1-6 Recollection: Inability's Ruthless Traitor
洞窟の中はやはり薄暗く、肌に当たる風は冷たい。出口などありはしないのに、この風がとこから吹いているのか、どのようにやってくるのか、興味こそあったけれど、でも今の僕は動けないのだった。
先程―――ゴブリンに打ち砕かれた右足首の骨は、そう急速に完治するようなものではなかった。スクロールの最後の一枚である、人間本来の治癒能力を増幅させる『ヒール』の霊術により治り自体は早まっているものの、数分数刻では完璧に治るはずなどないだろう。
それにゴブリンから逃げる時に無我夢中で走ったおかげで、もう足に力が入らない。まあ『ヒール』により和らいではいたが、どちらにせよ、むやみに逃げるよりはいっそ待ったほうがいいという判断だった。
そう。――僕は今、ゴブリンを待っている。
幼馴染達は消えた。僕を一人残して、『ミスディレクション』により姿を隠したのだ。今頃は、負傷したギドをかばいながら来た道を引き返しているところだろう。
それでいい。僕が逃げろと言ったのだ。そうしてもらわなければ僕が命を晒す意味がない。
僕はゴブリンの隙を付いて、ゴブリンとリズ達を引き離した。「ゴブリンが道を邪魔していて動けない」という問題を強引に解いた結果だったが、そのため、僕だけは一人、ゴブリンと対峙する羽目になったのだ。
とはいえ当然、僕ではゴブリンを殺せない。だから僕は全力で逃げた。足の痛みを我慢しながら、その限界が来てここで動けなくなるまで、逃げて逃げて逃げ続けた。
自分の居場所自体はわかっているが、洞窟には角猪もいる。これ以上動くのは得策ではない。
洞窟のどこからか、水滴が滴る音。冷ややかな風とともに寒気がして、僕はブルリと震えた。
ゴブリンは、一向にやって来なかった。おそらく、子供である僕が逃げるのを楽しんでいるのだろう。だからこうして、腰を落ち着けて考えることもできるのだが。
しかしそれでも、ゴブリンがこちらに向かってきているのは確かだろう。
刻一刻と近づく魔獣の気配。それを認識することは僕にはできないが、そこには、まるでホラーゲームをやっている時のような、背筋が凍るような恐怖があった。現実を表すにしては軽い気もするが、それが本心なのだから仕方がない。
「さてさて、これからどうなるのやら」
つぶやいて、押し黙る。一人ぼっちの独り言は、ただ虚しいだけだった。
あらためて、考える。さてさて、これから、僕はちゃんと生き残れるだろうか。
幼馴染達はちゃんと生きれるだろうが、じゃあ僕はといえば、運次第―――どころか、分の悪い賭けでしかない。
まあ、別にそんなことはどうでもいいけれど。
「…………」
独り言はもう言わない。泣き言は口からでてこない。自分の行動が招いた結果なのだから、当然覚悟は決めてある。それに―――生まれた時から、生まれる前から、死ぬ覚悟だけはいっちょまえにできている。
『彼女』は僕に、生きろといった。胸を張って死ねともいった。そう言った『彼女』にどのような思いがあったのかはわからない。それでも、その言葉は、彼女が消える前に言ったその言葉は、前世でも今世でも、僕の根本を作り上げている。
たとえそれが、どこかズレたものだったとしても。
つまり、僕は胸を張れさえすれば、胸を張れるような大義名分さえあれば、それで、それだけで、遠慮なく死んでしまえる。
そういう人間が僕で、僕という人間はそうなのだ。
だから、「仲間を守る」というそれっぽい大義のために、僕は平然と命を賭ける。
「なんて、今更気取った言い訳をしても意味ないか」
一人でに自嘲する。外面は不気味な笑みが貼り付けられているだろう。
笑いながら、僕は深く息を吐いた。洞窟の冷気に晒されながら、僕はただただゴブリンが来るのを待つ。
そこに、明言できるほどの恐怖はないのだった。「怖い」とか言っておきながら今更だが、そもそも僕には恐怖という感情がないのである。
いや、慣れているというべきか。
