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「僕は、宗司君がきわこちゃんに会いに行かなかった理由、わかる気がする」


純一の家から引き上げて車に乗り込んだ私たちは、随分長い間黙り込んでいた。

ラジオから流れる陽気な声が、虚しく聞こえるなんて初めてだったと思う。それでも、何の音もしないよりは良かった。声を上げて泣いたせいか、なかなか整わない私の呼吸が、耳障りだっただろうから。


「……理由、ですか?」

「うん」


どのくらいの時間が経過したのか分からない。突然ラジオの音量を絞った村田が静かな声で語る。


「例えば君の元へお兄さんが会いに来たとしよう。そしたら、2人は戸惑いながらも再会を喜ぶだろうね。そして、とりあえずお互いに元気でやっていると確認し合って、近況報告なんかもしたりして……。結婚はしたのかとか、恋人はいるのかとか? 仕事は何をしているのか、なんて。

だけど、その内、話題は尽きる。

だって、共通の話題なんてないでしょう?」

「……そう、でしょうか」


運転中の村田は前を向いたままだ。だから私も、窓の外に視線を投げたまま答える。

 

「うん。多分、そうなると思う。で、2人の間には気まずい雰囲気が流れて、君は話題を提供するために、こう口にするんだ」


―――――お母さんは? 元気にしてる?


無意識にも、両手を握り締めていた。村田の想像は、きっと当たっているだろうと思ったからだ。

兄がある日突然、目の前に現れたなら。私は動揺しつつも、その人を受け入れるだろう。そして、何1つ事情を知らないまま、純粋に母を案じて、その居所を聞きだそうとする。さして何も考えずに。

兄はそれを、どんな気分で受け止めるのだろうか。


あり得るはずもない兄との再会を想像して、手の甲に食い込んだ爪が白く染まる。


「宗司君は……いや、君のお兄さんは」

わざわざ呼称を変えたのには何か意味があるのだろうか。

思わず、窓の外から視線を戻して村田の横顔を見つめる。だけど、彼がこちらを確認するようなことはなかった。あえて、こちらを見ないようにしているのかもしれない。


「……何度も、何度も、想像したと思うよ。君との再会のときを。そして、どんな顔をして何を話すのか……考えて、考えて、考え抜いたはずだ」

「……」

「お母さんのことをどんな風に説明するのか、真実を語るのか、あるいは適当な嘘を並べて取り繕うのか、もしかしたら知らぬ存ぜぬで通すことだって考えたかもしれない」


実際、きわこちゃんはお兄さんから何を聞いたって信じたはずだ。だって、君はお母さんのことをあまり覚えていないでしょう? と問われて、小さく肯く。ちらりともこちらを見ない村田は気付かなかっただろう。けれど、そもそも返事を期待していなかったのかもしれない。気にも留めない様子で話し続けた。


「だけどさ、そんな風に色々なことを考えたって、最終的に導き出される結論は同じだったと思う」

「……結論、ですか」

「うん。純一さんが言っていたでしょう? 実際に罪を犯したかどうかということと、良心の呵責は全く別の問題だったのだと。それはさ、宗司君にとっても同じだったはずだよ」


太陽が少しずつ傾いて、車の中も橙と黄色の混ざったような不思議な色に染まる。

窓の向こう側を流れる景色は、普段目にしているものとさして変わりない。

コンビニや飲食店などの建物が現れては消え、その隙間を縫うように自動車や単車が走っていく。そうかと思えば、自転車に乗っている学生や乳母車を押している女性、道端で話しこむ主婦、忙しそうに歩くサラリーマンが居る。


私の身に何が起こっても、この世界は何1つ変わらないのだ。


「施設に入っていた当時の彼らは子供で、大人たちの言う事を聞くしかなかった。

つまり、彼らが何をしていたとしても、それは大人たちに強制されただけのことだよね?

彼ら自身に罪はないと思う。逆らうことのできない圧倒的な力を前にして屈服させられるのは暴力を奮われたのと同じだから。

だから本当は、被害者の側なのかもしれない」

「……」

「恐らく、大抵の人間が彼ら4人に言うだろう。君たちに罪はないと」


実際、彼らは自分たちがやったことを推測しただけだ。それは憶測でしかなく、物的な証拠は何もない。

彼らが望んだ通り、全ては夢の中の出来事で、空想の産物かもしれなかった。


「……宗司君が君に、真実を話したとして。きわこちゃんは多分、それはそれは物凄く葛藤すると思う。だけど、」


ふ、と村田が私の顔を見る。

いつの間にか車のエンジンは止まっていた。運動公園と呼ばれているところの駐車場だけれど、来園者は少ないらしい。ぽつりぽつりとかなりの間隔を空けて何台かが停車しているだけである。

