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棚道はただじっと私たちの顔を眺めていた。

先ほど、キーホルダーを見たときのような動揺は一切なく、むしろ凪いだ目をしていたと思う。

そして、「……後で話しをしましょう」と引き結んだ唇に歪な笑みを刷いてその場を静かに去った。

長い廊下の暗闇に呑まれていく彼の背中を視線だけで追う。

その姿には、声を掛けることすら躊躇わせる何かがあった。

それは多分「拒絶」と呼ばれるもので、もしくは「敵意」と表されるものだったかもしれない。

そういう類の感情を他人に向けられたこと事態が初めてで、正直、成す術もなく立ち尽くしていたのだ。

私は、棚道の気配が完全に消えるまで、ただ静かに呼吸を繰り返していた。


そんな私に気付いているのか、あえて知らない振りをしているのか村田がふっと息を吐く。

そして「勝手にごめんね」と苦笑した。

それはつまり、兄のノートに書かれていた内容を勝手に話して「ごめん」という意味だろう。

妹である自分自身が読むことさえ躊躇いを覚えたノートだ。

それを村田に渡したときに『他の誰にも見せないと約束してください』と念を押した。

彼が謝罪を口にしているのは、その約束のことがあったからに違いない。

そしてどうやら、今この瞬間までノートの中身を他の誰にも明かさなかったようだ。

真実そうなのかは、もちろん分からないけれど。なぜか確信めいたものがある。


友人の「この件に関して、もしも何かあって……誰も信用できないような状態に陥ったとしても、村ちゃんのことだけは疑わないで」という助言もそれを後押ししていた。


村田は「まどろっこしいのは性分はないから」と、もう一度頭を下げる。

許すという意味で首を振れば、彼は「良かったぁ。怒ったかと思っちゃったよ」と笑った。

先ほどまでの殊勝な態度は何だったのかと思えるほどの変わり身の早さだ。

軽すぎる「笑み」が、その顔を覆っている。指で引っ掻けば、もしかしたら剥がれ落ちるのではないかと思わせた。

ふと、彼のこの軽薄な雰囲気は何なのだろうと考える。

あえて、信用に値しない人間のような、相手に疑心を抱かせるような振る舞いをしているようだ。

けれど、これも彼の作戦か何かかもしれないと思う。

そのふわふわとした容貌からは想像もつかない言葉を口にして、いきなり爆弾を落とす。

そして、相手に考える隙を与えない。そういう彼の魂胆が見える。

実際、棚道は『林に埋めた神様』のことを耳にしたとき、一つだけ息を呑んだ。

「後で」と言い出す前の、ほんの刹那。何かを飲み込むように喉を嚥下させたのだ。

その様子に私と村田は確信を得た。

彼は確かに『林に埋めた神様』のことを知っているのだと。


『施設で出会った僕たち4人は、まるで生まれたときから供にあったかのように互いをよく理解していた。それは単純に育った環境が似ているからかもしれないけれど、僕たちは出会ってから半年もたたずに、互いのことを兄弟だと呼び合うまでになったのだ。

これは多分、家を出るまで友人関係だった同級生とは明らかに違うものだったと思う。

そんな僕たちが、更にその絆を強固なものにしたきっかけは、とある出来事があったからだ。

いや、あれは「とある」なんて軽い表現で済まされていい出来事ではない。それを知っている』


兄はノートの中にこう書き記している。

彼が私より年長であることは確かだから、その人生は、長くはないとはいえ短いとも言えない。

その人生の一部をノートに記しておこうとしたわけであるから、そこに書かれている出来事はよほど印象に残っているということなのだろう。

そうだとすれば、もしかしたら、このノートは雑記なんかではないのかもしれない。

何か一つだけどうしても書き残しておきたいことがあったからこそペンを取ったのではないだろうかと思わせる。


『館長は僕たち皆を平等に扱った。基本的に優しく、だけど時にはどうしようもないほどに厳しく接する。教育とはそういうものかもしれないけれど、彼は育ての親でもなければ教師でもない。反抗心が生まれるのは自然の流れだったと思う。僕たちがそういう年齢であったことも拍車をかけたのだ。

