疑念
梯子を上っていき、ハッチに手をかけた西島に、艦長は声をかけた。
「拳銃くらいじゃどうにもならんぞ。こいつでも持っていけ」
下から渡されたのは自動小銃だった。
「機関部の後ろ側にあるネジを回したら、安全装置が外れる。予備の弾倉はこれだけだ」
下から惜しげもなく装備を渡してくる艦長に、西島は少し驚いた。
「しかし、こんなもの渡されても自分には使い方がわからんのですが。それならまだ、こっちのほうがましです」
ぽんぽんと、背広の中にあるものを叩いて、その存在を再度アピールするが、艦長はその存在を鼻にもひっかけなかった。
「連中の装備には、君のやつじゃ豆鉄砲とそんなに変わらんよ。悪いことは言わん、それを使え」
そのうちに、艦体の上を誰かが歩く、独特の金属音がし始めた。その音はセイルに近づいていき、とうとうセイルを登り終えてしまった。
「ほれ、言わんこっちゃない、お約束が来るぞ」
そういいながら、艦長は指令室の隅に移動した。
「自分だけ引っ込むくらいならせめて、只見博士を艦長室にでも送ってくださいよ。爆発に巻き込まれたらことなんですから。ついでに、サラダボウルみたいなものがどこかにありませんか」
「サラダボウル?何に使うんだそれ?」
「頭にかぶって験担ぎにでも」
「空飛ぶスパゲッティ・モンスターが役に立つとでもいうのか?ま、その手の話は好きだがね」
はいよ、と言いながら、艦長は下から鉄帽を投げ渡すと、指令室から乗組員と只見博士を退避させた。
その合間にも、ハッチが開けられようとするのを西島は防ぎ続けていた。
「艦長、自衛隊にいたんでしょう。これくらい手伝ってくださいよ」
ハッチのハンドルが回るのを防ぐように、足と手を踏ん張って西島は声を張り上げた。
「君も公安の腕利きと聞いてるが。違うかい?」
「こっちはいつも追いかける側ですよ。逃げ回る側じゃない。ま、逃がしたことはないですがね」
「じゃあ、いつも通りだなぁ。連中はどこかの国の工作員だろう。つまり君の仕事だなぁ」
のんびりした口調で言いきられ、西島の額には脂汗のほかに青筋も浮かんできた。
「ハッチを回す訓練は受けてないんですがね。必要なかったものですから。今更ですが、銃で射撃をする訓練もほとんどやったことがありませんけどね」
それに、この拳銃はこの間、乱闘したチンピラから奪ったやつですよと西島は言った。
それを聞いて溜息をつきながら、艦長はどこからかヘルメットを持ってきて、それを被った。
「かわろうか、お前がこういうことで、最初に突っ込ませてはいけない人間であることは、よーくわかった。その代わり、二番手は頼むぞ」
「艦長」
「どうした?何か問題でもあるか?」
「あと10分も待てばいいだけですよね。なら、そこのロックにものを噛ませとけばいいでしょう」
しかし艦長は首を横に振った。
「潜水艦乗りとして一番気にかかるのは、艦体に傷をつけられることだ。水圧に耐えられるかに、疑いが出るし、騒音の元にもなってしまう。そいつだけは、避けなけりゃいかん。連中のことだ。中に入れなかったときは、何が何でも出港を止めようとするだろう。何をしでかすかわかったもんじゃないな」
その時、艦内の電灯がちらついて一瞬真っ暗になったかと思うと、またもとのように明かりはついた。
明かりが元に戻ったとき、艦の周囲でバシャンと人が倒れるような音がした。
「お、感電作戦間に合ったようだな」
「感電作戦?」
「対処マニュアルにあるんだよ。ゲーム理論を基にして、すべての事態に対応したやつがな」
その言葉に、西島の顔は、冷静を通り越して冷徹なものになった。
「それなら、最初から慌てる必要はなかったのでは」
「それも含めてマニュアルだ。それよりも敵の工作員を捕まえんでいいのか」
西島の追及に艦長は悪びれずに答えた。
「無力化された客観的な証拠がありません。無茶を言わんでください。どうせ、あいつらは溺死します。それでいいでしょう。一番面倒なのは、働かせることもできないようなやつらを養うことですから」
その言葉に艦長もうなずいた。
「典型的な公安の考え方だな。何もなければそれでいいか」
「今起こされても困るだけです。そして、起こしそうになれば気づけばいいだけです」
「後でまたいつか必ず起こるぞ」
「だから、その芽を摘み取れるうちに摘み取っているんですよ」
まあ、後は、ここから出て行く算段だけだなと艦長はいい、艦内電話で指示を出し始めた。
「後は、敵さんが、ここの外で待ち構えていないかどうかということだけなんだが」
「そのときは頼みますよ。自分はこんな鉄の棺桶、運転できませんからね」
そういって、西島は鉄帽を艦長に向かって放り、只見博士の元に向かった。
只見博士は司令官室にいた。正確には、実験艦の設備をモニターする設備が所狭しと置かれていた部屋であり、実験艦の運用が終わったために機器類の一部を撤去してあるだけだった。
「博士、危険は一時的に去りました。それで、先程の話の続きなんですが・・・」
