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6

「私は棚道と申します」と、名字だけを口にした男性が入口の扉を開いた。

いかにも重そうな両開きの扉にはステンドグラスが嵌っている。

その片側だけを開放されて中へと入れば、真冬の分厚い雲に覆われた寒空の下を歩いてきたためか、壁と天井があるというだけで温かく感じられた。

想像していたよりもずっと広い玄関ホールに、思わず「わぁ」と感嘆の声が漏れる。

外観だけを見ても建物の中は広そうだったが、シャンデリアの吊るされた天井に威圧感さえ覚えた。

コートを脱ぎながら周囲を見回せば「女の子はこういうの好きそうだよね」と村田が笑う。

すると棚道が、「いえいえ、男性だってこういう洋館が好きだと仰いますよ」と朗らかに訂正した。


「男性も女性も、美しいものに心を惹かれるものです」


その逆もありますが、と付け加えたのには何か意味があるのだろうか。

「逆」というのはつまり、醜いものに惹かれることもあるという意味か。

もしくは、美しいものに嫌悪感を抱く人間もいるという意味か。


さっきはほんの一瞬だけ、この人が兄かもしれないと思ったのだけれど、何となく違うと分かる。

兄の顔を覚えているわけではないが、その端正な顔立ちは両親の遺伝子を受け継いでいるようには見えない。

そもそも私とは名字が違うし、母の旧姓でもない。

だいたい、この人が兄であれば村田が教えてくれるはずだ。

私は依頼人であり、村田とはきちんと契約を結んでいる。兄の居場所を知っているなら、すぐに教えてくれるはずで、もったいぶる必要などどこにもない。

だから恐らく、ここにはいないのだろう。


「この洋館には、他に誰か居るんですか?」


玄関ホールの端にあったむき出しの階段を上ると、そこに長い直線の廊下が現れる。大人が三人横並びになってもまだ余裕があるくらいに広い。

「あまり人気ひとけがないようですが」

それまでの陽気さをいっさい崩さずに村田が人好きのする笑みを浮かべる。

対応する棚道も負けず劣らず品のいい柔和な顔をしていた。


「代表が病気で臥せってしまってからは……たくさんの人間が去っていきました。ご本人もそれを良しとされていたので、ここには数名しか残っておりません」

「ああ、そうですか。ご病気で」


村田は既にその情報を得ていたのだろう。いかにも驚いたかのように振舞っているが「それは心配なことですね」と言いながら、私にそっと目配せしてくる。

「今、代表はお仕事されていないんですか?」

「……ええ。今、というか……病気になる前から少しずつ仕事を減らしていたので……」

「へぇ、それは一体なぜ?」

「さぁ、私にもよく分からないんですが、もしかしたら飽きてしまったのかもしれませんね」

「飽きた? 仕事をすることに、ですか?」


その声に呆れさえ滲ませて怪訝な表情を浮かべる村田に、棚道は不快な様子も見せずに首を傾げる。


「代表は元々、熱心に仕事をするタイプではないんですよ。熱心だったのはむしろ……その周囲ですかね」


でも、代表が寝付いてしまってからはそういう人間も離れて行ったんですよ、と苦笑を浮かべた。

その横顔には少し、疲れが滲んでいる。恐らく本当は、そんな単純な話しではないのだろう。

けれど、先ほど聞かされた「ワンマン社長」の件と紐付ければ、何となく、この団体が今どういう状況にあるのかが見えてくる。

病気で臥せっているらしい代表は、現在、その座を退いているということなのか。


「それで……代表に何か聞きたいことがあるとか?」


棚道がふと立ち止まり、何かを探るような目を向けてくる。それまでの柔らかな表情は影も形もない。

無表情とも言える彼の顔は、ひどく冷淡に見えた。

けれど、その方が彼の端正な顔立ちにはしっくりくる気がする。あまりに整い過ぎているからかもしれないが、笑ったほうが人形めいて見えるのだ。


「ええ、ちょっと……施設に入っていた人のことで」


村田は言葉を濁しつつも、ここに来た目的を簡潔に告げる。


「施設?」


はっきりと不信感の滲む声に、背中が強張った。事前にどこまで話していたのか知らないが、棚道は初耳だったのだろう。私と村田の顔を見比べるように視線を滑らせている。


「ええ、施設です。夢と希望と創造の家って言う」


けれど村田は少しも躊躇うことなく話しを続けた。仕事柄、こういう緊迫したやり取りにも慣れているのだろう。棚道とは違い、その相貌には胡散臭い笑みを貼り付けたままだ。


「―――――創造の家、ですか……」


てっきり何か大きな反応を見せると思っていたのに、棚道は白い顔を斜めに傾いで少し遠くを見た。

その視線を追って思わず振り返りそうになるけれど、彼が、現実の「何か」を見ているわけではないことに気付く。「ご存知ですか?」と声を掛ける村田は、棚道の不可思議な眼差しに何かしらの意味を見出しているのかもしれない。


