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電子世界の歌姫  作者: 夜桜月霞
悲観的な歌姫
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「と、いう情報が上がっています」


 斜め後ろに控えた月面顔が慇懃に腰を折りながら報告する。


 目の前に膨大な紙の崖が築かれた仁科のデスク。国内で発生する全ての電子犯罪は一度各署で対処し、必ず仁科の手に入るようになっている。


「どうせ仁科さまがお読みになられる時には電子情報にしてしまうのだから、いちいち紙に印刷しないでもいいのではないですか?」


 紙束に手を触れるジュ・トゥ・ヴのぼやき。


「分かっているでしょう? そんな事すれば、改ざんも略取も簡単に出来てしまいます」


 紙であれば、少なくともどこらでも操作ができる、という事はない。


「なら、なぜわが主さまは電子情報へ改ざんしてしまうのでしょうか?」


 体を90度横へ折り曲げながら、月面顏が仁科の顔を覗き込む。


「私の中に入り込めるテロリストがいたのなら、是非顔を見てみたいものですね」


 日本でたったの7人しか確認されていない、BCCの完全停止能力。他者の不正アクセスを感知した瞬間、仁科のBCCはオフになるよう設定されている。理論上侵入ができないがゆえに、仁科は本来転写、電子化厳禁の紙資料を電子情報に置き換えて処理する。


「あはは。さすがは笑さま。さすがは”恋人ラヴァー”ですら手なずけた女傑」


 笑う月面顏に嘆息し、仁科は紙でできた崖を眺めた。


 BCCを悪用する犯罪は後を絶たない。ただの悪戯もあれば、銀行や大企業の重要データを改ざんするものまである。その犯罪は日に日に巧妙化する上、サイバーナチュラルとも呼ばれる、若年層のハイレベルクラッカーまで現れている。彼氏彼女たちは人語以上に機械語を理解している、そもそも機械言語をそのまま理解しているのだ。既存の機械語を人語に翻訳している人類よりも優れたアドバンテージを発揮して当然である。


「軽度犯罪は適度に対処してください。刑罰表に従って、私の名前で書類を作って構いません」


「仰せのままに」


 サイバーエージェントとは本来なら使用者のサポートをする程度が関の山である。最近であればネット上にエージェントの論理回路《AI》を改造し、自我のようなものを芽生えさせるものも多い。もちろんそれは違法だ。極端な知性は必ずあらゆるモノに負担と大きすぎる変化を与えてしまう。


 とはいえ、幼少期、仁科がBCCを完全停止するという、社会基盤を根底から揺るがす能力を手に入れた時からお目付け役として強制的に与えられた存在はどうなのだとも考えていた。


 本人からは自分がただの人工物であることは間違いないとしか聞いたことがない。しかし言葉の端々に下手な人間よりも思慮深く、ただのAIに収まりきらない部分がある事がうかがえる。


「おや、どうされました? はては惚れしまいました? あはは」


 ジュ・トゥ・ヴのつまらない冗談は無視し、ふと脳内の片隅で”彼”が対処した案件を並べた。


 軽度の電子犯罪は、仁科が作った刑罰表に従っている。しかし極稀に、それで対処しきれないものもあった。人間の情緒によって起きてしまった事件だ。


 機械的な対応ではなく、双方の意見を尊重した上で、もしくは被害者の感情を尊重した刑罰を与えている部分がある。これはまさに人の下した判決と変わらない。


 このAI、やっぱり心があるのではないでしょうか?


 そう疑わずにはいられない。


 だがそれを考えても意味はない。リンゴは重力があれば落ちる。それを何故と思えるほど時間の余裕もない。


 ため息を吐いて、仁科は膨大な案件を見つめた。警察が調べた事件の調査から検事が立てた見立てを確認し証明し、審議をかけて判決の決定までが彼女の仕事である。彼女が処理した案件はこの後裁判所の専門家《AI》が再審議し刑を下す。彼女の判断はほぼ間違いはなく、それどころが専門家《AI》ですら処理困難《審議不可》とはじき出した事件ですら解決する。機械で解くことができず、人間では難点もかかる裁判を、仁科は一人でそれも恐るべき速度で処理していく。


 バーチャルネットワーク規制委員会とは云いながらも、実務的な作業は彼女がほぼ一人で行っている。それ以外の役員は、官僚的か政治的な存在でありこの機関の機能にはそこまで必要とされていない代替可能な部品でしかない。


「彼女たちの行動に変化があったら報告を。あと、ハートからの報告は直接私にください」


「もちろんですとも」


 任せましたよとつぶやいて、仁科は20ペタフロップスを誇る演算速度《頭脳》に物を言わせて案件を毎秒10件のペースで起訴から判決までの処理を行っていく。本来であれば分離するべき業務なのだが、現状ではそうする事ができない。常に”新しい犯罪”が発生するこの変化に司法機関が対応しきれていないのだ。

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