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「今は、少しだけそっとしておいた方がよさそうですね」
珍しく表情を曇らせる仁科は愛海の背中をそっと押して、居間に向かおうとした。
その時、ドスンと重たい衝撃音が脱衣所から聞こえた。
「開けますよ」
愛海の目には仁科が瞬間移動でもしたように見えただろう。有無を言わさずドアを開けた彼女が見たのは、洗面台の鏡に拳を打ち込んだまま固まる優姫の姿だった。
強化ポリカーボネート製の鏡が大きくゆがんでいた。
「だ、大丈夫、か?」
仁科の陰から愛海が尋ねる。反応はなかった。
「……重症ですね」
嘆息するような響きを含みながら、仁科がつぶやいた。
鏡に打ち込んだ拳を掴んだ仁科は、力任せにそれを引っ込ませた。
「感傷には、あとで浸ってください」
顔を上げた優姫。そこに表情はなかった。ただ虚無と疲弊しきった表情があった。
「ジュ・トゥ・ヴ。行村さんに温かい物を」
「承知いたしました。それでは、愛海様。こちらへどうぞ」
ホロディスプレイに出力されたジュ・トゥ・ヴが演技臭い仕草で愛海を居間へと案内する。
心配するような顔を優姫に向けながらも、今の彼女を見るのはいたたまれない。愛海はおとなしく彼についていく。
「さて」
ドアを閉めた仁科は、さっと躊躇なく優姫の服を脱がせて洗濯機に放り込んだ。それに対して優姫も何も抵抗をしなかった。
そして浴室のドアを開けると、濃密な湯気が肌を撫でる。
「座ってください」
命令口調に従順に従った優姫は、浴室の抗菌プラスチック製の椅子に座った。
それを横目で確認すると、仁科は自分もさっさと服を脱ぎ洗濯機へ入れる。スーツだけは畳んで脇に置いた。
そこまでをごく自然な流れて行った仁科は、ふと人前で服を脱いだが記憶に残る限りでは初めてである事を思い出した。そんな場違いな考えがよぎったが、さっさと忘却して彼女の背後に立った。無感動無感情に限りなく近いと自他ともに認識ていたが、かすかにだが気恥ずかしさ残っていた。
鏡に映る優姫の肢体は、ネコ科の動物を思わせるほど整っている。まさしく芸術品と云って過言ではなかった。
細く長い手足は思わず手触れたくなる肌で覆われ、野生の猛獣のように強靭でしなやかな筋肉が支えている事は見て触れれば誰もがわかる。
無駄や過剰な装飾の無い、機能性が極められたという肉体に仁科は思わず見つめてしまったが、すぐに我に返った。
「流します」
後頭部でまとめられた髪の毛をいったん解き、タオルでまとめ直した。それから温度を調整したシャワーの湯をつま先からかけて行く。
反応はない。
顔にかけてやれば生存本能で何かしらのリアクションはするだろうか、そんな考えがよぎるが、求める意味がないのでやめて、鏡に映るうつろな優姫の顔を濡らした手で拭った。
抵抗の気配がない。肩をすくめると、髪の毛をまとめていたタオルを解いた。
優姫の髪は背中まである。夜を垂らしたような艶やかな黒である。その髪の毛にも今は点々と赤黒く変色した血潮が付着していた。それを丁寧に洗い流していく。時間が経つと落ちなくなるので髪を切らなければならい。それはどうしてか心ぐるしく思ったので、丁寧に洗い落としていった。
「昔は、よく姉に髪を洗ってもらっていました……」
誰に言うでもなく、仁科がつぶやく。
その独り言を耳にして、優姫がわずかに反応した。
泡を洗い流し、コンディショナーを塗布して流す。
「昔は、って、今は?」
鏡越しの優姫が、仁科の眼を見つめた。まだ虚ろ気だが、先ほどよりかは大分マシになっている。
「死にました」
きつ然と告げた彼女に、尋ねた優姫が悲痛に顔をゆがめた。
「悪い……」
「何も悪いことはありませんよ」
肩を落とし悄然とした優姫に、やはりきっぱりと答えた。
「私は、姉の愛した電子世界を守りたい。今、彼女がいる、その世界を守るためなら、私は天すら焼いて見せます」
「わが正義を貫け。たとえ天を焼こうとも。ってわけか」
仁科の表情は変わらない。ただ静かに、もはや狂気すら滲む”正義”が垣間見えた気がした。それがいかなる手段を取ってでも解決に導く彼女の信念の根幹なのだ。その信念があるからこそ、彼女はただまっすぐに目的へ突き進めるのだ。




