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兄のノートには、自分が入った施設がどういう場所だったかの詳細は記されていない。

あえて隠していたのか、それとも、他の人間に見せる為のものではないのでわざわざ説明する必要もないと思ったのか。もしくは、そのどちらでもないのかもしれない。

ただ、ノートから読み取れるのは、兄が入った施設には他にもたくさんの子供たちが居たらしいということだ。


私が初めてこのノートに目を通したときは、いわゆる児童館のようなものを想像していた。公民館のような場所に遊具を置いて、近所に住む子供たちが自由に出入りできるような場所のことだ。

私が子供の頃もそういった場所があって、学校が終わると遊びに行っていたものだった。

一階は図書館のようにたくさんの本が並べられていて、二階はちょっとした体育館のような場所になっていたと記憶している。そこにはトランポリンが置いてあり、ネットで仕切られた向こう側はバトミントンやバスケットなどができるように開放されていたのだ。

だから兄も、そういった不特定多数の子供たちが集まる場所で友人を見つけたのだと、そう思っていた。


母と一緒に家を出た兄が、まさか児童養護施設に入っていたなんて想像できるはずもない。

村田によれば、完全なる擁護施設とは違っていたようだが、母とは離れて暮らしていたということだろうか。


「実はね、この施設に数年間だけ入っていた人と話しをすることができたんだよ」


村田はちらりとサイドミラーに視線を移しながら、大したことではないみたいにさらりと告げる。

目的地までは少し距離があるということで、村田の運転する車に乗せられたのだ。

黒い車体は僅かに紫がかっていて、光の当たり具合によってはパールのように輝く。それがいかにも高級車という感じだった。

調査員というのは案外儲かる仕事なのかと首を傾いでいれば、それに目敏く気付いた村田が、

「男の見栄ってやつ」と苦笑する。

「それに、こういう仕事は信用が大事でしょ? 初対面の人間の人となりを判断する基準なんて外見と持ち物くらいしかないからね。少しでも良い風に見られたいわけ」

ぽんぽんと手の平で車体を撫でながら離す村田の目は、どこまでも柔和だ。

彼がどういう理由でどんな車に乗っていようとも私は気にしないのだが、それは紹介してくれた人間が信用のおける人物だったからに他ならない。

ネットや広告などで彼の勤める調査会社を見つけた人間だったら、確かに調査員が本当に信用に足る人格なのか気になるところだろう。

持ち物で相手のことを判断するには少し浅慮な気もするが、その人物の勤める会社がどのくらいの給料を払っているかを見極める材料にはなるかもしれない。

そしてそれは、その会社自体の評価にも関係してくる。高額な給料を払えるということは、経営が上々だということだ。

もちろん、本当のところはどうか分からない。

他人の目を欺く方法なんて幾通りもあるのだから。

それに、自分が着る服や持ち物に頓着しない人間もいる。他人の評価を気にしない人だっているだろう。

「友達同士で外出するんだったらそれで構わないけど、お客様と会うのに、自分の格好を一切気にしないって言うのは……どうだろうね?」というのは村田であるが、そんな彼は派手な柄シャツを着ている。

その風貌だけでは、どんな仕事をしているのか分からない。

「言っておくけど、今日の僕はほぼプライベートだからね!」

胡乱げな眼差しをしてしまったのは無意識であるが、それに気付いた彼は慌てたように両腕で上半身を隠そうとする。全然隠れていないので、この人は案外抜けているのかもしれないという評価に至った。


「ああいう団体はさ、入るのは簡単だけど抜けるのはとても難しい。だけど、その人の親戚に政治家がいてね。名前も売れている大物政治家だったわけさ。だから、いとも簡単に施設から出られたようなんだ」

相手が名の知れた政治家だったから、揉めたところで自分たちには不利は状況になると踏んだのだろう。面倒なことになると思ったのかもしれない。

本当なら、抜け出そうと思っても簡単には抜け出せないはずなのだ。


「あの施設に入っていたときは小学生だったと言ってた。今はもう二人の子供が居る女性だよ」


運転しながらも私の方に視線を向けた村田は何とも言えない微妙な顔をしていた。


「彼女とは電話で話しただけなんだけど、施設のことを聞いても『あまり覚えてない』っていう返事だった。だけど、これと言ってネガティブな感情はなかったように思うんだ。実際、君のお兄さんのノートを読んでいても、そういう記述は見つからなかったしね」