前世の僕は、明らかに他者よりも死に近かった。死にかけることも多かったし、余命宣告らしいことも幾度となくあった。だから痛みには慣れているし、痛みからくる恐怖にも、痛みを想像して感じる恐怖にも、人よりは耐性がある。
あるいは、だからこそ僕は胸さえ張れれば死ぬことに躊躇をしない変人奇人なのかもしれないが。
やがてどれだけ待ったか。随分と長いこと待っていた気もするが――――ペタペタという生々しい足音がして、僕は首を上げた。
やっと現れた。
「やあ、待ってたよ」
僕もまた微笑を浮かべながら、ゴブリンの方へと手を上げる。逆の左手には小さなナイフ。
そして――――僕はおもむろにナイフを振り上げる。
「ぐ、ぁ」
鋭い痛みが奔り、僕は顔を歪めた。
どしゃりという音とともに地面に転げ落ちた、僕の右腕。
血の気が失せて、意識が朦朧となる。切れ味の良いナイフは細い腕をすんなりと断ち切ったが、そのため、断面から尋常じゃない量の血が撒き散らされたのだ。
空気に晒されて真っ赤に変色した鮮血を、僕は曖昧な意識で眺める。
しかし左手から転げ落ちたナイフが岩肌に当たって響いた音によりハッとして、ノロノロとした動作で千切れた右腕を拾い上げた。そしてそれを、僕の数メートル先でじっと待っているゴブリンに投げる。
「あげるよ」
するとゴブリンは、若干その笑みを歪め、どこか訝しんだように首を傾げる。そしてやや沈黙して、納得したように頷いてから、僕の腕を前にして座った。
どこからともなくフォークとナイフを取り出して、腕を内側から穿るように食べる。ナイフでぐしゃぐしゃと音をたてて皮膚を切り裂き、起用にえぐりとった肉をフォークで突き刺して口に運ぶ。
珍しいというか、こうも近くで見ることなど殆どできないゴブリンの食事シーン。それはやはりどこか人間じみていて、不気味で、気色が悪い。
ゴブリンは、知性を持つ。人間のように言葉を話し、人間のように物を扱い、人間のように集落を作る。そこに人間との違いはない。
しかしその「知性」は、人間に比べて小さいのだ。知性的ではあるがその指数は人間の子供と同程度で、だから単純な性格をしている。
故に、彼らが行う行動は人間のようで人間じゃない。まるで小さな子供が不可解な行動をするように、ゴブリンもまた異常な行動を人間のように、「大衆思想」として体現するのである。
例えば人間を食べたり、人間を虐げることに快楽を覚えたり。
故に魔獣。故に獣。人の近縁でありながら獣と呼ばれるその異形は、人のような行動をする獣でしかない。
閑話休題――――さて。
僕は痛む腕(があった場所)を左手で押さえつけながら(一応は止血のつもりだったが、傷口を握りつぶすというのはただただ痛いだけである)立ち上がる。
ゴブリンは一瞬、不可解な顔をして瞳をこちらに向けたが、興味を失ったのか食事に戻っていった。
ゴブリンは知性が低い。そして、人類の研究によって彼らが衣食住の内、「食」を最大に重要視する傾向が強いことがわかっている。そこには、世界核の中に生息する生物の中でも最弱たるゴブリンの深刻な食糧事情が関わっているらしい。
だから何を言いたいのかといえば、ゴブリンは肉を見つけると、それを食べ終わるまで、攻撃でもされない限りは動こうとしないのである。
――――と、いうような予測をたてて、それは正しかった。
「やっぱり………はあ、よかった」
動きを見せないゴブリンに安堵して、一人でにボソリとつぶやいた。右足首を治療していた『ヒール』を取り消し、右腕の断絶部に表し直す。淡い緑色の光が腕を包んで、途端に痛みが和らぎ始めた。
とはいえ、『ヒール』に欠損部位を治す力はない。「聖女」レベルの使い手ならば可能な場合もあると聞くが、まだ子供で、何より霊力の少ない僕ではそんな大層な奇跡起こせるはずもなかったから、右腕が戻ることはもう無いだろう。
生き残れるかも怪しいところではあるが、仮に生き残れたとしても、その欠損は失ったままである。
まあファンタジーが適用されるこの世界だから、義手なんて探せばいくらでも見つかるのだろうけれど。
相変わらず食事を楽しんでいるゴブリンを見据えつつも、僕は地面の転がったナイフを手に取った。