「ええ、知っていますよ」


何度か瞬きを繰り返した棚道は、その白皙の顔を前に向けて「ここは寒いですから、早く部屋へ入りましょう」と再び前を歩く。

私と村田よりも数歩前を歩いているので、その顔は見えない。

「……こういうことを聞くのも何なのですが、棚道さんは、施設に行ったことがあるんですか?」

「ええ、まぁ、そうですね」

「しかし、不思議ですね。貴方はまだお若いけれど、施設が閉鎖されたのは随分前でしたよね?」

棚道のすぐ後ろを歩く村田は距離を狭めることもなく、少しだけ声を張り上げて問いを重ねる。

長い直線の廊下には、他には誰もいない。

この洋館の庭に面しているらしい廊下には、四角い窓が等間隔に並んでいる。曇ったガラスから取り込んだ細い光が赤い絨毯に淡い模様を描いていた。

前を歩く棚道は、目を離してしまうと闇に紛れて消えてしまいそうだ。


「隠していてもしょうがないことですからね。私はそこで育ったんですよ」


ふと振り向いた棚道は微苦笑のようなものを浮かべていた。

本当は、あまり言いたくないことだったのかもしれない。


「村田さんは、創造の家がどういう施設だったのかはご存知なのでしょう?」

「ええ、まぁ……」

「私には親がいませんから、あそこでお世話になっていたんですよ」


その表情にはどこか、悲哀の色が見てとれる。

だけど、親が居ないという部分は至極あっさりと口にした様子だった。むしろ『あそこにお世話になっていた』という言葉の方に重みを感じる。

なぜか分からないけれど、そう思った。


「ご両親はお亡くなりに?」


不躾ともとれる質問を口にする村田に、棚道はほんの僅かに驚いた様子を見せて小さく首を振る。

「ご健在なのですか?」

それなのにどうして施設へ入っていたのか、という言葉は続かない。

わざわざ声に出す必要はないと思ったのか、それとも、そこまで突っ込むのはさすがに憚られたのか。


「知らないんですよ」


棚道はそう言って、再び前を向いた。

「今、どこで何をしているんでしょうねぇ」と他人事みたいに言う。


「昔は代表の仕事を手伝っていたようなんですが、ある日突然、出奔したんですよ。私を置き去りにして」


出奔、というのはあまりに時代錯誤な物言いだ。

現代日本で、罪を犯したわけでもないのに一つのところに留め置かれるのは不自然でしかない。例え、そんなことがあったとしてもそこから出ることに誰かの許可が必要だとは思えないのだ。

だけど、彼らが身を置いている「団体」というのは、自由に出入りできるような組織ではないのだろう。


「なぜ、彼らがそんなことをしたのか、私にも分からないのです」


暗い廊下に吸い込まれるように、棚道の声が消えた。

村田はさして興味もないかのように「へぇ、そうなんですか」と相槌を打っている。

聞いておきながら、その反応は一体何なのか。と、苛立ちを覚えそうな場面であるが、棚道は振り返りもしない。そのまま黙り込んでしまい、その背中からは何の感情も読めなかった。

もしかしたら怒ってしまったのかもしれないと、声を掛けそうになる。

けれど、何と言っていいか分からない。

意識とは関係なく勝手に開いた私の唇は、言葉を紡ぐことなく空気を噛んだ。


「あー、棚道さん。すいみません」


と、気まずいような何とも言えない雰囲気を打破したのは、やはり村田だった。

「何でしょう?」僅かに振り返った棚道にもおかしなところはない。

二人とも、大人な対応だ。


「悪いんですが、トイレお借りしてもいいですか?」


私の半歩前を歩いていた村田が頭を掻く。

いやー、本当はずっと我慢していて。と、若干恥ずかしそうにしながら周囲に視線を巡らせている。


「ああ、これは申し訳ありません。気が利かずに」


棚道は「案内しましょう」と来た道を戻りかけたのだが、


「いえいえ、大丈夫です。さっき、それらしい扉を見つけたので」と村田がやんわりと制した。

そして、玄関ホールの階段を上がってすぐのところですよね?と、指を軽く動かして確認し、歩き出す。

私には合っているかどうか分からないが、棚道は「ええ、そうです」と肯いた。


「ごめんね、きわこちゃん。ちょっと待ってて」

「あ、はい」


いきなり、よく知りもしない人間と二人きりになることに不安がないわけではない。

けれど、ここで村田を引き止めるのはおかしいだろう。

口を挟まずに、半ば唖然としつつも二人のやり取りを眺める。

すると、唐突に「あ、それともきわこちゃんも一緒に行く?」と、声を掛けられた。村田の軽薄そうな顔には邪気が無い。一切の悪気なく、繊細さの欠片もないようなことを言っているのだ。