それこそが洗脳なのかもしれないと言う。

兄のノートには、施設の中で三人の少年と出会ったと記載されていた。

彼らの家族についての詳細は特に名言されていない。ただ、彼らと親交を深めていった様子だけが記されている。彼らの出会った場所が、もしも小学校や近所の公園であれば、何のひっかかりも覚えないごくごく普通の邂逅である。

川で魚を捕まえて遊んだとか、山でセミを追いかけたとか、施設の中でかくれんぼをして遊んだとか。

そういった遊びさえ決して特殊なものではなく、彼らが自然に囲まれた場所で健やかに友情を育んでいたことが分かる。


「彼らの遊びは昭和的とも言えるけど、今時分でもこういう遊びは別に珍しくないよね。ただ、テレビゲームとかパソコンとか、当時もあっただろうゲーム機の類が出てこないのは不思議だけど。もしかしたら、テレビなんかは置いてなかったのかもしれないね」


村田の指摘に、なるほどと思いながら相槌を打つ。


「つまり、遊び道具も碌に無い場所で、君のお兄さんとその友達は熱い友情を築いたってわけ」


何だか含みのある言い方にその横顔を見つめる。

揶揄しているような口調だったにも関わらず、その顔は真剣そのものだ。眼差しがどこか鋭い。


「……不思議なのは、君のお兄さんと友達の記述がある部分には一切、お母さんの話しが出てこないことなんだ。ただ単に書くのを忘れていたとも言える。そもそも日記なんかは、その日に起こった印象的な出来事を書き綴るだけだから、家族の動向を逐一報告したりはしないものだけど」


こんな風に話しを聞いていれば、やはり村田は、年相応の考え方をしているのだと思う。

喫茶店で見せた軽薄な雰囲気もなりを潜め、私が想像もしていなかったことをさらりと口にするものだから侮れない。

相槌がおざなりになってしまうのは、適当に聞き流しているからではなく、彼の言葉を一つでも多く聞いていたいからだ。

「それについては……さっき言った女性から聞き出した情報があるんだけど、それにしては……」


ほんの一瞬だけ間を置いた村田はハンドルを切りながら、


「君のお兄さんの手記? ってやつにはなぜか―――――」と言って、再び言葉を切る。

言い出しにくい何かがあるのかと、ただひたすらにその顔を見つめることしかできない。運転に集中しているのか、ちらりとも私の顔を見ないのがもどかしかった。


「……ただ日常を書き綴っているだけとも言えるのに、なぜか、消し去ることのできない不穏な空気というのを纏っている」


それはホラー小説を読んでいるときに感じる嫌な空気と同じだという。

いつかその内に絶対、恐ろしい何かが起こると分かっているからこそ、登場人物の発する何気ない言葉や単なる情景描写にさえ不穏な空気が漂っている気がする。もしくは、行間に得体の知れない「何か」の存在を感じる。


