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『はじめまして、きわこちゃん。
突然のことで大変、驚いたと思います。ごほっ、あぁちょっとすみません。僕、最近喉の調子が悪いものだから……んんっ、はぁ、聞き苦しい部分もあると思うけど目を瞑ってくれると嬉しい―――――』
突然、自宅に届いた小さな小さな宅配便。
季節は冬の終わりで、暦の上では春に最も近づく日だったけれど、窓の外は視界を塞ぐほどの雪だった。
斜めに走る白い綿毛が窓ガラスにぶつかって潰れる。
びちゃびちゃと嫌な音をたてるそれをぼんやりと眺めて溜息をついた陽の差さない昼下がり。
その小さな荷物は届けられたのだった。
突然振り出した雪だったので、配達人も荷物が濡れないようにすることができなかったに違いない。
荷物を包んでいる紙の包装は端っこが千切れていたし、宛名のインクも滲んでいた。
差出人の名に心当たりはなく、お歳暮の時期にはちょっと早い。
遠い親戚か、もしくはただの広告か何かか。訝しみながらも、宛名が印刷ではなく手書きだったこともあって、とりあえず中身を改めることにしたのだ。
薄い花模様が入っている紙の包装を破り捨てると、中から現れたのは小さな箱だった。
四角い生チョコレートを敷き詰めるような正方形の箱に似ていたので、初めはお菓子か何かかと思った。
しかし、それにしては厚みがないところが気になる。
それに箱自体が、想像以上に普通というか、何の装飾も施されていないのが胸に引っかかった。
怪しく見えないところが怪しいというのか、振ってみれば、カツカツと何かがぶつかる。
やはりお菓子なのだろうかとふたを開けてみれば、そこには予想外のものが入っていた。
「―――――何、これ」
あまりのことに一瞬、思考が停止して、意味もなく周囲を見回す。
腕をそっと撫でられたような感覚に身震いして、思わず、ソファの上に座り込んだ。
中身を見てから、大きさの割りに重さを感じなかった理由を知る。
それは多分、ICレコーダーと呼ばれるものだった。
テレビドラマで、自称探偵がたまたま同じような仕様の機器を使っていたのだ。だから、すぐに分かった。
取り出して手に持ち表と裏を確認する。
それはやはり、どこからどう見てもICレコーダーだった。
そしてそれと一緒に、ノートが一冊と、クマのキーホルダーが重なり合うように納められている。
それらがよほど大切なのか、ご丁寧にも紙を細かく切り砕いた緩衝材まで入っていた。
割れ物でもないのに、不思議なことをするものだと首を傾ぐ。
もしくはこのICレコーダーが、どこかの犯罪組織の不正を暴くようなものであれば納得できたかもしれない。自分にとってはさして重要ではないけれど、他の誰かにとっては爆弾よりも恐ろしいものであれば。
これほど大切に扱われる理由も分かるというものだ。
けれど、少なくとも私にとっては無関係なものであると断言できた。
これまでの人生を振り返ってみても実に平々凡々なもので、危険なことに首を突っ込んだこともなければ、若気の至りというやつにも覚えがない。
周囲にもそういう危険なことに手を出しそうな人間はいなかったと認識している。
公立の小中学校を出て、やはり公立の高校へ進学し、推薦をもらって私立の大学へ入った。
卒業後は一般企業の受付に就職し、その後は社内の昇進試験に合格して、現在は総務部で細々とした雑用な事務所ごとをこなしている。
友人を含めて、職場の同僚も突出して何かに秀でている人間はおらず、特殊な職業を生業としている人間もいない。
これまで付き合ってきた人間全てが、そういった「普通レベル」に分類される。
だから、この小さな箱に収まっているある意味、奇妙な贈り物が自分宛てのものだとは思えなかったのだ。
『怪しい人物からの手紙だと眉を顰めているきわこちゃんの顔が想像できるよ、ふふっ。
だけどこれは秘密結社からの贈り物でも、ましてや君を陥れようと何か企んでいるわけでもありません』
私の心を読むかのように、ICレコーダーに録音された穏やかな声が言葉を紡いでいく。
結局、私は己の好奇心に勝つことができずにとりあえずレコーダーを再生してみることにしたのだった。
『僕はただの人間であり、そして、きわこちゃんのお兄さんの……友人でもあります』
手の平ほどの機械から零れ出た男性の声が、「友人」という言葉を強調するかのように、あるいは躊躇いでも覚えるかのように一つだけ呼吸を置いて語る。
それは想像もしていなかった真実だった。
ふるふると両手が震えだして、視界に映る自分の折り曲げた膝が連動するようにがくがくと痙攣している。
座っていて良かったと思った。
そうでなければ多分、腰を抜かしている。
『こんなおせっかいをするなんて自分でもらしくないと思いますが、このままでは貴女のお兄さんが哀れでならない……。だから、いてもたってもいられず……こんならしくないことをしでかしてしまいました』