不安そうな顔をしていただろう私のことを気遣ってくれているのはわかるが、トイレへ行くのに女性を誘う男性も珍しい。歩くのが遅い私に歩調を合わせることができなかったように、村田は女性への気の遣い方を間違っている。

私のことまで考えてくれたのは嬉しいが、もう少し声を落としてほしいと溜息が漏れた。

それともわざとやっているのだろうか。


軽い足取りで、その場から離れる村田の背中を見送る。

薄暗い場所でも、彼の派手な柄シャツはその存在感を失わない。むしろその蛍光色のせいで目立って見えた。

彼が突き当たりで曲がるのを見送ってから廊下の端に避ける。

他に誰か居るのか分からないが、廊下の真ん中を陣取るのは何だか悪い気がした。


「―――――あの方は、何だか気持ちのいい人ですね」


隣に並んだ棚道から、そんな風に言われて首を傾げる。

見上げれば、その血が通っているかも疑わしいほどの白い顔が私をじっと見据えていた。

居心地が悪くなって視線を逸らしたのだが、


「ご友人なんですか?」と、覗き込むようにして言われる。

思わぬ近距離に、どぎまぎしながら「あ、いえ」慌てて首を振った。けれど、ここに来た理由をどこまで村田が話しているか知らないので迂闊なことは口にできない。

だいたい、村田のことを『気持ちのいい人間』とは何事かと、腑に落ちない気分で俯いた。

これ以上追及されると墓穴を掘りかねないと自嘲したのである。

けれど、私の心境など気付いているはずもない棚道は、人間一人分くらいは空いていた距離をそっと詰めてきた。


「親が居ないと言えば、だいたいの人間は気まずそうにして口を噤むんですよ」


ああ、それは何だか分かる。そう思って顔を上げる。

それでも、大抵の人間は言葉を繋ごうとして口を開くのだ。それはいわゆる、思いやりとか優しさとかそう言った類の感情からくるものだろう。

だけど、上手くいくはずもない。

『相手の立場になって考えましょう』とは、小学校の学級目標などで掲げられるありきたりな文言であるけれど、その通りにやってみたところで理解できないこともある。


「だけど彼は、それが何でもないことのような顔をしていたでしょう」


拍子抜けしました、と笑う彼の顔は少し幼い。

「自分の生い立ちを口にするとき、私は緊張するんです。相手がどんな反応を示すかわからないから。そして、構えるんです。どんな言葉を掛けられても、それなりの対応ができるように」


同情してくれる人間にはただ、「分かってくれて有難う」と言えばいい。お前に何が分かるんだ、という反応は、亀裂を生むだけだと知っている。

……だいたい、そのようなことを棚道は言った。

彼が、私のことをどういう人間だと判じているかは分からない。

けれど、もしかしたら己と同類だと思っているのかもしれないと思った。

類は友を呼ぶ、という使い古された言葉は案外侮れないものなのだ。


「……代表のお加減は、」


二人の間に落ちた僅かな沈黙を埋めるために、思い切って声を掛ける。

「一進一退というやつですねぇ。意識がはっきりしているときもあるし、意思の疎通が図れないこともあります」と、隣に立っている男は曖昧に答えた。

再び重苦しい空気が漂う。……もっとも、そう感じているのは私だけかもしれないが。

何だかそわそわと落ち着かない気分になってしまい、先ほど村田から返されたクマのキーホルダーを取り出す。団体のパンフレットや兄のノートなどの他の資料は村田が持っているけれど、これだけは、スカートのポケットに忍ばせていたのだ。

