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BCCが午前4時を知らせた。この警察署に来てから6時間が経つ。優姫が釈放されてからは5時間。
エントランスホールのベンチに座って待っていた。途中で生活課と思しき当直の警察官が毛布を貸してくれたので、寒さには耐えられた。この時代必要以上の冷暖房はエネルギー削減の為存在しない。その為エントランスの寒さは風が防げるだけで外と変わらない。
釈放されてからすぐに署内のセキュリティーネットワークにハッキングを行い、情報を集めていた。
普段ならものの数分で必要なものは揃うのだが、今日は違った。
普段とは比較にならない強固な防壁が施され、トラップも無数に張り巡らされている。下手に手を出せば尻尾を掴まれて電子犯罪規制法によって逮捕されてしまう。この環境を仕掛けた人間はよほど性格が悪く疑い深く、何より狡猾な人間であると優姫は確信せざるを得なかった。
焦燥感と苛立ちが募る中、なんとか監視カメラの映像を開けた。
よしっと内心でガッツポーズをとった。しかしどうにもおかしい。画面が真っ黒なのだ。それに下半分が白く曇っている。
何か変だと優姫は指示を飛ばして、カメラをズームアウトさせていく。
そこで徐々に見えるようになってきた映像。
画面一杯に右の眼窩にロケットを突き刺さした月面顔の男が、カメラに取り付いてレンズを覗き込んでいる。その鼻息でレンズが曇っていたのだ。
「うあっ!?」
思わず声を上げてしまった。今まで狸寝入りしていたのに、突然大声を上げた事で当直の警察官も一緒になって驚いていた。
『いけませんよぉ。警察署のセキュリティシステムへハッキングを仕掛けるなんて。あなたのようなまだ未来の明るい女性がやることではありません! あははは』
男が画面から離れる。そこで優姫もその男が現実ではないということがわかった。
署内58箇所の監視カメラに同時に映っているが、全員がばらばらの動きをしている。次に若干浮いている事。そして最後に頭が月の形なのだ。満月に男の顔。それも右の眼窩にはロケットとおぼしに物が突き刺さっている。
間違いなくホロディスプレイに表示されたエージェントだ。
いや、映されているわけじゃない。優姫のBCC受信通信領域にハッキングしている。やるつもりが、やられ返されていた。
一体いつの間にやられた。そんな痕跡なんて、どこにもない。電子戦《化かしあい》で負けた事のない優姫が初めて負けた。それも負けていることに気付かないほど徹底的で、圧倒的な力量差でだ。
自分より遥かに腕の立つハッカーの陰に、優姫は何年ぶりかに恐怖を覚えた。
『もうすぐ愛海さまをお連れいたします。落ち着いてお待ちください』
うさん臭いほどの満面の笑みを浮かべた月面顏は、白い三揃いを着た異様に細長い体をきれいに折ってお辞儀と共に消えた。同時に監視カメラの映像はもう二度と手に入らなくなっていた。
「なんだ今のは?」
映像を検索してみたが、警察のマスコットではない。そうなると個人のエージェントに間違いない。それにしても変なデザインだと優姫は思った。オーナーは相当なレトロコレクターに違いない。もしくは映画マニアだが、今はそれはどうでもいい。
エージェントが消えておよそ二分経ち、女性警官に連れられて愛海が来る。
「愛海!?」
分厚い毛布に包まり憔悴しきった少女を見て、優姫は駆け寄り抱き締めた。
「どうしたの!? 何かされた!?」
女性警官に視線を向けると、彼女は奥歯を噛み締めて失礼しますと言い残して戻っていった。
強く負い目を感じていても、立場上なにもできないのだろう。彼女に何か言っても意味はない。歯噛みして優姫は腕の中で震えている愛海を見る。
真っ青になった顔が、今にも息絶えてしまうのではないかと不安にさせる。彼女のBCCにアクセスし、生命信号を確認した。危険な状態ではないが、弱り切っている。
「葛城 優姫さん」
呼びかけに、優姫は一瞬気づかなかった。声が聞こえた事を思い出して顔を上げると、女がいた。自分たちをこの場に連れて来た、捜査官とおぼしき女。