不自然に言葉を切った村田だが、続きを聞くまでもなく彼の言わんとしていることは分かった。


「……だけど、私は、」

「うん」

「私は、兄を、許します」


村田の色素の薄い瞳が赤く滲んでいるような気がする。それは単に、夕刻の淡い光を取り込んでいるからか。もしくは、隠すことのできない疲労によるものなのか。


「―――――だからこそ、お兄さんは会いに来られなかったのかもしれないね。いっそのこと、激怒して責め立てて絶縁を迫られたほうが良かったかもしれない。その方が、贖罪になる」

「……贖罪……?」

「うん」

「私は、そんなもの望んでいません」

「うん。分かってる。だから、さ」

「だから?」


「実際に罪を犯したかどうかということと、良心の呵責は全く別の問題だということ」


耳の奥で、村田の声と純一の声が重なる。


「もしかしたら、自分の母親を、林の中に埋めてしまったのかもしれないと……そう思いながら生きてきたんだ。それって一体、どんな気持ちだったんだろうって考えるけど」


想像もつかない。と、再び視線を外した村田は、ハンドルに肘をついてそこに半分だけ顔を埋めた。

腕に中に口元を隠した彼はくぐもった声で言う。


「僕だったらきっと、毎日、毎時間、毎分、毎秒、思い出すだろうね。そして、その度に苦しむ。それってさ、それって……いつだって苦しくてたまらないっていうことじゃない?」


眉根を寄せた村田は、心なしか顔色が悪いように思えた。恐らく、私も同じような顔をしているのだろう。

遠い目をした村田が語る兄の人生は、とても孤独だ。


「お兄さんは、他の3人よりもずっと―――――凄まじい罪悪感の中で生きてきたんだろうと、思う」


村田の言葉に肯きながら目を閉じれば、兄が、雑踏の中にたった独りで佇んでいるような映像が浮かぶ。

行き交う人々は、兄のことなど気にも留めない。


「実の母親であり、心底会いたいと願った妹の母親でもあるその人を、箱に詰めて、土に埋めたんだから」


母のことは全部、憶測に過ぎず、真実かどうかも分からない。確かにそうだけれど、兄にとっては違ったはずだ。他の3人と違って、兄だけは、確信していたのだろう。

林の中で拾ったクマのキーホルダーが、教えてくれたはずだから。


「君から母親を奪っておきながら、兄だと名乗って、会いにいけるはずもない」


掠れた声が車内に妙な余韻を残す。目を閉じたままその声に耳を傾けていると、兄が今、ここに居るような錯覚に陥った。まるで、兄がそう言っているような気がしたのだ。

だから、「お兄ちゃんがお母さんを奪ったんじゃない……!」そう叫びそうになって。

大きく息を呑み込む。

何の意味もないと知っていたからだ。


もう、何の意味もないと。


「……私、何も、できませんでした。何、1つ」


声を出せば叫んでしまいそうだったから、両手で喉元を抑え付ける。皮膚に触れた指先が、未だに震えを帯びていた。

家族を失うという、その意味を、改めて思い知る。

この身の内側を支配するのは、悲しみではなく、「恐怖」だ。


―――――怖い。どうしようもなく、恐ろしくてたまらない。


母と兄を失った。本当の意味で、喪失した。

これから先、2度と、取り戻すことは叶わない。

そんな現実を生きていく覚悟をしなければならない。


「うん。そうだね。きわこちゃんも……僕も、何もできなかった」

「……はい、」

「だけど、ここまで来た」


顔を上げた村田が、どこか遠くを見据える。


「―――――ここまで来た。それはきっと、大切なことで、意味のあることだったんだ」


その眼差しの向こう側に映っているものは、一体、何なのだろうか。

目を凝らせば見えるような気もするのに、そこには暗闇に呑まれていく夕焼けがあるだけで、他には何もない。

だけど―――――。


『どこにも足跡を残すことのできない人生というのは、一体何なのだろうかと、考えてみたのです』


こんなときになって、小竹洋介の言葉を思い出す。



『それでも誰かの心に残るような人生であれば何か意味があるような気がするから』




*

*


棚道が、あの団体から抜け出して失踪したという話を聞かされたのは、純一の家を訪問してからわずか一週間後のことだった。

ついでに話したいことがあるからと、村田の勤務する調査会社まで顔を出すように言われる。

思わず返事に詰まってしまったのは、手数料という名目の調査費用は既に振り込んだ後だったからだ。

つまり、彼とはこのまま疎遠になる予定だった。そもそも仕事上の付き合いというのはそういうものだ。きっと、私よりも、村田の方がこういうことに関しては淡白に対応しているに違いなかった。

