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『己の人生を語ろうとするとき、まずどこに戻るかと言えば。
それは、母と一緒に家を出た日かもしれない。
もしくはそれよりも少し前か。とにかく、僕の人生はその辺りから始まったと言っていいだろう』
兄が書いたという手記は、そんな文章で始まっていた。
誰かに語りかけているような、もしくはただの独り言のような。不思議な文体だと思った。
もしかしたら誰にも見せるつもりなどなかったのではないかと思わせる。
この荷物が届いたときと同じく、ふと視線を彷徨わせたのは、自分がとんでもなく悪いことをしてるような気分に陥ったからだった。
誰かの日記を盗み見ているような、そんな気がした。
だけど、読み始めてしまったら今更止めるわけにはいかず、できるだけ早く読み終えようと意識を集中させる。
一人暮らしの我が家に訪問客があるわけでもないが、兄のノートを読んでいるという罪悪感を伴う行為を誰にも見られたくはなかったのだ。
さらさらと書き付けたような文字であるが、悪筆ではなく、比較的読みやすい。
達筆とは言えないが、男性にしてはとても丁寧に書かれているような気がした。
もはやその顔立ちさえ思い出すことのできない兄の字を追いながら、指でもなぞってみる。
案外筆圧が強いのか、紙が凹んでいた。そんな何気ないことに、確かに兄の存在を感じる。
黒いインクではなく、青いインクのペンを選んだことになぜか意味があるような気がして。
ぎゅうっと気道が狭まった。
「何色がすき?」
そう問われたとき、私は『あお!』と答えるような子供だった。
女の子ならピンクや赤などの可愛い色を選びそうなものなのに、昔から男の子が選ぶような色を好んでいたのだ。
そんな私を見て、母はもしかしたらがっかりしていたのかもしれない。
せっかく女の子を産んだのだから可愛く着飾りたいと、そんな風に考えても不思議ではないから。
実際、私が赤ちゃんのときに来ていた産着は薄いピンクだったし、幼少期の帽子や靴、おもちゃにいたるまで赤色に寄せた色をしていた。
実物が残っているわけではないから、他の持ち物は違う色だったのかもしれないけれど、写真を見る限りはそうだ。
年の離れた兄には、青色のものを買い揃えていたと推測されるので、両親は私の為にわざわざ新しい物を揃えたのだろう。
一般的に、下の子は上の子のおさがりを与えられるものだと思うが、我が家では違ったらしい。
金銭的に余裕があったのか、多少無理してでも新しいものを用意したかったのか。
もしくは、私と兄は年が離れていたので既に処分した後だったのかもしれない。
真相は分からないが、肉体の成長に伴いすぐに着られなくなるものなのに、何だかもったいない気もする。
何のためにそんなことをしたのか分からないが、結局、母の好みによるものだろう。
記憶の中の母は、非常に少女趣味だったと思う。
『僕と母が家を出たその日。妹は玄関までついてきた。
幼稚園から帰ってきたばかりだったのか園服を着ていたと記憶している。同年代の女の子の大半がそうであるように、おしゃまでおしゃべり。ちょっと生意気を言うような子だった。
だけど人見知りで。道端でご近所の人とすれ違うときなんかは必ず、僕の背中に隠れていたのを覚えている。
その小さな手が僕の腰辺りをぎゅっと握るのが、ひどく可愛くて。
愛おしいというのは、まさしくああいう感情を言うのだと思う。
そんな妹が、僕と母が出かけようとしている姿を見て、慌てて追いかけてきたのだ。
父は多分、お茶の間でテレビでも見ていたのだろう。
僕たちと一緒に行きたいという妹を、母が優しく宥めるから、僕もそれに加勢した。
母がなぜ妹だけを置いていくのか理由は分からなかったけれど、たまにはそういうときもあるだろうと、僕は深く考えもせずに母の味方をしたのだった。
むっと拗ねた顔を見せる妹は哀れだったけど、やはり可愛くもある。思わず手を伸ばしそうになったけれど、そんなことをしたらきっと互いに離れ難くなるだろうと、自制したのだった』
