魔獣の塔と僕と夢・前編
まず、僕はこれを夢だと思う。
だってまず、雪が降っている。これはおかしい。僕が過ごしていた場所は夏だったし、蝉が鳴いていた。それなのにこの場所ったら静かだ。聞こえてくるのは、雪が吹雪く音と、遠くから聴こえてくる獣の遠吠えくらい。そんな環境なのに、僕といったら、これっぽっちも寒さを感じていないのだ。だから、これが夢だと思う理由の一つ。
そしてもう一つ。目の前に、塔がある。雪で視界が悪いのに、はっきりと浮かび上がって、その存在を誇示するかのような巨大な塔。こんな建造物、僕は知らない。珍百景や、名物にでもなりそうなのに、僕は見たことも聞いたこともない。
そして何よりも、僕はこれを夢だと思い、自分の頬を抓ろうとした。けれどどうだ。僕の指は上手く動いてくれない。そちらの方に視界を向けようとしても上手くいかない。どうにかして、首を動かし、目の前に腕を持ってくると、そこには明らかに異形の手がある。動物でいうなら、犬。灰色の犬のような手がそこにあった。そして、僕は四足歩行を行なっていたのだ。
これはおかしい。明らかに夢であると僕は断言する。僕は二足歩行の人類だった筈なのに、四足歩行をしているのはおかしい。場所もおかしければ、見たこともない景色。故に、僕はこれを夢だと断定する。
そう思ってしまえば、目の前の塔も、興味の対象である。僕は四足歩行を存分に駆使して、雪原を進む。歩き出してみれば、その雪原は真っ平らというわけではなく、凸凹としていて足場が悪い。しかし、この獣の脚はそんな足場の悪さなどものともせず進んでいく。
塔の入り口だろう。その門は僕なんかよりも何倍も大きい、重厚なものだ。僕の腕では引くことは出来ないから身体で押すしかない。けれど開かない。恐らく全力で体当たりしても、ビクともしないだろうと、容易に予想がついた。僕のことながら、この夢はケチンボだ。どうせなら、自動ドアのように、簡単に開いたくれればいいものを。そう期待して、門の前で、待て、をするように座り込む。目的地なんてあるわけないし、ここ以外、どこに行けばいいのかわからないから。
そのままぼうっと考えていた。自分のことも、よくわからない。住んでた場所、季節、風景は思い出せるけど、それでもこことは違うことしかわからない。そもそもここはどこだ。自分は何故、こんな身体なのか。そんなことを考え続けていたら、いつの間にか意識は深い暗闇に落ちていた。
ーーーーーーーー…………
ーーーー……ーーーー……
ーー…………ーー…………ッ!!
誰かに呼ばれたような気がして目が覚めた。身体に降り積もった雪は、かなりの量で、もう少しで僕の身体は埋もれてしまうところだった。ゆっくりと力を込めて、雪の山から抜け出す。身体を震わせ、雪を飛ばすと、随分と楽になった。
見れば、押しても引いても開かないだろうと思われた扉が開いていた。向こう側には真っ暗な通路がぽっかりと口を開けていて、僕を飲み込んでしまいそうだ。まるで導かれるように、それ以外の道は思いつかないから、僕は進むことを選ぶ。真っ暗な中に、ちっぽけな身体を進ませる。不思議と恐怖はなかった。ゆっくりと、ゆっくりと、慣れない四足歩行で、まるで手慣れているかのように進む。中に入ってしまえば、先ほどの吹雪が嘘のように静まり返っていた。
そして、僕が中に入ったのを確認したのか、背後の扉がゆっくりと閉まり、廊下に施された燭台に火が灯る。一定の間隔を空けて、ゆらゆらと揺らめく炎が、僕を誘う。冷たい景色に慣れた僕には、それが酷く暖かく感じた。
進む。進む。奥へ奥へと。僕の身体は、僕が考えるよりも早く脚を出す。歩幅からすると、僕の身体は思っていたよりもずっと小さいのかもしれない。前へ前へと、思うよりもゆっくりと進んでいく。疲れは、不思議と感じなかった。時折、何かが組み変わるような、音が聞こえ、また静かになる。僕の前にはずっと、真っ直ぐな通路が続いている。外の吹雪に比べれば、冷たい石の壁も、酷く暖かく感じる。
そうして、僕の前に扉が現れる。外の扉よりも、ずっとずっと大きな扉。僕はここが、巨人の住処なのではないかと思い始めた。巨人が住んでいるからこそ、出入り口も大きく作られているのだと。だからこそ、僕はそこに入り込んだ哀れな獲物なのではないかと。けれど、不思議なことに恐怖はなかった。これは夢だとわかっているからかもしれない。