だから、スマホに村田の名前が表示されたときは、妙に驚いてしまった。


「あの団体の代表……、そして、施設の館長でもあったあの男がね、死んだらしいんだよね」


初めて足を踏み入れた村田の会社は、こじんまりとしたビルの中階に位置していた。

ワンフロアを借り切っているようで、エレベーターを下りると社名を掲げた看板があり、まず受付を通さなければそこから先へは進めない作りになっている。

今時、受付に人間を配置しているのも珍しい。よっぽど大きな会社であれば未だに存在する職種ではあるが、人間の代わりに電話を置いて、訪問者が自らボタンを押して担当者を呼び出す会社も少ない。

そういう意味で言えば、人件費を惜しんでいないのかもしれなかった。

そういえば村田自身も金回りは悪くないようだったと思い出す。


「死んだ……、んですね?」


村田の言葉をそのまま返すと、彼は小さく肯いた。

「亡くなった」とか「息を引き取った」とか、他にも言い方はあるはずなのに、村田はあえて「死んだ」という表現を用いたようだ。声音はあくまでも普通だ。けれど、その物言いに含みがあるような気がした。


「……まぁ、元々病状は芳しくなかったようだから。それは不思議ではないんだけど」


面会に行ったとき、代表の病状は一進一退だと言っていた。だから、村田の言う通り、この状況は予想の範囲内ということになる

だけど、村田の表情は硬い。


「ただ……、ね。どうやら、単なる病死とは言えないようだから」

「? それって、どういう意味ですか?」


受付で村田を呼んでもらった後、依頼人との打ち合わせで使うという小部屋に通された。

机を挟んで、対面で椅子が2つずつ並んでいるだけの簡素な部屋だった。


「詳しくはよく分からないんだけど、代表の最期を看取った人間がいないらしくてね」

「……え?」

「いつの間にか死んでいたらしくて、自然死なのか、事件なのか、あるいは事故なのか、判断が難しいらしい」

「え、でも、あの……看病していた女性がいましたよね? 彼女が傍についていたのに?」

「あー……、うん。どうやらね、彼女が買い物に出ていた間に死んでいたらしいんだよ。まぁ、状況から言えば病死だろうとは思うけど」

「ええ、そう……ですよね」


村田は本当に、この件に関して詳しく知っているわけではないのだろう。彼にしては歯切れが悪い。


「―――――ただ、」

「ただ?」

「代表が死んだその日に、棚道さんが出奔したらしくて」

「……出奔?」


また、だ。以前、棚道の口から「出奔」という言葉を聞いたときも思ったけれど、随分、次代錯誤な言い方をしているように思う。


「代表の看病をしていたあの女性がね、棚道さんが犯人じゃないかって言っているようだね」

「犯人って……。だって、病死でしょう?」

「うん。だけど、彼女はそうじゃないって言ってる。棚道さんが何かしたんじゃないかって疑っているみたい。でもまぁ、そのあたりは警察の判断に委ねるしかないと思うけど」

「……」


何だかとんでもないことになっているような予感がして、言葉を失う。

だけど村田は、ふっと笑って「きわこちゃんがそんな顔をする必要はないと思うよ」と首を傾げた。

自分がどんな顔をしているのかは分からないが、1度でも面識のある人間が何か事件を起こしたと聞かされたならば、動揺するものではないだろうか。少なくとも、平静ではいられないはずだ。