「何か、悪いことが起こるって……そういう意味ですか?」


私がそう問えば、村田は小さく首を傾ぐ。

「さあね。それは分からないけど……こういうのをもしかしたら虫が知らせるって言うのかな。もしくは……」

「もしくは?」

「もう既に、事が起こっている最中か……終わっているのかも」

「そんな、」


そんなこと、有り得ない。

そう言いたいのに言葉が出てこなかった。それは私自身が案じていたことでもあったからだ。

兄の友人を名乗る人物のICレコーダーには確かにこう吹き込まれていた。

『このままでは君のお兄さんが哀れでならない』と。それこそが、このノートが纏う不穏なものの正体であるような気がした。


「まぁ今ここでそんなことを議論してもしょうがないんだけど」


車内に満ちた嫌な空気を払拭するように村田は苦笑する。確かにそうだと思える何かが彼にはある。

その言葉に説得力があるような気がしたし、何より彼が私よりもだいぶ年上の大人な男性であるということが安心感を与えるのかもしれなかった。

同年代の友人であればこうはいかなかっただろう。

二人して途方にくれていた可能性もある。

人生経験というのは、こういうときにこそものを言うのかもしれなかった。


「それでね、電話で話しをした女性が言うには、施設には何人かの世話人が居たようなんだ。子供たちだけでは生活なんてできないからね。当然と言えば当然なんだけど」

「そうなんですか……」

「その中にね、君のお母さんが居たようなんだよ」

「……え?」


音楽もかかっておらず、ラジオさえ流していない車内には私たちの声だけが響いている。


「それで、これはとても言いにくいことなんだけど」

「え、あ、はい」


唐突にもたらされた「母」の存在に戸惑っている間にも話しは進んでいく。


「君のお母さんね、この「団体」の代表である男の恋人だったみたいなんだ」

「……え?」


『言いにくいこと』である割には、口ごもる様子など一切ない。

むしろ、広告か何かの文章を読み上げるみたいに、いともあっさりと告げた。


「え、いや、ちょっと待ってください。何で、そんな」


あまりに動揺しているために、何を言えばいいのか分からなくなる。

村田は私のそんな様子にも動じることなく、「厳密に言えば、世話人を務める女性全員がそうだったみたいだけど」と早口で述べた。

それは多分、私が彼の話しを遮らないようにするためだろう。

相手がもしも村田でなければ、何をふざけたことを、と吐き捨てているところだ。私を驚かせるためにそんな戯言を口にしたのだと、笑うかもしれなかった。

実際今だって、わなわなと震える両腕を押さえるのに精一杯である。

けれど、この村田という人物は赤の他人であるし、私よりも随分年上の男性だ。

食って掛かるには付き合いが浅すぎた。

それに、何よりも私を躊躇させたのは、反論する材料を何一つ持っていないということだった。


母はそんな人間ではない。

父を裏切るような、そんな人ではない。……そのはずだ。


だけど、そう断言できるだけの「何か」を持っているわけではない。

母が家を出た当初、私は本当に幼かった。だから、父と母がどんな関係を築いていたのか知らない。

ましてや、家を出て行った母が何を考えていたかなんて分かる気がしなかった。


「君のお兄さんのノートに、お母さんの話しが出てこないのも……それが原因なんじゃないかと思うんだ」


私が激高するとでも思っていたのか黙り込んでいた村田が、ふとそんなことを口にする。


「男の子って母親の不貞を、ひどく嫌悪するものなんだよ」


それは、父親の不貞を娘が嫌うのとは少し違うと言う。


「男ってさ、自分の浮気は『男なんだから仕方ない』って開き直るのに、女性の浮気を許さないようなところがある。世の中の男全員がそうだとは思っていないよ、もちろん」


最後のセリフは取ってつけたような空々しいものだった。

過去に何があったのか知らないが、何よりも村田自身がそう感じているようだ。

「君のお兄さん、お母さんのこと怒ってたんじゃないかな……」ぽつりと落とされた言葉が耳に響く。

あくまでも自分の空想だと笑った村田がふとこちらを向いて「着いたよ」と言った。


*

*


兄のノートを読んで、私が感じたのは「叫び」だ。

村田の見解を聞いて、同じ文章でも読む人間が変われば受ける印象が全く違うものになるということを思い知らされるようだった。

それは小説の類を読むときと同じかもしれない。

同じ物語でも読む人間によって、面白くもなるし、つまらなくもなる。

心を揺さぶられるような文章だと感じたり、あるいは淡々とした論文のようなものだと感じたり。あるいは、読んでいるのが論文だったとしてもそこに感情の高ぶりを読み取る人間だって居るだろう。


兄の文章は、それこそただ事実を並べているだけの情緒のないものだった。当然、抑揚はないし、そこに感情の起伏も見えない。

それなのに私には、兄がずっと叫び続けているように思えたのだ。

何を叫んでいるのか分からない。もしかしたら言葉にはなっていないのかもしれない。

だけど行間に、叫び声を聞いた気がした。

それはきっと私が、妹だからだと思う。それ以外に理由はないだろう。

村田には感じ取れず、私だけが感じ取ることのできる兄の叫び。


兄のノートを捲り続けていると、真ん中くらいで白紙に変わる。そこから先には何もない。それでも何となくページを浚っていると、それは突然現れた。


親愛なる妹よ、

 君

   よ


文字が崩れていて歪んでいた。

それまでの丁寧さなどどこにもなく、ここだけ別の人物が書いたのではないかと思うほどだ。

不安定な場所で支えの無い状態で文字を書くと、こんな風に歪むのだと経験上分かる。一体何のつもりで、書いたのかも分からない。

その前に書かれていた文章とは何の繋がりもなく、その後には何も記されていない。


だからこそ私は、強く、兄を捜すべきだと思った。


「ここって、パンフレットに載っていたところですか?」


明らかに違うと分かるのに、確認せずにはいられなかった。

湿った地面をさくさくと踏み分けて前へ進む村田に視線を向ける。

案の定、彼は首を振った。

「あの場所はもう、閉鎖されてるんだ」

だけど、団体は潰れることなく未だに存続しているのだと説明する。


「電話で話した女性に聞いてみたんだけどね」

「何をですか?」

「この団体が一体、何をしていたのか」

「……新興宗教だというのは違うんですね?」

「うん、そうだね。そう名乗ってはいたみたいなんだけど」

「それなら何を、していたんでしょうか?」


「―――――王国を作りたかったみたいだよ」


王国?

