1-1 Prologue For The "Inability".
幼子が魔獣を倒せるか。
答えは否である。
例えどれだけ鍛錬を積もうと、例えどれだけ敵が弱かろうと、幼子は「魔獣」を殺すことなどできない。
―――ソレは、子犬か小猿を一回り大きくした程度の大きさのヒト型だった。
汚れた全身は気味の悪い濃緑で、胴体に比べて両手と頭は異様に大きい。顔立ちは醜く、その口元は醜悪に歪められ、身体のところどころには自身のものか他者のか、赤黒い血液が付着している。
害人種魔獣。通称は『ゴブリン』。コボルトやグレムリンなどと並ぶ「戦闘初心者が比較的与し易い害人種魔獣」ではあるものの、ここでいう初心者とは成人の冒険者や騎士を指す。
つまり、ゴブリンがどれだけ弱かろうとも、逆に幼子がどれだけ強かろうとも、幼児一人にとっては脅威でしかないのである。
故にダンジョンの内壁で、動くことができずに座り込む僕に、人食いの怪物を止める術はない。
その事実をよく知っているゴブリンは嗜虐心たっぷりの笑みを浮かべ、長い舌で口を舐め回す。右手の持った不釣り合いに大きな棍棒を地面に引きずらせながら、遅遅とした動作でこちらへと向かってくる。このまま、弱肉強食の定石通り僕を食べようとしているのだろう。
恐怖はあまりなかった。生まれつき苦痛の類には鈍かったし、何より僕は一度死んでいるから、そういうことに対する耐性があった。
醜い怪物の嗜虐に嗤い、少年は食われるのを待つばかり。
「どうしてこうなったんだっけ……」という現実逃避にも似た過去回想を行いながら、僕は恐れなく魔獣に右腕を捧げた。
噛み切る音。あふれる鮮血。
その痛みは現実的で、確かに、僕が転生した異世界のものだった。
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かつての話。
堕落するだけの人生だった。意味の無い一生だった。
その生涯の殆どを、白い部屋の内側で過ごしていた。
パイプの骨組みがむき出しの簡易ベット。右腕からつながれた点滴。うっすらと漂う消毒液の匂い。
窓から入り込む心地よい風。やや遠くに聞こえるテレビの音。読みかけの文庫本。病院の中の一室は酷く空虚で、誰もいなくて、何もなかった。
両親は、涙を流して謝った。先生はひどく申し訳なさそうに、見込みはないと言った。
故に、こうなることはよくわかっていた。
自分は死ぬ。物心ついた頃から、そう決めつけて生きてきたし、実際にそうなることは生まれる前から決まっていた。
死ぬことに後悔はない。後悔するほど密度の高い人生は送れなかった。
それでも、朦朧とする意識の中で、子供のように泣きじゃくる両親を見ながら、二人を泣かせてしまった罪悪感で苦く笑う。
――――笑った。
そう。全ては過去のこと。
これまでの人生とはおさらばして、結論僕は転生した。
まるで王道ファンタジー小説のような、剣と魔法と騎士と怪物の存在する異世界で生まれ変わったのだ。
つまりは、異世界転生というわけである――――――。
「やっぱり、なれないよなぁ…………」
鏡に写った自分の姿を見て、僕は深く嘆息した。
癖のないさらさらな髪は金色で、幼気無く細められた双眸は深紅。瞳を除けばあどけない顔立ちは色白で端正だ。前世の感覚では確実に美少年にあたるのだろうから、別に嫌というわけではないのだけれど、いかんせんかつてが平々凡々な容姿だったために違和感が大きい。
というかそれ以前に―――
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名称/性別/年齢:【無聖印】ルキウス・アムセス/男/12
種族:平地の民
レベル:8
筋力:5 耐久:7 俊敏:6 知識:11 技術:9 霊力:5
スキル:なし
保有物:なし
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鏡より映し出された顔の、その斜め上方にて空中浮遊する変な文字。曰く僕自身の魂の質を表したものだというそれは、ここが異世界であるという証明に他ならず、そして同時に僕の中での不可思議の象徴でもあった。
「ルキくーん。早くしてー!」
窓の外から飛んでくる声にはっとして、僕は鏡から眼を離す。同時にステータス画面は消え、今度は古めかしい、石造りの部屋の光景が飛び込んできた。
酷く狭い部屋だった。左右二つに設けられた二段ベッドと、それぞれの脇に置かれた荷物置きやクローゼット。そして今しがた僕が覗き込んでいた全身鏡。それらが床面積の殆どを侵食し、中央の窓とドアを繋ぐ一直線だけが、事実上床としての役割を全うしている。