「本当はね、きわこちゃんにこの話をすべきなのか迷ったんだ」

「どうしてですか?」

「もう関わるべきじゃないと考えたからだよ。僕が、勝手にね、そう判断したんだ」


この部屋に入ったときには既に用意されていたお茶セットに手を伸ばし、急須を取り出す村田を眺める。

「ごめんね、お茶も出さないで」と、机の隅に置かれたポットからお湯を入れ、湯のみを2つ取り出した。


「……だけど、やっぱりこれはきわこちゃんも知っておくべきかなって、思ったからね」


僕は、本当はコーヒーよりも緑茶が好きなんだと笑う村田はいつもの柄シャツではない。

髪の毛も後ろに流して整えているし、何よりも、落ち着いた色のスーツが彼を別人のように見せている。

そのせいか、初めて会ったときと同じように、少しだけ緊張していた。

渡された湯飲みに口をつけてから、喉が渇いていたことに気付く。


「で、本題なんだけどね」


小さな湯のみを両手で支えた村田が笑みを深めた。

棚道のことが本題ではなかったのかと両目を瞬かせると、彼は湯のみを置き、私の顔をじっと見つめる。

琥珀ほど黄色くはないが、飴色のような目は惹きつけられるものがあった。


「これ、返しておこうと思って」


誰も座っていない椅子の上に置かれていた封筒を机の上に移して、その中から何かを取り出す。

村田の大きな手からちらりと覗く見覚えのあるシルバーの四角い箱に、「え、」と声が漏れた。

考えるまでもなく、小池洋介から送られてきたICレコーダーだと分かる。

一時期は村田に預けたものだったが、兄のノートと一緒に返却されたはずだ。

それが、なぜか村田の手の中にある。

不思議に思って凝視していれば、


「そうそう。きわこちゃん、これ持ち歩いてたでしょ。鞄の中からお兄さんの私物を出したり入れたりするうちに、僕の荷物と混ざっちゃったみたいで。っていうか、僕が多分、間違って自分の鞄の中に入れちゃったみたいなんだけど」と、村田は苦笑した。

そして、「宅配で送ろうかとも思ったんだけど。やっぱり直接渡した方が安心だし」と続ける。

ね? と同意を求められたが、返してもらえるならどちらでも構わなかった。

なので、肯きながら、きちんと保管してくれていたことにお礼を述べる。

すると、村田は僅かに目を瞠り、その後はっきりと嘆息した。


「―――――気付かなければ良かったかもしれないんだけど」


彼は、机の上に置いたICレコーダーを人差し指で撫でて、今度は深く息を吸い込む。

「いや、本当は、気付きたくなかったんだけど」と、ぎゅっと右手に掴み、私の顔の前に突き出した。


「え、何ですか?」


意味も分からず、思わず受け取ってしまったICレコーダーに視線を落とす。

それは、小包を開封したときと何ら変わりなく、変形した様子もなければ、傷が入っているわけでもない。


「……再生してみて」


表にしたり裏にしたり、何か変わったところはないかと観察していれば「もう一回、聞いてほしいんだ」と村田は言った。

「なぜ」と口にしようとして、私を見つめる強い眼差しに怯んだ。

拒否することなど許さないと、言葉にはしなかったけれど、そう言われているように感じた。

向き合っている私たちの間を緊張が走る。ほんの一瞬のことだったけれど、背中が粟立った。

再生ボタンを押す指先が震えている。


『はじめまして、きわこちゃん。 突然のことで大変、驚いたと思います』


すぐさま流れ出した小竹洋介の音声には雑音が混じっていた。それは単に、レコーダーのせいだと思っていたけれど、そうではない。耳を澄ませば、その声に痰が絡んでいるのが分かるし、呼吸をする度にぜいぜいと音をたてている。