最後のほうは、いわゆる笑声というやつだろうか。いたずらでもしてしまったかのように、いかにも悪いことをしたと言っているのに、内心ではちっともそんなことを思っていないような。
顔を見ることなど叶わないというのに、私のことなどお構いなしに喋り続ける「彼」がはっきりと笑っているような気がした。
『こんなことを言うと、ますます警戒心を抱くかもしれませんね。
貴女には、何かをしてもらおうとか、どこかへ行ってほしいとか、そんなことを望んでいるわけではありません。ただ、そう、ただ聞いてほしいのです。望むとしたらそれだけだ』
そして、こんこんと何回か咳が続く。風邪でもひいているのだろうか。
だとすれば難儀なことだ。手紙ではなく、わざわざ自分の声を録音したのだから。
それとも、便箋に思いの丈を綴るのではなく、声を録音することを選んだのには何か意味があるのかもしれない。
指先の震えはいつの間にか収まっていたけれど、その代わりに体温がなくなったような気がした。
関節が硬くなってうまく動かない。レコーダーを握り締めていたからではあるが、室内はがんがんに暖房をきかせているというのにおかしなことだと思う。
分厚い靴下を履いているというのに、足の指さえ冷え切って背中がぶるりと震えた。
心臓がどきどきと音をたてて、吐く息も浅くなっていく。
運動をしたわけでもないのに、息苦しい。
『僕のやってしまったことを知ったら、貴女のお兄さんはきっと怒るでしょう。
でも、最終的には許してくれると信じています』
私の知らない兄の姿を語る、それこそ全くの赤の他人である彼。
だけど、共通の人間を知っているというただそれだけで距離が狭まる気がした。
『僕は、お兄さんの親友だから。
言えば、それだけが僕の人生の誇りでもあります』
兄と、録音された声の持ち主である男性に思いをめぐらせて目を閉じる。
だけど、上手く想像できない。
まず、兄の顔も姿かたちも、骨格さえ思い描くことができなかった。
私がそんな風に思いを巡らせることが分かっていたかのようにICレコーダーからの声が途切れる。
考える猶予をくれたのかもしれない。
それでも微かに呼吸音が聞こえるから、まだ続きがあるのだろう。
大きく息を吐き出して目を閉じる。そして、一度だけ再生を止めて、箱の中を改めてみた。
もしかしたら心の準備が必要かもしれないと、なぜか、そう思ったのだ。
まぬけな顔を晒したクマのキーホルダーが、モノも言わずに私の顔を見つめている。
真っ黒なビーズの両目が、私の胸を貫くようだった。
『同封しているノートとキーホルダーは、貴女のお兄さんのものです』
再び再生ボタンを押せば、そんなことを言われる。
厚みのないノートを取り出してみれば、それは意外に年季を帯びたものだった。
表紙は端っこが丸くなって、側面も微かに歪んでいる。ぱらぱらと捲ってみればカサカサと乾いた音がした。
『そのノートはいわゆる手記のようなものだと思います。断言できないのは、それが誰に宛てられたものなのか分からないからなんだけど……。
だけど、何となく……君に……そう、アイツの妹であるきわこちゃんに向けて書かれたもののような気がしたから』
君に送るべきだと思ったと、「彼」は言った。
『僕がそれを見つけたのは本当に偶然で、君のお兄さんは、このノートを僕が持っていたことを知らないと思う……いや、あるいは、知っていて放置していたのかもしれません』
それはつまり、兄がこの声の人物をそれだけ信用していたということだろうか。
盗まれたというよりも、預けたと思っていたのかもしれない。
『だけど多分、君の元へ送られるとは想像もしていないと思います』
そしてしばらくの沈黙の後に、その人は言った。
『それでも、僕はこのノートを君に託します。
さっきも言ったけれど、これを読んだからと言ってきわこちゃんに何かをしてほしいわけではないんだ。
ただ―――――』
ひゅう、と胸を塞ぐような呼吸音が響く。それが本当に苦しそうで。
思わず手を伸ばしそうになってしまった。
傍に居れば、赤の他人であるにも関わらず背中くらいは撫でてあげたかもしれない。
一方的に話しかけられているだけだというのに、いつの間にか、この人が信用に足る人物のような気がしてきた。
『どこにも足跡を残すことのできない人生というのは、一体何なのだろうかと、考えてみたのです。
歴史に名を残すような傑物でなくとも、あるいは後世に残るような芸術品を生み出さなくとも、それでも誰かの心に残るような人生であれば何か意味があるような気がするから』と声を小さくする。
『だから、ぜひ、読んであげてほしいのです』
泣いているのかもしれないと思ったけれど、レコーダーの調子によってそう聞こえるだけかもしれない。
こほん、と一つだけ咳払いをして、彼は改めるようにこう言って締めくくった。