はっきりとは思い出せないあの日の記憶。
だけど兄の中には、これほど鮮明に記憶として残っているのだ。
『結局、母は妹をうまく言いくるめて、僕の手を引いて玄関を出た。
今思えば、その仕草は少し強引だったように思う。
既に小学校の高学年だった僕はそれが気恥ずかしくて、思わず母の手を振り払った。
そうしてしまった瞬間に、僕はとても酷いことをしてしまったような気がして罪悪感に捕われる。けれど、母は一瞬驚いたような顔をした後、苦笑を浮かべたのだ。
『宗司もすっかり大きくなっちゃって』と落ち込む様子さえ見せなかった。
そして、閉ざされた玄関の扉をじっと見据えていた。
僕はそのとき、母が何を思っているのか全く検討もつかなかったけれど、あれはもしかしたら、お別れの儀式のようなものだったのかもしれない。
実際、あのときを最後に、家には帰らなかったのだから』
目を閉じれば、当時の光景が鮮明に甦るような気がした。
摺りガラスの嵌った引き戸がカラカラと小気味良い音をたてて、母と兄を送り出す。
私は裸足のまま土間に降りて、閉まりゆく引き戸に縋りついた。ちらりと振り返った兄が苦笑する。
しょうがないな、と溜息でも吐くように。
顔も思い出せないのに、その表情だけが切り取られたように目の前に浮かんだ。
『今はもうはっきりと顔を思い出すこともできないのに、玄関先にぽつりと残された妹の表情を覚えているような気がするのはなぜだろう』
まるで、兄と自分の心がぴったりと重なったような感覚に息が詰まる。
ある日突然、兄だけを連れて家を出てしまった母。
なぜ兄だけを連れて出ていってしまったのか、私はずっと疑問だった。
父のことを疎んでいるわけではないが、それでも母を恋しく思ったこともある。
同性の親でなければ分からない問題や解決できないことというのは以外に多い。
けれどそういう問題は大抵、相談するよりも前に「どうせ言っても無駄」とあきらめてしまう傾向にあった。だから、父には話しをすることさえなかった。
幸いだったのは、父に妹がいたことだろう。
つまり、私の叔母である。
彼女がいなければ、どうなっていたか分からない。
自分の家庭を持たなかったその人は、私のことを実の娘のように可愛がってくれた。
当時、叔母にも恋人が居たのだが、その人とは結婚せず、長いことただ単に同棲していたと記憶している。
その理由の一つに私の存在があったことを、叔母の恋人が不慮の事故で亡くなってから何年かして聞いた。
教えてくれたのは、父だ。
私のことを実の娘だと思っているから、他に子供を作りたくないと。叔母はそんな風に考えていたらしい。
叔母の恋人がその考えに同意していたかどうかは知らないけれど、最終的には叔母の意志を尊重したようだ。
叔母はとにかく頑なだったと父は言う。
その目はどこか悲しそうにも見えて、きっと父は、叔母の考えに賛同できなかったのだろうと思った。
父はそのとき、私をたしなめるように、あるいは諭すように叔母の話を聞かせた。
ある意味では感動的な話であるにも関わらず、それは、喜ぶべきものでも気持ちのいいものでもない。
過剰な愛は、無意識に人間を追い詰めるものだと思っている。
受け入れる側に、それだけの愛を受け止めるだけの器がなければ。
人間がそれぞれ隠し持っている他人を受け入れる為の器は案外脆く、小さいのだ。
だから、父から叔母の話を聞かされたときに思わず「……そんなことを言われても困る」という言葉が口をついて出た。
それほどに衝撃的だったということでもある。
だけどその言葉が、叔母の優しさを無為にするような辛らつなものだったということも分かっていた。
叔母が聞いていれば、全て貴女のためだったのにと激高してもおかしくない。
実際、そうだった。
叔母は私の為に自分の人生を捨てたのだ。
「そんなの叔母さんが勝手に決めたことだし」
続けて零れた言葉は、思いやりの欠片のないもので。そんな自分に失望した。