だからそんな僕たちの心を修正する意味合いがあったのではないかと、今なら、そう考える』


館長という言葉はここで初めて出てくるのだが、私が『施設』のことを児童館の類だと勘違いした理由もこの単語があったからこそだった。

決して重要人物として描かれているわけではないし、実際、その名が登場する回数も多くない。

けれど、ここまでくればさすがに私にも理解できる。

館長なる人物が、この得体の知れない組織の人間だということが。


『彼はいつも言っていた。我々はいつも神様と共にあると。それは決して目に見える存在ではないけれど、信じる心さえ失わなければ、過酷な人生を支えてくれる光になり得ると。

だけど、君たちの神様は少し穢れているようだと眉を顰めた』


初めてこのノートを読んだときは、単純に、不思議な話だと思った。

けれど、迷信のようなことを、さも真実であるかのように語る人間はどこにでもいる。だから、この館長なる人物が特別、変だとは思わなかった。

親が子供に「早く寝ないと悪いことが起こるよ」と言い聞かせるような、そんな程度のものだろうと理解したのだ。

だから兄も、その友人たちもさして不気味だとは思わなかったのかもしれない。


『君たちの身に宿っている神様は少し疲れているのだと。だから、土に還すべきだとそう言ったのだ』


一度土に還して、悪いものを浄化し、そしていつか掘り起こす。


『それが、いかにも楽しいことのように語るから。僕たちはなぜかそれを、遊びの一つだと理解した』


閉鎖された世界で生きていた彼らにとって、団体の大人たちがどういう存在だったのか分からない。

私にはそういう世界に閉じ込められた過去などないから、想像することもできないのだ。

だけど、怪しい人間を「怪しい」と断じる人間はどこにもいなかっただろう事は推察できる。

子供たちはきっと、反抗心を抱きながらも最終的には大人たちの言うことに従ったはずだ。自分たちよりも体格が良く、理知的で、時に横暴であり、それでいて優しさも兼ね備えている。いっそ理不尽だといえる存在であるが、大人たちは唯一、自分たちを守る盾でもあったのだ。


『僕たちの肉体から神様を引き剥がし、土に埋めるのだと言っていた。

それが、夢想か妄想か、あるいは戯言か。

あの頃の僕たちには判断することさえできなかった。

分別がつかないほど幼かったわけではないが、物事をしっかりと見極めて判断するほどの力は備わっていなかったのだ。

理性的に行動するというよりは、感情に任せて振舞うことの方が多かった気がするから、そういう意味でいえば僕たちはまだまだ子供だったのだろう。

他の大人たちに刷り込まれた、館長の言うことは正しいのだという思い込みもあった。

だから結局、言われるがままに行動することとなったのだ』


館長と話しをして幾日か経過した頃、僕たちは林の中に集められた。

仲のいい4人が選ばれたのだと、館長は満足そうに笑って僕の頭を撫でたのだ。

施設からはやけに遠い場所だった。

空を見上げれば、生い茂った木々の間から燃えるような夕日が差し込む。

そんなに暑い時期ではなかったと記憶しているが、四方に散った赤い光が、林に火をつけたのように思えて恐ろしかった。それはまるで、僕たち皆を焦がしていくようで。

僕は思わず、隣に立っていた友人の腕を掴んだ。

館長は僕たちを乗せてきた車のトランクから、白い布で包まれた何かを取り出し、それを「神様」だと言った。

事前におまじないをして、君たちから引き剥がしておいたんだよと。

そのときにはさすがに違和感を覚えたのだが、今更引き返すわけにもいかないと、僕たちは首を傾げながらも館長の指示に従い、白い布で包まれたそれを箱に詰めた。

そして、林の中に運び込んで、土に埋めたのだ。

その作業はひどく疲労感を伴うもので、僕はその帰り道に何度か嘔吐した。それを、鮮明に覚えている。

―――――と、兄は語っている。


遊びにしては、あまりにも陰惨さを含んでいる。

だけど、この文章を、ただ淡々と読み流せばさほど暗いものにはならないはずだ。

変わった遊びに興じて、体調を崩した子供の話しでしかない。

けれど、兄が新興宗教団体かよく分からない組織に捕われていたのだとしたら、これは一種の「儀式」だったのではないかと思えるのだ。

この団体が何を信仰していたのかも分からないし、パンフレットには「この世には神などいない」と書かれていた。だから一体何をしようとしていたか分からないが、この一連の行いには、それまでの信仰を捨てさせる意味合いがあったのではないだろうか。