クローゼットから真っ白なシャツとズボンを取り出して着替えると、僕は急いで部屋を後にした。
「はーやーくー!」
幼馴染の呼び声に急かされながら、長い廊下を歩く。やがて突き当りの玄関から外へと出れば、そこにはまごうことなき異世界が広がっている。
早朝の庭園は霧に覆われ、未知の食物は華や実を咲かせている。中空のところどころには精霊の残した粒子霊力がキラキラと舞い、そして大空には巨大な惑星が、霧で霞んだ太陽の逆方向に存在していた。
「もぉ! 遅いよルキくん」
そんな光景のその前側に認められるのは、一人の少女だった。
プラチナブロンドの長髪を一括りにしている、白いワンピース姿の少女だ。年齢は十歳程度。瞳は空色で、唇は薄い桃色。唇と同じ色に染まった頬はぷっくりと膨らんでいて、わざとらしい怒りのポーズは歳相応に愛らしかった。
「ごめんねリズ。寝坊しちゃうなんて…………」
「んーん! いいよ許す!」
僕の謝罪を即答で受け入れ、八重歯を覗かせながらニシシと笑う少女――リズは、足元に転がっていた二本の木剣のうち片方を、僕に向かって投げた。
剣は綺麗な軌道を描いて、僕の足元につき刺ささる。それを引っこ抜いてぶきっちょに構えれば、リズも同じように構えた。
「じゃあ、やろ!」
「うん。……よろしくお願いします」
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それは剣の試合と呼ぶにしては、いささか不格好なものだった。
ただ全力で右から左へと振り切るような僕の一撃を、リズは音もなくいなす。上方向へと流された木剣は力任せに機動を修正。そのままリズへと向かって振り下ろされて、今度はコンマ数ミリ単位で躱されて空を切る。―――そんなことの繰り返し。
何度も何度も何度も。僕の全力は目の前の少女によって容易くあしらわれ、その一撃は空を切る。やがれ焦燥が募って一歩踏み出して剣を振るえば、同じく一歩踏み出たリズの剣がそれを打ち叩いた。
木剣は宙を舞い、僕の腰とともにコロンと音を立てて地面に落ちる。
「…………」
「やった! またわたしの勝ち!!」
無邪気に笑う僕を打ち負かした少女の声。
これで今日は二十連敗目。最初に試合を頼んだ一ヶ月前から全部合わせれば、七百回くらいは負けているだろう。そして一度も勝てたことはない。勝てないと分かっているとはいえ、男が女の子に負けるのは少し悔しくて、惨めだった。
そんな僕が起き上がるのを手伝ってくれながら、軽快に笑い飛ばすリズ。
「仕方ないよ。ルキくんのステータスはまだ弱っちいんだから」
そう。ステータス。結局それがあるから、僕はこの少女に勝てない。勝てないとわかってしまう。僕のステータスは同年代の誰よりも少なく、逆にリゼは同年代の中でも突出して高いステータスを持っている。ただそれだけの理由で、僕が彼女より弱いことの証明になり得てしまうのだ。
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名称/性別/年齢:【無聖印】エリザベス・アムセス/女/12
種族:平地の民
レベル:19
筋力:20 耐久:18 俊敏:25 知識:8 技術:18 霊力:9
スキル:【剣の加護】【閃光一線】
保有物:なし
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自分の額辺りを集中をすると、世界の見え方が一変した。リズの脇に彼女のステータスが表示され、同時に僕のものも見えるようになる。
平均値としては、齢十二では大体レベル十三程度が普通なのだそうだ。レベルは筋力や知識といった基礎アビリティの平均値(少数割り切り)が表示されるが、僕のレベルは8と明らかに小さいし、逆にリズのレベルは19と非常に大きい。
そして何よりスキル保有者ではない僕に比べて、リズはスキルを二つも持っている。どちらも剣術に影響を与えるもので、その内の一つ、【剣の加護】は基礎アビリティの成長を促すものだった。
つまりは、才能の差。
肉体性能が可視化されたこの異世界において、才能の格差は顕著に現れる。
たとえどれだけ努力を積み重ねても、努力する無能は努力する天才に敵うことはない。
前世と比べて、僕自身は格段に強くなった。
容姿も含めて、かつての常識では「平凡以上」と呼べるものになった。
だがそれでも、異世界の常識は当然の如く僕の想像を上回って、その強さを帳消しにしてしまうのだ。
つまり、僕は無能なのである。