言葉を選ぶこともできず、また言葉を飲み込むこともできなかったのだ。
思春期だったのか、もしくは他人から向けられる無償の愛というものに、ただ反抗してみたかったのか分からない。
父はただ苦笑して「そうだな」と言った。
「お前の気持ちも分かるよ」と。
だったらなぜ叔母の話をしたのかと問えば、叔母は今、確かに恋をしていると言う。
「今度は、結婚して幸せになってもらいたい」
それは、兄としての真摯な願いなのだろう。
でもそれなら、叔母は今まで幸せじゃなかったのだろうかという疑問が過ぎる。
結婚という形でしか幸せというのは実感できないものなのか。
そして、私の為に自分の人生を捨てたという叔母は、今まで不幸だったのかと問い詰めたい気分になった。
けれど、それを父に問うたところで答えなど得られないと分かっている。父が叔母の心情を代弁しているとは限らないし、何より、父が叔母の心を完璧に理解しているとは言い難い。
戦慄いた唇は、行き場を失った問いかけを喉の奥に押しやった。それと同時に、かっと血が上る。
それは多分、怒りにも似た感情だった。
私を大切に思ってくれていたのは分かる。それは痛いほどに。
だけど、不幸の理由にはされたくなかった。
それを知ってか知らずか、父はただ、私の返答を待っている。
「そうだね」と肯くのを待っていたのだ。
きっと、私に背中を押してもらいたかったに違いない。
叔母が何を思って生きていたのかは、本人に聞かない限り分かるはずもない。
だけど父のあまりに真剣な眼差しに気圧されたのも事実である。
私は結局、父の思惑通りに肯くことしかできなかったのだ。
ただ単に、父との押し問答が面倒だったからというのもあるが、母の代わりに授業参観に来てくれた叔母のことを思えば、そうすることが妥当な気がしたのだ。
―――――あれから8年経ち、叔母には今、6歳の息子が居る。
「お兄ちゃんの友達って言う人から……こんなのが届いたの」
叔母の自宅は高層マンションの上階で、独身時代よりはずっといい暮らしをしている。
本当は専業主婦に憧れていたという叔母は、それでも働くことを止めない。いつ何があってもいいように、蓄えはあればあるほどいいのだと笑う。
けれど、以前付き合っていた恋人が交通事故で亡くなっていることが、少なからず彼女の考えに影響を与えているようにも思えた。
「……何これ?」
テーブルの上に並べたICレコーダーとノート、それにキーホルダーを一瞥した叔母は小さく首を傾いだ。
眉間に皺を寄せた表情は、驚いているといようよりも単純に、不審がっているような感じがした。
彼女の息子は小学校に通っている時間だ。
叔母はコーヒーのカップを手にとって、再びテーブルの上に視線を落とした。
肩下まで伸ばしたストレートの髪がさらりと落ちる。
40代も半ばだというのにいつまでも若々しい印象を与える人で、父によく似たあっさりとした顔立ちがそうさせているのかもしれないと思った。
「宗司君のお友達から?」
「うん」
「……お友達……?」
何度も確認する様子から、叔母の動揺を推察することができた。
どんぐりのような丸い目を、大きくして睫を震わせている。
「何?」
何だか異常なことでも起こったかのような表情だ。
彼女がただ単に驚きを示すだけなら不思議ではないのに、そこには明らかな怯えのようなものが見て取れた。
勢いよく降ろされたコーヒーカップがソーサーの上で盛大な音をたてる。
普段のおおらかでゆったりとした仕草の彼女から発せられた音とは思えない。
「……どうしたの?」
叔母は零れてしまったコーヒーを忙しなく布巾で拭いている。その動作がまた、動揺しているように見えてならない。
けれど、彼女はただ小さく何度も首を振るだけだった。
「それ、お父さんには言った?」
体勢を整えて一呼吸置いた叔母はどこか焦燥感の募る顔で私を見つめる。
首を振れば「どうして……」と眉間に皺を寄せた。
「先に叔母さんに相談しておきたかったの。このことをお父さんに話してもいいかどうか」
