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前時代的なクラシカルな携帯端末を見つめる女が一人。いや少女と言っていい年頃だ。
フレアスカートのダークスーツの前ボタンは留めずに着込み、襟にレースの飾りがついた瀟洒なブラウスの胸元は主張が強くメリハリのある体形は羽織ったダークネイビーのコートの上からでもわかる。肩下までの亜麻色の髪は、柔らかな微笑を浮かべる顔と同じような朗らかな雰囲気を漂わせている。
年の頃は十代後半である彼女が見つめる画面には、数万人の観客の前でハイテンポでエネルギッシュなポップソングを歌う少女が映っていた。
突如として現れた電子世界の歌姫、【@MM】
脳内に直接埋め込まれている、超高性能生体コンピュータ【BCC】の誕生によって、真似ができるレベルのアーティストが絶滅した現代において、その少女は真正のアイドルとして姿を現した。
他者を圧倒する比類ない歌唱力と表現力。たったの3ヶ月で日本音楽界のトップまで駆け上ったボーカリスト。20年以上前の伝説の再来と言われていた。
そんな彼女が実は学校に通わない15歳の少女だと、誰も予想だにしていないだろう。
ましてその少女の歌の中に、聞く者のBCCを狂わせる電子ドラッグが混入しているという事は、誰も知らない。
「知らなくていいのです。誰も知らない内に、私が消しますから」
携帯端末を見つめる女はつぶやいて顔を上げると、頭にフルフェイスのヘルメットをかぶった。携帯端末は上着のポケットにしまう。
コンクリート打ちっぱなしの狭い廊下の壁は、バイザー越しで見れば隙間なくびっしりとライブ告知が張られた世界が見えた。このバイザーの内側は、”通常の”電子世界をこの世界に反映させて見せている。
「時間ですね。行きましょうか」
かつかつと踵を鳴らして進む。廊下の先には左右にふたずつドアが並んでいた。
その中で左の奥のドア。その部屋から少女はライブ映像の発信を行っている。
彼女はそのドアを躊躇いなく一気に開けた。
「行村 愛海。あなたをバーチャルネットワーク規制法、第一条の四項に反する容疑で逮捕します」
変声機を通した電子的な声が、広くない部屋の中に木霊する。
令状を突き付ける。
部屋の中央で目の前の機能性一点張りの環境適応服の上から、二重映しで派手なドレスを身に纏う少女をまっすぐに見据える。
電子世界を汚す者を許すことは、絶対にない。もう居ない姉に誓う彼女の正義が、少女を煉獄へ叩き落とせと示す。
一瞬、瞬きひとつにも満たない半瞬、@MMを名乗る少女、行村 愛海は硬直し、そして動いた。
攻撃が来る。女の携帯端末とバイザーに警告が表示された瞬間、世界が水没した。
「なッ!?」
ありとあらゆる物が数百万トンの濁流に押し流された。建物すら破壊された。神罰の洪水のように、何もかもを分け隔てなく飲み込んだ。
建物が瓦解し、世界が水没していく。足元が水没する。床だった物と共に足元が崩れ去る。
三半規管が悲鳴を上げて、その場に立っている事すらできない。
身体が水に落ち、口と鼻に鋭い痛みを伴う海水が入り込む。息ができない。コートの裾が水に濡れて足に絡みつく。ヒール高3センチのパンプスが、鉛の分銅のように足の動きを阻害する。
「ノアですか!」
突然世界は水没するはずがない。これは明らかに電子攻撃の一種だと頭で理解した女は忌々しく海水を吐き捨て、彼女はヘルメットをかなぐり捨てた。
そこは先ほどとなにも変わらない、狭いミュージックスタジオの一室。ただし、愛海はどこにもいない。もちろん自分の体は水一滴分も濡れていない。床に突っ伏した女は苛立たし気に舌打ちを一つ打った。
ノアとは脳内のBCCへ直接大量の情報を押し込み、大洪水が起きたかのように幻覚を見せる、高度なクラッキング技術である。しかしBCCがなければ、どうとういうことはない。
捕縛対象がいない。そうと分かった瞬間、すぐに立ち上がり走り出そうとした。
しかし酔いつぶれた三半規管は、身体を自由に操作させない。その場で座り込んだまま立てない。
「身体制御系のみ再起動。コンディションクリアと同時にシャットダウン」
『おやおや、初手を打つ間もなく出し抜かれるとは。これは珍しいですね』
耳に着けたイヤホンから軽薄な声が聞こえ、脳を突き刺すような激痛が一瞬だけ走る。
BCCから身体制御を操作。愛海の電子攻撃《EC》で異常状態に陥った脳内を、保存しておいた正常値に強制的に書き換える。脳内を強制的に書き換えた反動で、猛烈な吐き気に捕らわれながらも立ち上がり走り出した。