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「さあ、終わりました。湯船に浸かってください」
そっと手を添えながら優姫を立たせ、湯船へ誘導する。そしてゆっくりと浸かるのを見届けると、今まで優姫が座っていた椅子に座った。
「右手をお湯につけないでください。出たら手当をします」
そういって忠告した仁科は、自身も身を清め始める。
湯船につかりながら、優姫は自分の手足を見た。
先ほどの激戦。人の体に暴力を振るう感覚が、まだ残っている。
そして、怒りのままに殺した少女。
自分の行いで殺めた事実。
言葉ではない。ただ獣の咆哮に近い絶叫が、胸の奥からあふれ出ていた。
頭を掻きむしり、身を捩った。
「落ち着いてください」
壁に体を打ち付けようとした瞬間、力強く、彼女の体が引き寄せられた。
突然抑え込まれた事で、抵抗を試みる。しかしそれと同時にまた暴れるのかと囁く声が耳の奥から聞こえた。
なにが自分を止めるのか。顔を上げるとまっすぐに見つめる仁科の顔があった。
「落ち着いてください。衝動に駆られても、何もありませんよ」
落ち着いた声音。普段より若干下げられた声。胸の奥で暴れていた感情が少しずつ収まっていく。
「……」
「……」
柔和な微笑を浮かべながらとんとん背中を優しく叩かれた。いつしか激情は鎮火していた。
落ち着いて見れば、状況が状況だけに優姫の顔はみるみる赤くなり、視線を合わせることもできなくなる。
「落ち着いたみたいですね」
ぱっと手が広げられると、するすると力なく湯船に沈んでいく優姫。その真向いに腰を下ろした仁科は、ふうと息を吐いて足を抱いた。
優姫とても仁科を見ることができなかった。視線をそらし同じように体を抱いて縮こまった。
「そ、その。悪かった。いや、ごめん。ちが、その、あ、ありがとう……」
何度も言いなおす優姫を見て、仁科はぽつりとつぶやくように尋ねた。
「……人を殺めたのは、初めてですか」
「おまえ、オレをなんだと思ってる?」
横目で軽く睨むと、湯に浸かりリラックスしている彼女が見えた。
「あんたは、どうなんだよ……?」
「公安の特務捜査員ですよ、私」
表情を変えることなく答えた彼女に、返す言葉が見つからなかった。
仁科が常に浮かべる柔和な笑みは、仮面なのだ。誰にも本心を悟られず、そしてあらゆる手を尽してでも自分の正義を絶対に貫く意思を隠す為に被っている仮面。その強すぎる信念は、おそらく誰から見ても畏怖を生んでしまう。だからひた隠しにする為に笑みの仮面を常に被っている。
年齢はさして変わらない。それなのにゆるぎない。この少女だって、茨の上を裸足で歩いているはずなのに。いつも涼しい顔をしている。どれだけの覚悟の上にいるのだろうか。
気まずさに視線をまた外すと、やはり情景がフィードバックしてきた。
「守りたかった、だけなのにな……」
人を殺めるために、力を振るっているわけでない。
「誰も、悲しませたくないのに……」
つぶやくと、両目から雫が滴った。次から次へととめどなく溢れる。
目の前で拳を作り、硬く握る。鈍い痛みが走る。
その拳を、白い手が包んだ。
「あなたは、よくやっていると思います。例え他の誰かが、同じ力を持っていたとしても、同じようには立ち回れないでしょう」
諭すような口調に、決壊したダムのように、こぼれる雫は止むことはなかった。
「次は、次は絶対、間違えない……」
「ええ」
「間違えないから。絶対、全員を助けて見せるから」
だから、今だけは。
涙が贖罪になるとは、思っていない。許しを請いたいとは思わない。
この日を、今日という、人を助けるために人を殺した今日を、一生忘れないと誓っていた。