「……どうして?」
「お父さんがお兄ちゃんやお母さんのことをどう思っているのか、私は知らないから」
高層マンションに住む人間というのは物音をたてないのだろうか。それともただ単に壁が分厚いだけなのか。しんと静まり返っている室内には風の音さえ響かない。
叔母はコーヒーカップを両手で握り締めたまま微動だにしなかった。
頭の中に浮かんでいる言葉をそのまま口にしようか迷っているようだ。瞳孔がゆらゆら揺れている。
今この瞬間に動いているものと言えば、それだけだった。
「……兄さんは、ずっとずっと忘れようと苦しんでた」
迷いながらもしっかりと吐き出される声音に、苦しんでいたのは父だけじゃないと知る。
叔母は一度だけ強く瞼を閉じて、再び私の顔を真っ直ぐに見据えた。
「だから、貴女の判断は間違いじゃない。教えてくれて有難う」
やがてゆっくりと瞬きを繰り返した叔母が優しく微笑む。
小学校の授業参観で、後ろに並んだクラスメイトのお母さんたちの間に立っていた彼女は、ちょうどこんな顔をしていた。
笑顔の中に戸惑いや緊張を隠し、そこに微かな喜びが滲む。
実の娘でもなく、養女なわけでもなく、ただの姪である私の授業参観に来ていた叔母さん。他のお母さんたちに、私のお母さん扱いされて。叔母はどんな気持ちだったのだろうか。
ただ単に姪の様子を覗きに来ていたわけではない。彼女は正真正銘、私の母親代わりで、だけど本当の母親ではなかったし義理の母親ですらなかった。ただの親戚と言われれば、そうなのだろう。
そんな立場で訪れた授業参観。参観後の母親懇親会では気まずい思いをしたのかもしれない。
それでも叔母は、毎回、顔を出してくれた。
「それで、これは一体何なの?」
「このレコーダーに、お兄ちゃんの友達らしい人の音声が入ってるんだけど……」
「何て?」
「色々言ってたけど、お兄ちゃんの私物を私に預けるって」
「……そう。それがこれなのね?」
「うん」
ノートとキーホルダーを見比べるように視線を移す叔母は、あえてそうしているのか手に取って確認することはなかった。
「……ノートには何か書いてあるの?」
「それは当然。だってさ白紙のノートをわざわざ送られても困るし」
可愛くない言い方をしてしまうのは昔からだ。私のことを大切に思ってくれているのは良く知っている。
だけど、私にだって叔母に対しては色々思うところがあった。
母親だと思いたかったし、大好きだったけれど、だからこそなぜ私の母ではないのかという憤りがあったのだ。彼女にとっては理不尽極まりないことだろうと思うが、娘を捨てた実の母親よりも、叔母のほうがいいと思うのは当然の流れであり、傍に居て優しくしてくれる彼女のほうが母親に相応しい……と、思うこともまた自然なことだった。
だからこそ、なぜ、叔母は私の母親ではないのかという思いもあったのだ。
いっそのこと引き取ってほしかった。
父のことは嫌いではない。彼が居なければここまで健やかに成長することもできなかっただろう。
それでも思ってしまうのだ。
母親の居る人生というのは、一体、どういうものだったのだろうかと。
「ああ、うん。そうよね。そうなんだけど」
私の物言いなんて慣れているだろう叔母は特に機嫌を損ねることもなく話しを続ける。
「きわこちゃん……その、ノートね?」
「うん」
「変なこと書いてなかった?」
「変なこと? ……どういう意味?」
「……うん、あの……」
煮え切らない態度の叔母に業を煮やすかのように、兄のノートを手に取る。
叔母は黙ったまま小さく首を傾いだ。
「お兄ちゃんがどんな人生を送ってきたのか書かれてる。それ以外には別に……」
「そうなの……」
レースのクロスが引かれたテーブルの上に残されたキーホルダーはどこからどう見ても古びていて、この何もかもが整った部屋には明らかに不釣合いだった。
「だけど、お兄ちゃんの言葉だけでは分からない部分も多くて。……だから、叔母さんなら何か知ってるかもしれないと思ったの」