そしてそのまま――――無防備なゴブリンにめがけて振り下ろす。
「―――――――――!!!?」
言葉のわからないその叫びは、しかし痛覚からくる絶叫なのだろう。
カランと小さな音を上げながら、ナイフとフォークが地面に転げ落ちる。そしてグチャリと音がして、ゴブリンの肉片も落ちた。
僕の腕のようにゴブリンの左腕もまた断ち切られ、緑と赤を混ぜたような気味の悪い鮮血が広がっている。
一歩、二歩、三歩と後ずさりしながら、眼球の焦点をふらつかせるゴブリンは、やがて右腕の付け根を押さえ込みながら、腰からストンと、尻もちをついた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
実際のところ、何故子供が魔獣を殺せないのかと言えば、ただただ純粋に、「子供だから」という言葉で片付けられてしまうほど、単純かつ不可解な理由からなのである。
子供だから魔獣を殺せない。
大人だから魔獣を殺せない。
人間は、子供から大人へ、大人から老人へと変化してゆく。そして、日本でもそうだったが、その変化における時期というのは、おおよそ明確に、「法律」という規則によって区別されているのだ。
日本ではそれは成人式「二十歳」(少なくとも僕が生きていた頃には成人年齢は二十歳だった)と、定年退職となる「六十歳」(最もこれに関しては会社によって違うが、それでも法律により設定可能な定年退職の年齢は「六十歳以上」と定められている)であり、またこの世界、そしてロザリアの国でも同じように、そういった転換期を明言しているのである。
子供は十五歳になれば大人だし、騎士団に従事するものは五十歳よりその任を解かれ、故郷へと帰ってゆくか、後の騎士を育てる指導者となる。
そしてそういった「常識」を踏まえた上で、子供では、大人のように魔獣を殺せない。
例えば、そこに二人の親子がいたとしよう。
父親はどこにでもいる戦いを知らない農夫だったが、どのようなわけか、息子には騎士になる才能があった。
息子はいつの間にか辺境の騎士と中を深め、その人物から騎士道を学び、ステータスのレベルを上げてゆく。対して、農業を営む父親は力こそ強かったが、別に鍛えていたわけではないために程々のステータスでしかなかった。
気がつけば、息子は三十八歳と十四歳という年齢差、そして「子供」という性質の劣等がありながら、父親の25レベルというステータスを追い抜いて、30レベルのステータスを持っていた。
しかしながら、人間の能力値を正確に表したステータスが父親よりも高いはずの息子は、世界核に存在するありとあらゆる魔獣を、殺すことができない。
当然、息子と父親が戦えば、息子は勝つことができるであろう。純粋なレベルの差は、どのようにであっても埋まることは無い。
が、それでも二人の目の前にゴブリンやコボルトがいたとして、それを殺すことができるのは、レベルにおいて劣っているはずの父親だけなのである。
どちらも害人種魔獣。魔獣の中でも最弱に分類される魔獣の二種である。単純な数値比べにおいて、本来ならば「ゴブリン<父親<息子」という不等式が成り立ち、故に「ゴブリンは息子でも殺せる」という結果のみが残るはずである。
にも関わらず、息子は魔獣を殺せない。
ステータスがどうとか才能がどうとかそういう問題以前に、子供に魔獣は殺せない。
しかも複雑なことに、その事実は、一部の種族には適応されないのである。
矮躯の民――俗に言うドワーフは、幼少期の頃から普通に魔獣を殺せるが、しかし歳を重ねるにつれて弱体化してゆく。
逆に夜の民――俗に言うヴァンパイアは、最初は平地の民などよりも弱々しいが、歳を経るにつれてとどまることを知らずに強くなる。
しかし大昔の有名な民族学者曰く、どの種族であってもその成り立ちは変わらないのだという。
そこには、古代の魔女的思想における、人間の一生を一日に例えた謎掛けが、密接に関与しているそうだ。
『朝は四本足 昼は二本足 夜は三本足 この生物は何だ?』