「先ほどの話とは何ですか?」
「博士の研究です」
「あまり、詳しいことは話せないのですが」
溜息をついて博士は首を横に振った。
「自分も大学で、生物の行動学をやっていたので、博士の研究に少々興味があるんですよ」
純粋な好奇心です、とも西島は言った。
「行動学ですか…。あまり私の研究には関連しないんですよね…」
生物という言葉に一瞬だけ関心を示したものの、その関心が薄れてしまったかのように只見博士は言った。
「先程の話を聞いていると、遺伝子組み換え的な何かという印象を受けましたが、それについての件というという解釈でいいんですか?」
その反応にもめげず、西島は公安根性で頑張り続けた。どちらかというと、現実逃避に近かったかもしれない。
「遺伝子組み換え…そうですね。そうとも言えます」
その言葉を只見博士も肯定した。
「ということは、博士の研究というのは、ウイルスや、最近の研究といったところですかね?俗にB兵器とかいうやつですか?」
しかし、その西島の質問に博士は首を振った。
「いいえ、私の研究はそんな汎用性のないものではありません」
「汎用性?遺伝子操作系の技術だは、すべて軍事利用だけに止まらないのと思っているのですが」
博士の発言に、西島は疑問を感じた。
「現状を見る限り、そうです。しかし、私の研究とはレベルが断然違います」
「レベルが違う?どういうことです?」
「遺伝子の利用というものは、非常に難しいものです。近年、目標とする遺伝子を細菌のゲノム内に導入し、狙った効果を発現させる方法が確立されましたが、その効果を確実なものにするためには、生物の広いゲノムマップの正しい位置に、正しい遺伝子を導入しなければなりません。その効果を検証する手立てとしては、狙った効果を持つ遺伝子を持つ生物のゲノムと、その遺伝子を導入させる生物のゲノムを比較する必要がありました」
「ちょっと待ってください。理解が追い付きません」
只見博士の説明は比較的丁寧で簡潔なものであるとわかっているものの、それでも、内容を理解することは困難を極めた。西島はメモ帳を取り出し、情報を整理することにした。四苦八苦して、博士の説明をまとめ、続きを聞こうとした時だった。いきなりドアが開いたかと思うと、艦長が入ってきた。
「お客さん、ご歓談中のところ悪いけど、護衛さんのほうに用事がある。ちょっと来てくれんかな」
「公安調査庁の人間として、調査を行っているので後にしてください」
「どうせ、報告するのは当面先のことだろう。そんなに時間は取らんし、今少し話したいことがあるんだ。少しくらいいいだろう」
その言葉に、話の腰を折られてイラっと来た西島は反射的に嫌味を言い返した。
「もうちょっと、クルーズ船というものは客に対する待遇がよいものだと思うんですが。この船のクルーは、お客様に対する礼儀をわきまえていないようで」
「…そうですな。乗船切符をお持ちでないお客様は、無賃乗船として叩き出しますか。あ、無賃乗船では、お客様でもないですな」
自分の子供ほどの年である西島に揶揄されたのが頭に来たのか、艦長も年甲斐もなく言い返した。
「ああ、もう、ここでも私が喧嘩の仲裁をしないといけないんですか?!冗談じゃないですよ!いい年して、いい加減にしてください!」
二人の言い争いがヒートアップをしかけた時、只見博士がそれを止めに入った。
「今は私の護衛とかはいいので!さっさと艦長の言うとおりにしてください!」
そして、艦長と一緒に西島は司令室から突き出された。バタンと勢いよくしまったドアを2人して振り返り、
相手が同じような行動をしていることに気づき、お互いに睨み合って、険悪な空気が流れた。
「…で用事とは何ですか?」
「今回のこの事態だよ。説明してもらおうか。いったい何が起きてる?いや、何が起きる?」
この言葉で西島は確信した。官房長官と、大河内総研所長は、自分たちに何をさせようとしているのか教えるつもりはないということを。
「…艦長は、何か聞いていないんですか?」
「お客さんを乗せて、この艦を所定のところまで運べと言われている。お客さんを乗せろとは昨日言われた」
「自分が言われていることは、あの博士を護衛してくれということですよ。一番安全なのは、この艦内だから、この艦に乗せるそうですが」
自分に至っては言われたのは今日の昼前ですよ、とも付け加えて西島は言った。
この言葉を聞いて、艦長も深刻そうな顔になった。
「いや、自分はお客さんと護衛を運ぶとしかそのことは聞いていなかったもんだからなぁ。こりゃ相当問題は深刻だね」
誰にも正しいことが何なのかわかっていない、と艦長は言った。
「しかし出発するほかないでしょう」
「そうだ」
結局することは変わらない。西島と艦長の心配も、既定路線を変更するほどには至らなかった。
「ドックの注水はあとどれくらいで終わるでしょうか?」
「あと5分もかからん。終わり次第、戦闘準備を整え出発しよう」
艦長も西島も、腹を括るしかないと心に決めることにした。