『きわこちゃん、もしもこの先、お兄さんに会うことがあったなら一つだけ伝えてほしいことがあります』
―――――約束を果たすようにと。
兄の友人と名乗る人物からのメッセージはそこで途絶えていた。
大きく、大きく深呼吸を繰り返す必要があった。なぜか、どうしようもなく苦しかったのだ。
ただ誰かの言葉を聞いていただけだというのに、口の中に鉛でも詰め込まれたような気分になった。
何もしなくていいと言われても、何もせずにはいられないだろうという確信がある。
だってこれは、他でもない「兄」のことなのだから。
「……お兄ちゃん」
思わず口にしてしまったけれど、呟いた言葉には違和感が伴う。
己の人生でその単語を口にした回数はさほど多くなかった。
なぜなら、その人とは二十年以上前に離別しており、私は事実上「一人っ子」として生きていたからだ。
けれど当然、そこに私の意志があったわけではない。
当時の私はあまりにも幼く、ただ彼と母が去って行くのを見送ることしかできなかった。
いや、見送ることができたのかも怪しい。
幼さゆえに、何一つ理解していなかったし、想像することもできなかった。
母と兄が、家を出たまま行方をくらますなんてことは。
『いってきます』と言った母の声を覚えている。
それが、後年、己の想像力が作り出したものだったとしても、それが母親の声だと信じて生きていた。
だからこそ、未だに母が帰ってくるような気がしてならないのだ。
それこそ幼い頃は、玄関で物音がする度に、もしかしたら帰ってきたかもしれないと期待してしまったくらいで。
わざわざ玄関まで確認しに行って、その度に落胆していたのを思い出す。
確かに玄関の扉が開く音を聞いたと思ったのに、そこには誰もおらず、それどころか施錠されたまま。
土間に並んでいるのは、私と父の靴だけだった。
母のハイヒールを履いて、コツコツと踵を鳴らして遊んだ日のことが鮮明に思い出される。
泣き出しそうになりながら、でも、泣きたくはなくて唇を噛み締めた。
そして母親のことを思い出すと同時に思い知らされたのは、兄の不在である。
『おみやげ買って帰ってくるから、いい子にしてるんだぞ』と父親のようなことを言って笑った兄。
もしも私が泣いていたならいの一番に駆けつけてくれた。
年が離れているからこそ、優しくしてくれたのだろう。
怒られたこともなければ手を上げられたこともない。大声を上げることさえしなかったと思う。
はっきりと断言できないのは、記憶が曖昧だからだ。
けれど、お昼寝のときにずっと手を繋いでくれていたのは多分、夢なんかじゃない。
母と兄が家を出てからずっと、そんな些細なことを何度も何度も思い出していた。
それはまるで記憶にしがみついているようだったと、そう感じている。
だから、母親に捨てられたと理解するまでには数年を要したし、彼らはもう戻ってこないのだと折り合いをつけるまでには更に時間がかかった。
その日々は、ひたすらに苦しくて。
既に失ってしまったものなのに、あきらめきれずに手を伸ばし続けることがどれ程に虚しいことだったか。きっと同じ経験をした人間にしか理解できない。
いや、本当は、誰にも分かってもらえないのだろう。
私の長くも短くもない人生の一部は、母と兄を忘れることに費やされたと言っていい。
忘れたくない。覚えていたい。そう思う一方で、彼らを忘れることに躍起になった。
そうしなければ、何度でも玄関へ走って行きそうだったから。
―――――なぜ、今更になって。
兄の友人を名乗る人物から一方的に託された兄の私物。
それを見て私の頭を過ぎったのはそんなことだった。
周囲にはいつだって父子家庭だと説明してきたけれど、だからと言って母や兄の存在がこの世から消え失せたわけではない。
『お母さんは?』と当然のように聞き返されることに、辟易していた。
詳しい事情を説明する義理もないと、ただ「いない」と答えれば同情的な視線を送られる。
そうでなくとも、なぜいないのかという疑問は残るから。いつか家庭の事情を打ち明けなければいけない自体に陥ってしまうのだ。
亡くなったと説明できた方が良かったかもしれない。
きっとそれ以上追及されることはなかっただろう。
だけど、嘘でも、死んだことにはできなかった。
母と兄のことを本当に忘れることができたなら、どれほどに良かっただろう。
もしくは、初めから存在していなければ。
色褪せて劣化していく記憶に悲しみを覚えることもなかったに違いない。
せっかくここまで何とかやってきたというのに。
なぜ今更になって、思い出させるのか。
ICレコーダーに吹き込まれた声の持ち主は、私が喜ぶとでも思ったのだろうか。
それとも、私の心情など全く思いやることもなく、ただ兄のことだけを考えて行動に移したのだろうか。
「お兄ちゃん」
試しにもう一度呟いてみれば、その声に哀切が伴っている気がして。
泣きたくなった。
どうしようもなく。