地球ではスフィンクスの謎掛けとして、この世界では魔女の問いかけとして、よく知られるこの問の答えは『人間』である。四本足とは四つん這いになって這う子供を表し、二本足とは両足で立って歩く大人を表す。三本足というのは両足だけでなく杖をも用いる老人だ。
そしてどのような原理か、この謎掛けが「子供は魔獣を殺せない」という奇妙な現象を引き起こす鍵となっているのである。
はるか昔、人間と魔獣は今と変わらず争っていた。しかし、凶悪な魔獣に対して、人間は大きな武器を持たなかったため、状況は魔獣の優勢であった。
そんな中で、一人の賢者は言った。
「ならば、何かを削り弱くして、他の何かを強くしよう」
賢者の思惑はこうである。
人間は、朝に起きて、昼に最も活動し、夜に眠りに付く。この事から、人間は昼間に特に活発化する種族であることがわかる。
賢者は、それと魔女の謎掛けを結びつけて、「昼=大人」の期間だけを魔獣を殺せる時期にし、それ以外の時期に「魔獣を殺せない」という制約をかけた。
そして同じように、「朝=子供」の期間が長く大人にならず老化する矮躯の民と、「夜=老人」の期間がほぼ永遠に続く夜の民は、それぞれの特性を得たのである。
そして、これにより劣勢であった人類はその力を盛り返し、幾千幾万の時の果てに現代がある――と。
まあ当然真偽は不明だが、それでも現代において最も支持を得ている仮説だろう。
それで――――だ。
だとすれば、ならばこれは僕にも、当てはまることなのだろうか?
そんな疑問は、その仮説を知った時から頭に浮かんでいた。
子供が魔獣を殺せないのは、単純に大人じゃないから。
しかし精神的に大人である僕の場合、魔獣を殺すことは可能なのではないだろうか。
外見上は子供でも、前世の十八年を加算すれば僕の精神年齢は三十路のおじさんだ。そんな気は全くないけれど。それに前世の時点で、十五歳という年齢は超えている。
「精神」という面に限って言えば、僕は大人なのだ。
「だから僕は、オマエの腕を斬ることができた。………まあ可能性は半々だったけれど、結果的に予想通りだったから良しとしよう」
そう言って、僕は腰を抜かしたゴブリンを見下ろした。
先程とは真逆の構図。
とはいえ、この賭けにおいて最も幸運だったのは、孤児院から支給されたナイフの切れ味が、予想外に鋭かったことだろう。
僕の腕をもすんなりと断ち切った銀色のナイフは、同じようにゴブリンの腕も切り裂いた。ギドが傷一つつけることのできなかった皮膚が切れたのは、僕自身の「性質」によるものだったとしても、それ以前に僕はそもそも「ステータス」が低いのである。それこそ純粋な数値の差では、僕はゴブリンを殺すことができない。
だから、その隙間を埋めるのは用いる道具の差であり、防具の防御力であり、剣の切れ味なのだ。
それを、「さすが王国最大級の騎士育成施設!!」と褒め称えるべきなのか、「何故そんな物騒な物を子供に渡すんだよ!?」と憤慨するべきなのかは、正直わからないけれども。
「…………さて」
そう言いつつも、僕はナイフを手に持ったまま、ゴブリンに近づいていった。
こうしてゴブリンが動けない以上、次に狙うべきはやはり首だろう。どんな怪物であっても、頭と体が分たれれば死ぬはずだ。
ゴブリンはぐったりと座り込み、その双眸はほとんど閉じられている。それでも狂気を持ったこの魔獣は、命の危険に見舞われたこの瞬間においで、どのような行動を取るのかがわからない。僕は一歩一歩ゆっくりと、用心しながら、足を前に進めた。
それでも結局、ゴブリンが僕に何かをするような様子はない。先程の笑い顔はどこかへと消え去り、僕の腕と自身の腕をそばに置きながら、ただただ、何をするでもなく、呆然とこちらを見ている。
時折ピクリと動きを見せたが、それだけだった。
だから、すんなりと、とてもすんなりと、僕はゴブリンの首を断ち切ることに成功する。
なんともあっけない幕引きだった。
こうして、ゴブリンは死んだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「――――やっぱり、ここは貴方を始末しておいたほうが良いのでしょうか?」