「今たくさんの疑問が頭を過ぎっていると思うけど、とりあえず代表に会ってみよう」


扉の前でぼんやりと固まっていた私に村田は微笑みかけてくる。

そして、ぽんぽんと軽く背中を叩いてきた。

行動を促すというよりは、励ますような意味合いがあったと思う。

そういえば子供の頃、父親がよくそうしてくれた。今でこそ、接触らしい接触はほとんどないけれど。


―――――そう、あれは運動会の日だ。


昼食は家族と一緒にお弁当を食べる。それも行事の一環で、運動場の隅に並んだ様々な遊具を囲むように各々の家族が用意したレジャーシートが敷かれていた。

父も叔母と一緒に来てくれて、まるで夫婦のように寄り添っていたのを思い出す。お弁当を準備して、色んな家族でひしめいていた場所の一角を陣取っていた。

だけど、そこまで一緒に歩いてきた友人に、『きわこちゃんのお母さん、優しそうだね』と何気なく言われたそのとき。

微笑んで、私に手を振っている叔母の顔を憎らしく思った。

『かけっこ、早かったね』と褒めてくれるその言葉が、痛い。

その優しい眼差しに、身の置き所がなくなる気がした。


なぜか分からない。だけど、確かに傷ついたのだ。彼女が母親ではないことに。

何も言えずに立ち竦む私を置き去りに、友人は自分の家族の下へと去って行く。

そんな私たちを見ていた父は、きっと何かを察したのだろう。レジャーシートの上に立ち上がって私を招き、ぽんぽんと背中を叩いてくれたのだ。

どうしようもなく優しい仕草で、痛くも何ともなかったのに、なぜか泣き出しそうになる。

だけど、泣いてはいけないと分かっていた。

叔母がその日の為に仕事を休んでくれたことを知っていたから。

優しくしてくれた。実の親でもないのに。

だから、母親がいないことを嘆いてはいけないと、分かっていたのだ。


*

*


結論から言えば、「代表」と呼ばれるその人は、話しができるような状態ではなかった。


扉を叩けば、部屋の中から出てきたのは40代とおぼしき女性で。

代表は昨日から一度も目を覚ましていないのだと説明される。

後れ毛を撫で付けるようにして私たちを招きいれながら「彼もお話しできないのは残念だと思っているんじゃないかしら」と微笑した。

事前に面会の予約を入れていたとは言え、突然の訪問を訝しく思わなかったはずはない。

それなのに、彼女は至極丁寧な対応をしてくれた。

部屋の奥に準備していたらしいワゴンを動かして、自らお茶を入れてくれる。

その様子をただ見守っていれば「散らかっておりますでしょう? 本当にもうしわけないわ」と、テーブルの上をささっと片付けた。

その振る舞いは、代表の世話役というよりも配偶者に近いものがあったと思う。

「彼とは付き合いが長いものだから、こうしてお世話することになってしまったんだけど」と悲しげに視線を落とした彼女は、それでも妻ではないのだという。


「意識が戻ることはないのですか?」


村田がそっと声を掛ける。同室に病人がいることを加味してのことだろう。

そして、互いに名乗ることさえなかったのは、こうして顔を合わせるのが最初で最後だと知っていたからだ。

彼女は寸の間俯いて「さぁ、どうかしらね」と言葉を濁した。

そして、「昔は本当に活力に溢れていて、ついていくのが大変だったのよ」と懐かしむように視線を動かした。その先の大きな窓の下には天蓋つきのベッドが一つだけ置かれている。

代表はそこで眠りについたまま、言葉を発することはなく呼吸を繰り返しているだけだ。

ベッドの周りには明らかな医療機器が並んでいた。

他に、本棚やテーブル、椅子、来客用のソファが絶妙な配置で並んでいるけれど、生活感の滲み出ているものと言えばそれだけである。

規則的な機械音は、どうやら代表の命の灯火を知らせているもののようで、それがやけに大きく響いていた。

鼻につく臭いは薬品か、死の気配か。よく分からないまま、流されるままソファに座りお茶を飲んだ。

その光景だけ眺めていれば、ひどく穏やかで。

建物の外はいつの間にか雪がちらついているというのに、部屋の中は眠気を誘いそうなほどに温かかった。事情が事情だけに長居はしたくないけれど、これがただの休日で、訪れた先が友人宅だったなら何時間でも居座っていたことだろう。


