締まる側もそれを知っていながらも、見逃しているのも事実だ。人間の社会は白こそが是であると誰しもが口にしている。しかし白と黒を完全に決別させてしまうと、社会は瞬く間に破たんし崩れ去るという矛盾をはらんでいた。その歪みを正す術を、未だ誰も見いだせていないのだ。
一番近くにあった店舗に入ると、旧世代的な自動予約機から部屋を選択し、カウンターで現金を払う。鍵を受け取り、三階の部屋へ向かった。もしもの時の為に、現金というBCCに依存しない武器を必ず持つようにと、言葉少なく2人に助言したのは仁科だった。
室内に入ると、一通りの安全を確認して、優姫はキングサイズのベッドに倒れこんだ。どっと疲れが噴き出し、体が鉛のように重たく感じた。
連日の過剰稼働で、頭の芯が熱をもって膨張しているのが自覚できた。数時間は何もできない程度には深刻な蓄積疲労だ。手動で脳内ホルモンの分泌量を操作し少しでも早く回復するように最善を尽くす。
脳内ホルモンの調整という、両手に持ったピンセットで一ミリの折り紙で鶴を折るような作業をしながらも、情報は仕入れなければならない。重い頭を働かせようとした時、隣に愛海が身を縮め腰かけた。
見るからに顔を青ざめさせた彼女は、小さい体を震わせて手元を見つめていた。通信状況はある。どこかにハッキングを仕掛けているようだ。
「なんでこんな状況で、偽装回線使えるんだい?」
突然降って湧いた声に、優姫は反射的に飛び起き身構えた。
「誰だ!?」
「誰も彼もない」
虚空からの声。誰もいない部屋の隅からの声。聞こえ方からおおよその位置を探るが、そこには”誰もいない”。
「ああ、お前らには見えていないか。それなら、こうしたら見えるかな?」
何もなかった空間から、ハートマークが浮かび上がった。
「な、なんだ?」
手を伸ばしかけて、虚空に浮かんだハートマークがあからさまに舌打ちする。
「なんだ、じゃあ、こうしたらいいか?」
一瞬ノイズが空間に走り、ハートマークが人に変わった。
どこかで見おぼえのあるその人物は、二人が通う学校の制服を着ていた。
「あ、この前の……」
そこで優姫がその人物を思い出した。先日起きた学校での大事件で、科学準備室にいた少女だ。心もとないという顔を浮かべ、先日と同じように耳に手を当てた。
「お分かりいただけたかな? まぁ、今はとりあえず、ラヴァー、とだけ名乗っておく」
あの時の少女の声で説明するが、見えている口の動きとセリフが一致していない。見えているのはあの時の動きを再生して二人に見せているだけなのだ。一致しなくて当然だろう。
そこにいる。だが、見えているモノは別。愛海と優姫のBCCにクラッキングし二人が見ている姿を書き換えている。




