魔獣の塔と僕と夢・中編
そして僕がその塔で暮らし始めて、数日が過ぎた。夢はさっぱり覚めやしない。塔は僕が思ってたよりずっと複雑だった。獣の姉妹達は、この塔を自由に組み替えることが出来るそうだ。詳しいことは全然わからないけど、僕と姉妹が出会った部屋は、本来もっとずっと上の方にあるらしくて、僕に会うために下の方に降ろしたらしい。真っ直ぐでしかなかった通路も本当は迷路みたいに複雑だったようだ。ここで暮らし始めてわかったのは、ここは暖かいせいか、沢山の獣が暮らしている。僕の知らない、見たこともないような獣達。首が二つある犬や、三ツ首の蛇なんかもいた。そんな、奇妙な生態系が、ここでは出来上がっていた。そしてそんな獣の頂点に位置するのが、キュマイラとシメールの姉妹であった。
ここでは力こそが全てで、狩るものより狩られるものが悪い。けれど僕は襲われない。姉妹から直々に名を貰った僕を、襲おうとするものは殆どいない。けれどそうでないものもいる。そんな時、僕は一目散に逃げるようにしている。僕はまだ仔供で、力も弱いから。勝てない相手とは戦わない。生きて、生き延びれば、いつか夢から覚めるのだから。
その日は姉妹に呼ばれていた。この塔の中ならどこにいようとその言葉は届く。僕が何階にいるのかはわからないけど、そうした声が届いた時、すぐに目の前に扉が現れる。僕は現れた扉の、小さく開いた隙間から部屋の中へ身を入れる。この隙間が、僕の小ささを思い出させてくれる。そう、僕は強いから襲われないのではない。強いものの庇護を受けているから襲われないのだ。
「よく来たね」
姉のキュマイラが喉を鳴らして話しかける。最近、彼女達の見分けがつくようになってきた。姉は燻んだ金色の鬣で、妹の方は明るい金色の鬣。暗いところだとよくわからないけど、明るかったらよくわかる。僕はくるると喉を鳴らして応える。言葉を持たない僕にとって、それが精一杯の意思表現だ。
「お前は賢い仔だ。だからお前には、どうしてわしらがここにいるのか、教えておこうと思ってね」
そう言って、キュマイラは宙に目線を漂わせる。がこがこと何かが組み変わる音がして、それが止んだ。キュマイラはその巨体を震わせると、ゆっくりと立ち上がる。
「着いてきな。この極寒のリュキアの地に、何故わしらは住んでいるのか。どうしてこんな迷宮を住処としているのか、おしえてやるよ」
言って、キュマイラは歩き出す。その歩幅は大きく、少しでも油断するとすぐに離されてしまう。けれどもその度に、彼女はゆっくり歩いてくれるし、立ち止まってくれる。姿形も口もちょっとおっかないけど、そういったところは、優しかった。
石で出来た通路は少しづつ氷に覆われていく。進む度に、冷気が染み出してくるのがわかる。まるでこの空間そのものを侵食するかのような極寒の冷気。
歩きながら、キュマイラは口を開く。
「かつてこの地はリュキアと呼ばれててね、それはもう大きな都市国家群だったさ。そんな巨大国家をたった一人の王が支えていた。優しい王だったさ」
キュマイラは目を細め、まるで遠くを憧憬するかのように視線を彷徨わせる。少しだけ、その足取りが緩やかになる。
「わしら姉妹は、そんな王と共に育った。彼は優しかったよ。思慮深く、平和をいつも願っていた。そんな王も、戦争をしなければならなかった。彼は戦った。国宝の剣を振るい、いくつもの国と戦って、勝利した。その度に深く悲しみながら、統一を果たしたのだ」
寂しそうに笑いながら、キュマイラは足を止めた。
「ここに残るのはその名残の、少数の集落と、この塔だけだよ。そして、王の残した剣。勇敢なる獅子の意匠を施した氷雪の剣」