「ここへは人を捜しに来たんです。彼女のお兄さんなんですが」と、村田が口火をきったものの、穏やかな笑みを崩すこともなく彼女は言った。


「知らないわ。……彼はともかく、私はね」


ちらりと代表が眠っているらしいベッドに視線を移したものの、すぐに私たちを見据える。

村田から順番に、私の顔を記憶に刻むかのようにじっくりと見ていた。

そして、私たちがここへ移ってきたのは数年前だけれど、その前に事務所を構えていた場所はとにかく人の出入りが多かったと続ける。

この洋館に移り住む前はどこに住んでいたとか、そこには何人居てどのような事業をしていたとか、経営はどうだったとか、彼女は予め用意していた文章を読み上げるみたいに、息もつかず淡々と話し続けた。

何かの記録を持ち出すこともなく、本当に記憶を浚っているのかデタラメを並べているのか判断がつかない。だけど、その言葉一つ一つを聞き取るのに精一杯だった私たちには言葉を挟む余裕すらなかった。

難しい言葉を並べて話す彼女は、相手に理解してもらおうと思っていないようで。

それは決して話し上手とは言えなかったけれど、有無を言わせない迫力がある。

珍しく、村田も肯きはするものの黙り込んでいた。


つらつらと話し終えた女性は、にこりと笑んで自ら淹れたお茶に口をつける。

もうこれ以上話すことはないと言わんばかりの態度だ。

それは多分、年齢的なものや経験からくる「余裕」というやつだろう。

彼女を追及したなら、とんでもない事実が判明することだって考えられる。だけど、それをするだけの材料がどこにもない。

彼女だって、丁寧な対応を心掛けているようだが、私たちとまともに「会話」する気はないのだ。


誰を捜しているのか、とか。いつ頃の話なのか、とか。


人を捜しに来たという私たちに確認すべき事項はたくさんあったはずなのに、何一つ聞かれなかった。

それほどに無関心なのか、それとも隠したい何かがあるのか。もしくは、既に私たちの事情をよく理解していて、それでも詳細を語るに値しないと結論づけたのか。

お茶を入れたカップを口元に運ぶ美しい指先からは何も読み取れない。

そんな私の視線に気付いたのか、彼女は長い睫を震わせてこちらをみやると唇の端を引き上げる。

意味深な笑みだと思った。

「とりあえず、彼のお顔でも見ていってあげて」と、これ以上話すことはないとでも言うように彼女は立ち上がる。言わずもがな、席を立つように誘導されてしまったわけだ。

村田と一瞬だけ視線を交錯させて互いの意志を確認した。

彼の表情を正確に読み取ることは難しいが、先に腰を浮かせたので、それに続く。


「代表は……どのようなご病気で?」

「……それにはあまりお答えしたくないわ。だって貴方たち、彼の個人的な知り合いではないでしょう?」


団体の経営についてはすんなりと口を開いたというのに、明らかに重篤であると思える代表の病状については口が重い。そこには、代表自身を守ろうとする彼女の意志が見えた。

村田は息を吐き、私の背中を押す。もうこれ以上は何も聞き出せないと判断したのだろう。

私だって、そう思っている。

組織を守ることよりも、代表個人を慮ることを選んだ女性はきっと口が硬い。

彼女は私たちの動向を見張るような視線だけを残して、音もなく身を翻した。そして部屋の隅に避けて、「どうぞ」という風に手でベッドの方を示す。


洋間に天蓋という現代日本ではなかなかお目にかかれない光景に一瞬たじろぐ。

ワンルームマンションに居住を構える私からすると、いっそ異空間とも思えるそこで老人は静かに眠っていた。呼吸をしているのが不思議なほどに乾いている。干からびていると言ったほうが正しいかもしれない。

これが一つの組織を纏め上げていたはずの男の最期なのか。


この男が、私から母と兄を奪ったのか。


思わず掴みかかってしまいそうになる衝動を抑えつつ、瞳を閉じた。








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