「そう……」
「うん」
ほんの少しだけ沈黙が落ちる。
ふと、大きすぎる窓に視線を移せば、このマンションと同じくらいに背が高い建物とその隙間に覗く青空が見えた。都会は空が狭いと聞くけれど、高い場所に来れば案外、そうでもないことに気付く。
狭いと感じるのは、己の心で。
空はどこまでも広く、大きい。縮まったり狭くなったりすることはないのだ。
「叔母さんは、疑ったりしないんだ?」
「疑うって?」
「これが本当にお兄ちゃんのものかどうか、証拠なんて何もないんだよ」
実際、叔母からはただの一度も、これが本当に兄のものなのか確認するような言葉は出てきていない。
あくまでも、これらが兄のものだという前提で話しを進めているような気がした。
「ああ、そうね。きわこちゃん……覚えてないんだ」
叔母の細い指が、ふっとクマのキーホルダーを指差す。
「これ、貴女のよ」
苦笑しているような、それとも困っているような何とも言えない顔をして叔母は目を細めた。
その眼差しに、既視感を覚える。
―――――これは、何かを懐かしんでいる顔だ。
父が、時々そんな顔をするのを、幼い頃から目の当たりにしてきた。だから、分かる。
「……私の?」
本当に?と念を押す私に、彼女はちらりと宙へと視線を彷徨わせた。
「あれは……そうねぇ、いつだったかしら。
兄さんと……姉さんと、宗司君ときわこちゃん、それに私とで温泉旅行に出かけたことがあってね。
途中で立ち寄ったレストランのレジのところに、そのキーホルダーが並んでたのよ。
他にもウサギとかネコとかイヌのもあったわねぇ。色違いで、ピンクとか黄色とか、とにかく子供が好きそうな色合いと大きさで。顔もほら、愛嬌があるじゃない?」
「う、うん……?」
愛嬌がある、と言われればそうかもしれないが、間抜けな顔をしていることには変わりない。
叔母がそっと手にとったキーホルダーをただ眺める。
「案の定、きわこちゃん、それが欲しいって駄々こねちゃって。ふふ」
当時を思い出しているのか遠い目をしたまま、叔母は笑みを零した。
「温泉街に着いたら、ご当地もののお土産があるからそっちを買えばいいって言ったんだけど。
小さい子にそんなこと言ってもわかんないわよね。
同じ系列のファミレスどころか、どこでも売ってそうなキーホルダーなのに。どうしてもそれがいいって聞かなくて。そしたら―――――」
一瞬だけ言葉を詰まらせた叔母が唇の端を歪ませる。
泣いてしまうのではないかと思った。
だけど、ぱちぱちと瞬きを繰り返して私の顔に視線を移す。そして、はあと息を吐いた。
コーヒーを飲むわけでもないのに、カップを掴んだまま口を閉ざしてしまう。
「……宗司君がね、自分のお小遣いからお金を出したのよ」
しばらくの沈黙の後に、叔母はそう言った。
「お兄ちゃんが?」
「そう、宗司君が。きわこちゃんがあまりに欲しそうな顔をしているから、きっと買ってあげたくなっちゃったのね。小銭で買えるものだから自分が出すって言って」
そんなことがあったなんて全く覚えていない。
記憶の底を浚うように思考を巡らせるけれど、それらしきものは欠片も残っていなかった。
「それが何で宗司君の手元にあったのかは分からないけど……姉さんと宗司君がいなくなった後、貴女、これを探して泣いてたのよ。どこにもないって、失くしちゃったって。お兄ちゃんに失くすなって言われたのに、どっかやっちゃったって。……もう、すごかったんだから」
えんえんと泣き声まで真似をする叔母を見つめていたら「ふふ、貴女……そんな頃もあったのよねぇ」と、何とも言い難い表情をする。
まるで母親のようだ。いや、母親そのものかもしれない。
「全然、覚えてない」
「まぁね、子供の頃のことなんてそんなものよ」
だけど、そうか。宗司君が持っていたなら見つからないはずね。と、キーホルダーを優しくテーブルの上に戻す。磨きぬかれた椋のテーブルで、一度だけつるりと滑ったクマの顔が私を見上げた。
何で覚えていないのと、責めるように。