目の前にあるのは凍りついた扉。これまで見た扉と違い、小さくて、けれど荘厳な意匠を施されていた。味気ない黒い扉ではなく、
穏やかな赤色。金色の獅子の飾りがよく映える。凍りついた扉がぴしり、と音を立てる。ゆっくりと張り付いた氷を剥がしながら、その役目を果たそうとしている。
「ここは墓さ。忘れられた国の、最後の王が眠る墓。わしらの王が、最後に残したもの。それをずっと、守り続けているのさ」
そして、僕の目は奪われた。
完全に開いた扉の向こうには、一本の剣があった。台座に突き刺されて固定されたそれは、先端から柄まで氷漬けだった。陽の光も刺さないこの場所においても、それはきらきらと輝いているかのように見えた。まるで自らの輝きを失うまいとしているかのように、自ら光り輝くように。吠え猛る獅子の形の鍔から、元の持ち主を表すかのように、真っ直ぐに伸びた直剣。ただただ美しいと思った。知識のない僕でさえこう思う程だ。
「綺麗だと思うかい?」
僕はその言葉にただ頷いた。キュマイラは嬉しそうに頬を吊り上げる。
「そうかい。小僧。お前をここに連れて来たのはね、お願いがあるからだよ」
言うと、キュマイラは珍しくしおらしく頭を垂れた。そうしなければならない程のことなのだろう。僕は、彼女が頭を下げたところを初めて見た。それでも、僕の身体よりも随分と大きいのだけれど。
「もし、もしもだよ。わしらが死んだ時。それが戦ってか、寿命かわからないけどね、それで、もしも、この剣を求めるものがいたのなら、小僧、お前に見極めて欲しい。お前は賢いが、まだ仔供だ。外の世界を知らない、その純粋な眼で見定めて欲しいんだよ。そのものがね、この剣を持つに相応しいか。思慮深く、優しく、誰かのために前に立つものかどうか」
言って、キュマイラは口の橋を吊り上げる。ちらりと見える牙は恐ろしいけど、僕にはやっぱり、ちっとも怖いとは思えない。むしろ優しく見えて、僕はその表情をされるのが好きだった。そんな様子を見て、キュマイラはふんと鼻息を鳴らした。
正直、僕には何がなんだかよくわからないけど、でも、この約束は守ろうと思う。キュマイラは僕を助けてくれたから、僕も出来るだけ助けたいと思うから。
「こんなところにいたのか、ネメア」
凍り付いた廊下から、いつもの部屋に戻ると、明るい金色の鬣のシメールが待っていた。待ちくたびれた、とでも言いたげに大きく欠伸をする。真っ赤な口と真っ白な牙の間からちろちろと炎が見え隠れしているのが見えた。
「どうしたんだい? 随分と久し振りに顔を見せたじゃないか」
「そろそろネメアに狩りを教えようと思ってね、良い狩場を探してたのさ」
「狩りだって? こんな小さな小僧にかい?」
「そうさ。どうせ誰も教えちゃくれなかったんだろう? あたしらだって、いつまでも食わせてやれるわけじゃないんだから。一人で生きていく術くらいは、教えてやるさ」
確かにその通りだと思う。僕も獣ならばいつまでも貰える食事にばかり頼っていてはいけないと思う。姉妹が提供するものは、生肉か凍り付いた肉を解凍したものばかりだ。口から火が吐けるというのは、便利なものだと、僕は初めて思った。不思議と嫌悪感は湧かず、幸運にも飢えることなかった。けれどこれからはわからない。さっき聞いたように、いつまで共にいられるかわからないのだから、狩りの仕方を覚えていて損はない。
着いておいで、と踵を返すシメールを追って、僕は小さな身体を前進させる。振り返ってみれば、やれやれとでも言いたげにその場に座り込むキュマイラの姿が見えた。