可愛い、とはっきり断言できない顔立ちのクマだが、それはそれで愛嬌があっていい。

そんなことを思いながら、顔の部分を指で撫でていると、


「―――――それ、」


はっと、息を呑む音が聞こえた。

続けざまに、たたん、と踵を踏む音が響く。絨毯が敷かれているというのに、それがはっきりと分かるほどに大きな音だった。

棚道が、ふらついて倒れそうになったのだ。

けれど、彼はすぐに体勢を立て直し、壁にもたれかかる。

何事かと、言葉を掛けるのも忘れてその様子を眺めていた。


「その、キーホルダー。それ、君の?」


彼は壁に寄りかかったまま数歩だけ後ろに下がって、私から距離を取る。

白い顔から一層血の気が失せている。厚くも薄くもない唇は震えて青褪めていた。

つい数分前まであった余裕のようなものが消えて、言葉を一つ吐き出すたびに、小さな息が漏れる。


「……どうかしたんですか?」


本当は掴みかかりたい衝動に駆られていた。両手で握り締めたクマのキーホルダー。これを見て明らかに様子を変えた棚道。

しかし、わざわざ言葉にせずとも、その顔が雄弁に語っている。

何か知っているのだろう。

だけど、今、衝動的に動いてしまうのは得策ではない気がした。

逸る心臓を抑えつつ、冷静を装う。


「もしかして棚道さん、このキーホルダーのこと、知ってるんですか?」


一歩近づけば、彼はぎゅっと唇を結んだ。呼吸を整えようとしているのが分かる。

そして、そのまま強く瞼を閉じた。


「……あの?」


どのくらいそのままだったか分からない。一秒か、二秒か。もっと長い時間だった気もする。

その息を詰めるような沈黙に、兄の居場所を知るための、何らかの手がかりを得られると感じた。顔色を悪くしているのは、私も同じだっただろう。

こういうとき村田が傍に居たなら、上手く聞き出してくれたに違いない。

彼の気分を害することなく、そして、彼から言葉を奪うこともなく。誘導尋問のように、知りたい答えを導き出したはずだ。


「それ、は、君の物じゃないですよね?」


弱々しい声だったけれど、その双眸はしっかりと私の顔を捉えていた。薄暗い廊下でも、彼の顔は何とか判別できる。その眦が赤く滲んでいた。


「どうして、ですか……? なぜ、私のものではないと?」


私たちは鏡に映したように、互いの顔を眺めている。

疑念に満ちた目をしているのは私だけではないはずだ。窺うような眼差しが皮膚に刺さる。


「見たことがあります。私は、それを知っている」


棚道の、射抜くような強い眼差し。震えているけれど断言するその声。

その全てが、何らかの確信を得ていることを証明しているようだ。

逼迫した雰囲気に、誤魔化しはきかないと覚悟を決める。そうせざるを得なかった。

私にはこの空気を受け流すだけの余裕がない。


「―――――これは、兄のものです」


意を決して口にした割には、心情をそのまま写し取ったみたいに、声が揺れる。

すう、と一つだけ息を吸えば、ほんの僅かに気持ちが落ち着いた。


「池端宗司をご存知ですか?」

「……池端、宗司」

「名字は……もしかしたら違うかもしれません」


棚道はじっと私の顔を見ながら、その名を繰り返した。

『池端』という部分はさらりと口にしたのに、『宗司』と声に出したときだけ息を詰まらせる。

硬いものを噛み砕くみたいに、唇の端を震わせて。


「しゅうじ、」


もう一度、確認するようにぽつりと呟いた彼は、幼い子供みたいな頼りない声をしていた。

そして、喉をこくりと鳴らしてから「君は、」と遠ざかっていた距離を狭める。

一歩近づいただけで、互いの吐息が前髪に触れるほど近くなった。


「池端宗司の妹です」

「妹、」

「はい」

「いもうと、」


妹、そうか、妹か。と何度も繰り返して片手で顔を覆った棚道は、はあと大きく息を吐き出す。

そして声には出さずに、何かを口にした。短く、ぼそぼそと。

それはまるで、何かに祈りを捧げるようだったと思う。


「宗司は、どうしてますか?」


元気ですか? と問われて答えに窮する。それを知りたいのは私のほうだ。

いつまでも答えないのでさすがに焦れたのだろう。顔を上げた棚道が、首を傾ぐ。

けれど、すぐに何かを察したようだった。片方の眉を器用に動かして「ああ、そういうことなんですね」と肯く。


「……行方が分からないんでしょう?」

「……え?」

「君はここに、その『池端宗司』を捜しに来たんですね?」


先ほどの動揺を隠すようにしっかりとした口調で話す棚道だが、その表情が全てを裏切っている。


「どうして? どうして分かるんですか? 私が兄を捜しに来たんだって」


それになぜ、兄が行方不明だと分かるのか。

