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昨晩の事は、よく覚えていない。
ただ、ひどく動揺していたのは覚えている。柄にもなく物に当たって、喚き散らした。右手に巻かれたシップと包帯がその証拠だ。
穴があったら入ってしまいたい衝動を堪え、むくりと起き上がる。そこで違和感を覚えた。
「おい……」
通常BCCの通信は常時開かれている。それがこの国の公安につながるためだ。
それが今、圏外となっている。
その異常事態を体験したのは、一度目が今目の前で眠っている、実は年齢がそう変わらない少女と初めて対面したあの日。
これが人生で二度目の経験だった。
そして彼女も異変に気付いたのか、突然パッと目を開くと音を立てて起き上がった。まさに飛び起きるという言葉そのものの動きで、彼女は寝間着を躊躇いなく脱ぎ捨て、引き出しから引っ掴んで出した下着をつけて服を着始めた。
それを黙って見つめていた自分が、逆に恥ずかしくて顔が火照る。同時に昨日の事がフラッシュバックして加速する。
「起きてください。何かが」
仁科の言葉の最中で、来客を知らせるインターホンが鳴った。
その音で飛び起きた愛海も、弾かれるようにドアを見た。
そして愛海と優姫はマンションのローカルエリアネットに侵入し、ドアの外を見ようと試みる。しかしそれもできない。このマンションのネットワークが完全に封鎖されている。ただ事ではない。
そして二度目のチャイムが鳴る。
「警察か」
つぶやく優姫は、何か聞いていないかと仁科を見た。しかし彼女は首を横に振る。
「私は何も聞いていません」
いつでも外へ出られるように二人が人生最速で準備を終えた瞬間、玄関のドアが強制的に開かれた。
「警視庁です。行村愛海さん、葛城優姫さん、二名に逮捕状が出ています」
雪崩込む人。戦闘服を着こみ、大口径ライフル弾ですら止める強化ポリカーボネイトの盾を持った機動警ら隊員。その後ろには制服を着こんだ警察官と、仁科の見知った顔が1名。
ソードダンサーを起動させた優姫は、1000分の1秒で愛海だけを連れて逃げるという選択肢を選び、彼女を抱いて窓の外へ飛び出した。
「待てッ!」
「2名逃走! 容疑者両名逃走!」
そのやり取りを見送った仁科は、無抵抗の意思を示す。
そんな彼女を警察は見て見ぬふりをして、逃走した二人を追ってバルコニーに半数、残りは外へ飛び出していった。
「天才。どうしたんだ?」
波が引いた部屋に残った彼女の直上の上司。
「ええ。私としたことが失敗しました」
「ハァ……。こっち来い」
そして外へ出ていく上司に、仁科は無言でついていった。
マンションを出ると、立体映像で偽装された警察車両が隊伍を組んで待機していた。
その中のひとつ、公安局所有の乗用車に乗り込む。
狭い6人乗りの車内。右前の席に、すでに先客がいた。
バーチャルネットワーク規制委員会次席監査官、菅野秀人、ですか……。
記憶にある彼と、その人物が一致すると、仁科は気付かれないように嘆息した。
その人物は狭い委員会の中でも有名な人物だった。野党の癒着がささやかれる彼と、いまだに電子的な閉鎖状態が解けない自分のBCC。この2つから意味する事を理解できないわけがない。
「仁科主任捜査官。ここで問責をする気はない、が、これはどういう事態なのか、説明を求める」
鼻につく声。敵意を隠す気もないという鋭い視線を、ルームミラー越しに向けている。
「どうするも、まだ私は事件の捜査中ですが?」
報告書は上げている。今自分の右隣に座る人物に、定期的に送っていた。
「では、この事態も捜査の内だと?」
「ええ」
うなずいて見せると、あからさまな嘆息が聞こえ、フェイストップ上に昨日の惨劇の事後処理報告が表示された。
「1名死亡。10名が脳に著しい損傷を受け、現在脳理化学研究所のICUで治療中」
いちいち説明されることに仁科はイラ立ちを覚えながらも、一応その資料に目を通す。どの部屋で誰に治療を受けているのか、それが重要であるが、そこは開示されていない。
「……黙秘か? わかった。現時刻をもって、仁科笑の捜査権限を停止。24時間拘束する」
初めて隣の上司が息を飲み、何かを言いかけて、そして口を閉ざす。
そして菅野は無言で車を降りて、別の車に乗り込んでいた。
「……ヘタレですね」
小さな声でつぶやくと、上司である男は顔を顰めた。
車はゆっくりと走り始めた。




