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片方の眉を上げて首を傾げた仁科は、諦めたようにため息を吐いて座っていた場所に戻った。
「ごちそうになります」
「よっし! じゃ、作るか!」
跳ねるように立ち上がった優姫は、袖をまくりながらキッチンへと向かった。
なんでそんなのやる気出してるんだよ、と内心でつぶやきながらも、愛海はそれ以上に目の前の三つ揃えを着こんだ月面顔の男に興味向いてしまう。
仁科のエージェントだと云うそれは、愛海の目にも只者でない事がわかった。本来であればエージェントというのは個人のBCCの処理領域から出現するものである。そのはずがそのエージェントは外部から来ている。試しにジュ・トゥ・ヴの情報を逆探知してみた。
当然のように通常の回線ではなかった。何十億本で構成されたあみだくじのような、複雑すぎる通信回線を手繰りよせ、どこから、どうやってここに来ているのかを探り出す。
仁科が何らかの手段を使って、BCCを使わない通信を可能にしている事は予想できる。そうなれば彼女のBCCを経由して送信されいるはずがない。このエージェントはいったいどこから来ているのか。一見でも並大抵の処理速度ではない。BCCクラウドコンピューティングを行わず、どうすれば彼が顕現できるのか。愛海の好奇心はそれが気になってたまらなくなっていた。
「おやおや。いけませんねぇ。可愛いお嬢さん。そこから先は違法ですよ」
となりで正座する月面顔に、愛海は笑みをこぼした。
「違法がこわくて、猫は殺せないよ」
隠し切れない知識欲のまま、愛海は追跡を続行する。
ただ迫っては見えてこない。本物をさらけ出させなければならない。
世界が塗り替わる。
あらゆる事象はすべて情報で、物理という概念の薄皮一枚下に走る電気信号の世界。
物理世界と電子世界を反転させ、愛海の目には0と1だけのきわめて単純な電子世界が現実となる。煩わしい人の言葉よりも、愛海には機械の語る単純な機械語の方が理解にたやすい。
情報通信という信号だけで構成された世界上で、愛海は仮想の戦艦と爆撃機を用いて、彼を攻撃した。
「ダミーを全てパンクさせて、本物を見つけると? いい判断ですね。我慢比べといきましょう! あははは!」
愛海の情報による艦砲射撃と絨毯爆撃は、着弾の瞬間にエージェントにより迎撃されて無効化されていく。
空間を埋め尽くす飽和攻撃を、迎え撃つはそれらを一撃で射ち落す狙撃のような対空砲火。
このエージェントは、超常ならざる存在だ。こんなものは、愛海は見た事がない。政府の要所や、BCCの研究所へ侵入した時よりもはるかに高速で困難な対抗策を打たれて、興奮していた。
正面玄関は塗りつぶすように、圧倒的情報量でぶち破った。次はその奥、通信の奥底へ。
「悪いお嬢さんですね。迷宮に落ちて、一つ目の怪物に出会ってしまいますよ?」
「迷宮なら、必ず出口はある」
不敵な笑みを浮かべ、攻撃を強めた。
彼がここへ来るのに使う回線が、愛海の攻撃によって次々と焼き切れていく。それらは全てダミー。今こうしている間にもあらゆるバイパスを経由して、彼は日本中にその本体を隠している。
「見えた」