眉を顰めた私に、棚道は歪な笑みを浮かべた。

笑おうとして失敗したかのような、泣き出す寸前のような表情だ。


「君の言っている人物が、私の知っている『宗司』と同一人物なら……自分の家族に、妹に、会いに行ったりはしないだろうと思うから」

「……どうして?」


先ほどから同じ言葉を繰り返すことしかできない私の方が動揺しているかもしれない。

どうして、どうして、なんで、と馬鹿みたいに繰り返す。


「私がそうだからです。私は家族を捜したりしないし、会いに行ったりもしない」


私の顔からそっと視線を外した棚道は、「私と宗司はよく似ているから」と呟いた。

職人が端正込めて作り上げたかのような美しい作りをしているその横顔。

どこかが兄と似ているというのなら、それを探し出したいと思うのに、私には兄の顔が分からない。


「いやー。ごめんごめん、待たせちゃって」


何かを言おうとして、だけど何も言えずに何度も唇を閉じる。

そんなことをしている内に、村田が陽気に手をふりながら戻ってきた。


「いえ、大丈夫ですよ。迷いませんでしたか?」

「うん、ちょっと。似たような扉ばっかりだからさ。曲がりくねった廊下でもないのに不思議なことだよね。この建物には魔法でも掛かってるみたい」


苦笑しながらも私と棚道を促すように歩き出す村田。

彼が現れたことによってすっかり雰囲気が変わってしまった。

空気が少しだけ軽くなった気がして、ほっと息を吐く。だけど、大切なものを掴み損ねたような、虚しさのようなものが過ぎったのも事実だ。


「ところで村田さん」


相変わらず足取りが軽い男だと場違いなことを思いながら歩いていると、棚道がふと立ち止まる。


「彼女は、私の友人の妹さんのようです」


ちらと私に視線を移して、村田と向き合うように立ち止まった彼は小さく首を傾げた。

「もしかしてご存知でしたか?」と、困ったような顔をしている。

私はてっきり棚道はこのまま口を噤むと思っていた。だから、思わず目を見開いてその顔を凝視した。


「……ん?」


当然、村田は話しの流れが掴めずに、私と棚道の顔を見比べている。

先ほどまで不在だったのだからそれも仕方のないことだ。

右に左にと壊れた玩具のように首を振った村田は、「んー」と唸り声を上げつつ「ほほう」と一人ごちる。

そして、うんうんと肯きながら再び棚道の顔を見た。


「きわこちゃんのお兄さんのことですね?」


本当のところは、何もかも知っているのではないかと思わせる。村田はそんな顔をしていた。

ただ微笑を浮かべているだけなのかもしれないけれど、にやりと、意味深に笑っているようにも見える。

あっけに取られるというのはこのことか。

廊下に満ちる微妙な空気さえも楽しんでいるかのような村田は、その柔和すぎる顔をすっと引き締めた。


「いやいや、簡単なことでしょ。だって、僕たちはそもそもここにきわこちゃんのお兄さんを捜しに来たんだし。そして、ここで幹部を務めているらしい棚道さんは、きわこちゃんのお兄さんと同じ施設に入ってたようだし? 共通点を見つけるのは簡単です。僕たちの共通点は、きわこちゃんのお兄ちゃん。それだけなんだから」


饒舌に語る男の声が耳に響く。それだけ、この建物の中が静寂に包まれているということだ。


「……と、まぁ、こういう感じなんですけど。それで? 彼女がそのご友人の妹だと知って棚道さんはどう思いましたか?」


それまでとは異なる、いやに落ち着いた声で問う村田。

色素の薄い瞳は窓から差し込む薄い光を飲み込むように、仄暗く輝いている。

その目の奥が笑っていないことくらい、私にも分かった。


「ふふふ、」


知らず内に落ちていた視線の向こう側で、麗しい声で笑ったのはやはり、棚道だった。

そんな声を出すのは、この場で、彼しかいない。

けれど、この場にそぐわない優しい笑い声が異様でしかなかった。


「こんな風に腹の探りあいをするのは、ひどく、疲れますね」


代表は、この扉の奥に居ますよ。と、一歩後ろに引いて恭しく頭を下げる。

いつの間にか目的地に着いていたらしい。


「貴方は知らないんですか? きわこちゃんのお兄さんの居場所」


今にも立ち去ろうとしている棚道に、村田が慌てて声をかける。


「―――――知りませんよ。知っていたら、そうと言います」


どこか遠い目をしているような気がして、その眼差しの意味を問いたくなった。だけど、上手く聞き出せるような気がしなかったのだ。


「そうですか。それならいいんです。だけど、じゃあ」


これは知りませんか? と村田が一歩前に出る。



「林に埋めた、神様のこと」





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