あまり馴染みのある言葉とは言い難い。思わず立ち止まって、その言葉を繰り返す。

先を歩いている村田が苦笑しながらこちらへと視線を投げた。聳え立つ洋館を背景に柄シャツを靡かせるその姿はいっそ滑稽でもある。いや、観光客か何かであれば、さほど可笑しくないかもしれない。


「ほんと、何言ってるんだろって感じだよね」


立ち止まってしまった私を気に留めることもなく置き去りにした村田が、数歩先で振り返った。

意図せず見つめ合う格好になった私たちの間を柔らかな風が通り抜ける。ぼんやりしていると、軽く手招きされた。慌てて後を追うと、「女の子と歩くのに慣れてないから。ごめんね、早足で」と笑う。


村田の運転する車が辿り着いた先は、得体の知れない団体が拠点を構えているとは思えないほどに美しい場所だった。

大金持ちが所有する別荘だと説明されたほうがしっくりくるかもしれない。

鬱蒼と茂る林に守られるようにそっと聳える洋館は、古いけれどきちんと人の手が入っている。外壁のタイルはつい最近張り替えたように光沢を放っていた。

足をかけている石段にはところどころ雑草が生えているものの、定期的に掃除しているのだろう。

不快というほどではないし、歩き辛くもない。


「具体的に何かを成し遂げようとしていたというよりは、自分を中心とした帝国を築きたかっただけなんだろうね。定期的に開いていたセミナーでは自己啓発を主題として講演をしていたようだけど……。その詳細については調べることができなかったんだよね。それはただ、人を集める為の口実だったようだから。内容はあんまり関係ないのかも」


とつとつと話す村田の声は非常に聞き取りやすく、心地良い響きだ。彼の声であれば、話し下手であったとしても思わず聞き入ってしまうかもしれない。


「……だからこそ「彼」は、自分が望んだ通りの人間を育てる為に子供たちを集めていたんだと思うよ。子供たちがやがて成長し、自分の思い通りに動く駒となるように教育してたんだろうね。本当に、恐ろしいことだけど」

「それって……洗脳して……軍隊か何かを作ろうとしてたってことですか?」

「いやいや、そんな過激なことではなかったと思うよ。ただ単に、自分に従う人間ばかりが集まる理想郷というやつを作ろうとしたんだね」


僕は当時、そこに居たわけじゃないから本当のところは分からないけど。と付け加える。


「学校には行ってなかったんでしょうか?」

「施設があったところは本当に田舎で、分校があったみたいだけど、数えるほどの生徒しかいなかったみたいよ。それはつまり、その生徒のほとんどが施設に入ってた子供たちだっていうことだと思う」


だから、彼らは外界とは隔離されてごくごく小さなコミュニティの中で生きていたというわけだ。


「でも、施設はさっき……閉鎖されたって」

「そうだね。つまり……えーと、中小企業のワンマン経営のようなものを想像すれば分かりやすいと思う」

「……ワンマン経営?」

「そう。それで、そのワンマン社長がある日突然、引退しちゃうんだ」

「引退」

「そう、引退。後継も育ってないのに、『やーめた』って突然引退しちゃうんだ。だから当然、経営は悪化していくよね」


やれやれと首を振った村田はそのまま首を傾いで前方を見据えた。


「おや、お迎えが出てるよ」


とんとんと踵を鳴らすように階段を登った彼の指差す方向を見れば、洋館の入口に男性が立っていた。

車寄席のところは屋根がついているので、影になってその顔ははっきりと見えない。

白いシャツに白いズボン、丈の長いカーディガンを羽織っている。

村田が右手を上げて合図を送ると、彼は頭を下げて「ようこそいらっしゃいました」と言った。

ここへ来ることはあらかじめ連絡を入れておいたのだろう。歓迎しているかどうかは分からないが、特に警戒している様子もない。

はっきりとその顔が見える位置まで来れば、その人は優しく微笑んだ。

「寒かったでしょう」と言って。


「中へどうぞ」


その様子から、団体の関係者に違いないと思うが、それにしては若すぎるような気もした。

思わずまじまじとその顔を観察してしまい、視線がぶつかる。

彼はさして動じることもなく目尻を柔らかく細めた。


気まずいと思っているのは私だけのようだ。

会釈を返しながら、ふと、彼が兄と同じくらいの年齢だと気付く。











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