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愛海の心臓はすでにいつ破裂してもおかしくないほど早鐘を打ち鳴らしていた。
元々運動は得意ではない。この3ヶ月は学校すら通っていないため、運動らしい運動はまったく行っていない。
ビル間の細道に身を潜め、自分を隠せる大きさの物体《薄汚れた箱》を立体映像で表示させて身を隠す。生体コンピュータの接近を知らせる警報アプリケーションを設置する。
ガクガク音を立てそうなほど震えていた膝がついに崩れ、その場に座り込んでいた。痛みを訴える胸に手を当て、服を握りしめた。脇腹が締め上げられ、吐き気がこみあげてくるのを必死に押し込んだ。
「はぁッ、はぁッ!」
荒い息が喉を焼く。汗が玉になって滴り、立体映像で隠された自動環境適合服に吸収され冷媒として循環し体温を下げていく。
生体信号が乱れているという警告が、視界を埋め尽くすほど複数浮かんでいた。
頭の中はネズミが跳ね回るような混乱が騒ぎ周りに、収束の糸口すら見当たらない。
「な、なんで、なにが……」
混乱を極める脳内。その中で今日一日が走馬灯のように蘇っては、問題点を調べ上げる。
今日目覚めてからライブまでの間に犯した罪。上げられるとすれば、幾つかの機密情報を盗み見た程度だ。その程度で公安委員会の強制捜査が来るとは思えない。出て来るとすれば警視庁の電子犯罪対策部隊のはずだ。それよりも彼女は何と言っていた。規制法の一条四項と言っていたはずだ。それはどんな条文だったか。無意識のうちに検索をかけていると、
「面倒な能力をお持ちのようですね」
愛海は完全に我が耳を疑った。突然降って湧いた声に、現実を疑った。
警報は鳴っていない。ならば近くに人がいるはずがない。そう考えるのが当たり前の事だ。
この時代の生体コンピュータ【BCC】の普及率は、98パーセントを超えている。残りの1パーセント強は高齢者などの処置が施せない例外的な人々であり、こんな所で捜査官の職に就いているはずがない。
カツンカツンと音を立てて何かが近づいてくる。そんなはずはないと否定する頭と、もしかするとという心理がせめぎ合う。
嘘か誠か、BCCを持たない秘密警察が存在するという都市伝説。BCCに依存しきっているこの社会において、その存在は社会基盤を揺るがす存在である。あらゆるセキュリティはBCCの個人認証を前提に作られている。つまりはそのセキュリティが通用しない事になる。そんな存在に対抗する手段を持つ者は、この時代には存在しない。あってはならないとされている。
顔を上げた愛海。その目の前で仮想現実の構造物をない物のように無視して突っ切ってきた女。朗らかな微笑を浮かべる姿が、非現実的すぎて煉獄の悪魔を連想させた。
「う、うそ……」
「おとなしくしていてください。もう一度抵抗を見せれば、こちらも一切の手加減抜きで逮捕しますよ」
目前に立ちはだかる女が、小首を傾げ場違いなほど愛らしい笑みを浮かべて愛海を見下ろしていた。その目はガラス玉のようでいて、その実奥底に地獄を垣間見せる門のようにどこまでも憎悪と嫌悪、侮蔑と排斥といった感情が見えて、愛海の深層意識に深い恐怖を刻み付ける。
火照っていた愛海の体が、瞬く間に冷たくなっていく。
女の手には、けん銃が握られていた。銃口は愛海の胸に向けられている。微動だにする事なく、まっすぐに今すぐにでも愛海の薄い胸を撃ち抜こうと狙い澄ましているのだが、それ以上に女の視線の方が恐ろしく思えた。
一歩、女が近づいた。愛海の唇が戦慄いた。
その瞬間、愛海の仕掛けた警報が一斉に鳴った。