僕は扉の前に座り込む。さっきみたいに開いてくれるのではないかと、淡い期待を抱いて。
ーーーー……ーーーー…………
…………ーーーー…………ーー
……ーー…………ーーーー……
また、何かが聞こえた。するとゆっくりと扉が動き始める。重厚な扉に相応しい、重い音を立ててゆっくりと口を開く。今度こそ、僕は食べられてしまうかもしれない。けれど心は穏やかだった。先ほど聞こえたものが、思っていたよりも優しい響きを伴っていたからかもしれない。僕の身体が十分に入るほど開いて、扉の動きは止まった。僕はその隙間からそっと中を覗き込む。
廊下と違って、中は真っ暗だ。他に道はない。僕はするりと中に入る。また、入った後にゆっくりと扉が閉まっていく。まるで僕の動きを見透かしているかのようだ。
「ああーーようやく声が届くところに来たね、小さな小僧」
僕がその場で固まっていると、声が聞こえた。優しい響を持ったそれは、ずっと聞こえていた声に他ならない。聞こえた瞬間、ぼっ、と音がして、壁や柱に備え付けられた燭台に火が灯る。ゆらゆらと揺らめく、陽炎のような炎に照らされて、大きな影が見えて。それは僕が思い描いていたような、巨人の影ではない。ゆらゆらと揺れ動いていたのは尻尾で、その先に蛇の頭が付いている。大きな頭はよく見れば獅子の毛で覆われていて、下半身はなんだっけ? あまり見ることのない動物のものだ。そして、僕はそれ知っている。
「よう来たなぁ、小僧。ここがキュマイラの巣と知っていたか?」
ぐるると喉を鳴らして、キュマイラは僕に顔を近付ける。でもちっとも怖くない。まるで脅かして、僕の反応を楽しもうとするかのようなユーモアな雰囲気さえ感じる。
「……わしが怖くないのかい?」
怖くないよ、と言おうとしたが、上手く言葉を発することが出来ない。当然だ、僕の口は恐らく獣の口で、獣は普通言葉を発さない。このキュマイラとかいう獣がおかしいのだ。
「姉さん、無駄だよ。だってその子はここに来るまで、ちっとも怖がってないんだもの」
もう一つ、よく似た声が響いた。暗闇の中からのっそりと歩いてくるのは、もう一頭のキュマイラ。姉さん、とか聞こえたから、このキュマイラ達は姉弟なのだろうか。
「そうなのかい? 妹よ。だとしたらなんてつまらないんだい」
ふしゅ、と鼻を鳴らし、キュマイラは僕から顔を遠ざける。そうか、この二頭は姉妹なのか。
「すまないね、姉さんが失礼したよ。それで? お前はどうしてここに来たんだい?」
妹の方が訊ねる。わからない。そんなことは僕が聞きたいくらいだ。目を開けたら、ここにいた。ここしか行く場所が見当たらないからここに来た、とそうとしか言えない。そして、僕の口は言葉を発せない。きゅるる、奇妙な鳴き声のようなものが、漏れた。
「そうかい。お前さんは話せないんだね。捨て子、かな?」
「だろうね、ここは年がら年中寒いからね。口減らしに喰われなかっただけ、儲けもんさね」
「さらに生きてここまで来たとくれば、それは奇跡ってもんだ。なぁ、奇跡の仔よ、お前さん、行く当てはあるのかい?」
僕は小さく首を振る。
「なんだい、言葉も理解しているときた。この仔は利口だよ、姉さん」
「みたいだね。気まぐれに門を開けてやれば、恐れずにここまでやって来る。賢い上に勇敢だよ」
「おいで、お前に名をやろう」
言って、二頭は僕を招く。巨大な脚は僕を簡単に押し潰すだろうし、その口は僕を容易に飲み込むだろう。けれど、やっぱり怖くない。僕は前に進み、その二頭の間にちょこんと尻をついた。間近で見上げる姉妹は大きくて、僕なんかじゃどうしようもない存在だ。
「お前はこのリュキアの雪を乗り越えてここまでやって来た奇跡の仔だ。お前は賢く、勇敢な仔だ。お前には我が兄弟の名を送ろう。遠い昔、死した勇敢なる獅子。ネメアと名乗りなさい」
ネメア。それが、何もない僕に贈られた名前だ。そう告げられた瞬間、僕は歓喜に包まれた。勇敢なる名前を付けられた喜びに満ち溢れた。ネメア、ネメア。それが、僕の名だ。
「ネメア、あたしはシメール」
「わしはさっき言ったね、キュマイラだよ」
姉がキュマイラで、妹がシメール。どうやら種名ではなく、個体名だったようだ。間違いを修正して、覚える。見分けはつき難いけど、名を貰ったのだ。僕の行く当てはなく、ここで暮らすのなら覚えなければならない。
いつ覚めるのかわからないけど、せめて夢から覚めるまで、僕はネメアとして生きよう。