「…………え?」
声が聞こえて、僕は振り返った。
蜂蜜のような香りが鼻孔をくすぐり、カツカツというハイヒールの音が耳を打つ。
薄い茶色の髪に、手に持つのはフリルのついた雨傘。青白いドレスで着飾ったその女性は、その金色の瞳をじっとこちらに向けながら、静かな微笑をたたえていた。
「シスターマリア?」
「こんにちわ。ルキウス君。試練は失敗でしたが、まあお疲れ様でした」
「シスターがどうしてここに………。いや、それよりも今の言葉って………」
表情を崩さないまま、シスターは言葉を紡ぐ。
「帰りが遅いので、転移門の前で待っていたのですけれど、リズベットさん達が走って来まして。見てみればギド君が重症を負っているようでしたし、何事かと話しを聞いてみれば、レオナルドさんは泣き出す始末でしたし………」
大変だったんですよ? と首を傾げて微笑みかけるシスターは、どこか様子がおかしかった。
口調も、動作も、僕のよく知るシスターマリアだったが、最初に奇妙なことを言っていたし、普段の修道女のような出で立ちとは打って変わって、華やかなドレスを纏っているのである。
そしてそれだけではなくて。
お前は誰だと、そう言いたくなる口元を抑えて、僕はシスターを見上げた。
何がどう、というわけではないのだ。僕の理性は、目の前に立っている人間が、シスターマリアであるということを納得している。――にも関わらず、同時に、目の前にいる存在が、人間以外の何かであるような、そんなことを実感していた。
「………………は?」
「ああ、この格好ですか? ただの正装です。本業の、ね」
笑う。嗤う。黄金の、ゴブリンと同じ瞳をこちらに向けながら、シスターはただ微笑を浮かべている。
「いや、だから、そうじゃなくて」僕は、恐怖には慣れているはずなのに、なぜだか震える体を押さえ込みながら、「貴女はシスターマリアですか」
「無粋ですよルキウス君。それは淑女に年齢を尋ねる位には、無粋です」
その問いかけに、シスターは明確な答えを示さなかった。それこそが答え。シスターマリアのような外見のその女性は、シスターマリアの革を被った何かであ
り――――
「それは早とちりというものですよ。ルキウス君?」
僕の心を読み取ったかのようにそう言ったシスター。
「確かに私は「シスターマリア」という人物ではありません。あくまでも本来の姿は別にあります。今の「マリア」という人格は、仮として形成した二つ目の並行人格に過ぎない」
シスターが何を言っているのか、全く理解ができなかった。ただそれでも、シスターはもう、僕の知るシスターではないようだった。
「じゃあ質問を変えますけど」
そう言って、僕はシスターの顔をじっとみる。
美しく微笑んだ顔を、笑みを貼り付けたその顔を、僕は見て、言った。
「貴女は、なんだ?」
「魔女です」
「は?」
魔女? 彼女は今、魔女と言ったのか。
人類の反逆者。地獄の魂を売った堕落者。落第種魔獣。人類の敵。
今まで、僕達に様々な物事を教えてくれたシスターマリアが、リズがよく懐いていたシスターマリアが、人にあだなす怪物だったというのか。
僕は今、敵の目の前にいるというのか。
困惑する。焦燥する。思考が追いつかない。知性では納得していたが、理性は理解できていないようだった。
しかしそんなことを気にするわけもなく、シスターは、魔女は僕に向けて、薄っぺらい微笑を浮かべて言う。
「おめでとうございます。貴方は【魔女教会】より不穏分子という決定が下されました。よってわたくし、【涙の魔女】メルイーアが、貴方を排除いたします」
――――そうして、僕は為す術もなく蹂躙された。
手足をもがれ、首を断たれ、完膚なきまでに、ゴブリンにような結末を辿る。
閉ざされてゆく思考。黒ずむ視覚。まるで影に囚われるような感覚。海に吸い込まれるような感覚。
僕は、『とりあえず三人には胸を張れたのだからそれでいいや』と、ふとそんなことを考える。
魔女は笑みを貼り付けながら、僕の頬に口づけをする。
まるで赤子を寝かせるときのように。
「おやすみなさい。ルキウス君」
走馬灯は、見なかった。