けれど、それは最初に聞いたときと同じであるし、何回聞いたところで変化があるわけでもなかった。


「ちょっと早送りするね」


首を傾げていると、村田がさっとレコーダーを取り上げる。


『僕はただの人間であり、そして、きわこちゃんのお兄さんの……友人でもあります』

『僕のやってしまったことを知ったら、貴女のお兄さんはきっと怒るでしょう』

『僕はこのノートを君に託します』


送っては停止して再生し、また送っては停止する。それを何度も繰り返して、


『きわこちゃん、もしもこの先、お兄さんに会うことがあったなら一つだけ伝えてほしいことがあります。

―――――約束を果たすようにと』という言葉で終わった。


しんと静まり返る室内に、さーっという砂嵐のような音が響く。

村田はレコーダーを握り締めたまま微動だにしない。

その目はどこか一点を見つめているが、表情からは何も読めなかった。真顔というのだろうか。しいて言うなら、生気が感じられない。

何だか無言のままで居るのが堪えがたくなってきて、意味もなく咳払いをしてみる。

けれど、やはり村田からは何の反応も返ってこなかった。

ICレコーダーからの雑音がやけに響いて、何だか背後が気になる。心霊現象でも起きそうだ。

だから、村田の持っているレコーダーに指を伸ばして停止しようとしたけれど、


「待って」と、囁くように制される。


行き場を失った右手を握り締め、座りなおした。けれど、何がしたいのか分からない。

声をかけようと口を開けば、彼は「しー、」と小さな子供を宥めるように、唇の前に人差し指をたてた。

実際、彼からすれば、私などほんの子供なのかもしれないと思い至る。

スーツを着ているせいなのか、その整えられた髪形のせいなのか、村田が年相応の男性に見えた。


「ちょっと待っててね」


優しい口調には、待つ以外の選択肢を許さない強制力を滲ませている。

その言葉に肯くしかなかったが、することがないので壁に掛けられた時計を眺めていた。

やがて沈黙は2分間に及び、息苦しさのようなものをもたらす。

かちかちと音をたてて秒針が動く様をただ眺めているだけの2分間は実に長い。

空気は重く、だんだん落ち着きもなくなってくる。そわそわと体を小刻みに揺らし、ただ時間が過ぎるのを待った。

村田が何も言わないので、そうするしかなかったのだ。


そして、3分を刻んだところで、村田から声がかかった。


「きわこちゃん、覚悟してね」


―――――何を?


そう尋ねようとしたのだが、ICレコーダーから急に、ごほごほごと咳き込む音が聞こえてくる。


『……ごほっ、だけ、ど……っ、』


―――――何、を? 覚悟しろと……?

耳の中の血液が沸騰したかのように、どくどくと音をたてる。もしくは、全身の血が逆流したのかもしれなかった。ざっと音をたてて、体中の血液が地面に落ちる。そんな気がした。


『だけど、きわこちゃん、』


目の前が真っ白に染まって、座っているというのに倒れてしまいそうになる。

それなのに、レコーダーの向こう側に居る人が私の名前を呼ぶから。

思わず返事をしそうになって、奥歯をきつく噛み締めた。


『もしも……、もしも、宗司に、本当に会うことができたなら……』


メッセージに続きがあったことを初めて、知る。

何度も聞いたはずだった。

だけど、私の知らない兄を語るその声が、心地いいとは思えなくて。

だから、私はいつも、メッセージが終わったと思ったそのときに停止ボタンを押していたのだ。


『もしも、宗司を、捜し出してくれるなら―――――、』


僅かに呼吸を置いて、改めて大きく息を吸った彼が言う。


『幸せになれって、伝えてやってくれないか……っ、』


咳なのか、嗚咽なのか、分からない。

苦しそうだということだけが、分かる。

3分間も黙り込んでいたのには何か考え込んでいたからなのか、それとも、薬か何かのせいで意識が朦朧としていたからなのか。

ともかく彼は再び語りだしたのだ。


『それなら……、宗司が幸せになるために、約束を守ることができないって言うのなら、それでもいい……、全部、何もかも忘れて幸せになれって伝えて、ごほっ、ごほごほっ、伝えてやってほしい』


―――――俺が全部、背負って逝くから。お前は何も心配しなくていいと、言ってやってくれないか。


洋介は何度も、何度も咳き込んだ。そして、しゃっくりのような不自然な呼吸を繰り返して、それが落ち着くと叫ぶように言った。多分、そうしなければ、話し続けることも難しかったのだろう。


『ごめんね、きわこちゃん。俺、どうしても……、どうしても…っ、宗司に直接言ってあげることができなかった……、』


『約束を、守らなくていいなんて、言葉にするのが怖くて。……だって、それだけが、俺たちを結び付けていたから。それだけが、俺たちを、支えてきたんだ……、』


『それだけに、縋って、生きてきたんだ』


苦しくて、苦しくて、苦しくて、喘ぐように呼吸を繰り返す。本当は、単語を1つ吐き出すのさえ命がけだったのかもしれない。

だけど、何も言わずに終わることはできなかったのだ。

だからこそ、最後の最後に、洋介は絶叫するみたいに声を張り上げた。


『だけど、もういいんだって、幸せになっていいんだって、言ってやってくれないか――――――』


お願いだ、と声を震わせて。今度こそ本当に何の音も聞こえなくなる。

静寂が、痛い。

それなのに、うるさくてたまらないような気がして耳を塞ぐ。


「―――――きわこちゃん!!」


怒声に似た村田の声が聞こえて、自分が、叫び声を上げていたのだと気付いた。

どうにかしなければと思うのに、唇から勝手に飛び出していく大声を止めることができない。

「きわちゃん! きわこちゃん!」

村田に両腕を掴まれて、耳を塞いでいた両手を引き剥がされる。

「しー……っ、しーっ、大丈夫、大丈夫だから」

そして、両肩が潰れてしまいそうなほどにきつく抱きしめられた。

耳元で、何度も何度も「大丈夫」と繰り返す村田の低い声が遠くに聞こえる。

彼には幾度もこうやって宥められた。そして、その度に、自分がどれほど幼稚でちっぽけな存在なのか思い知らされる。


両手に抱えていたはずの荷物が、1つ、また1つと落ちていくような気がした。

だけど、村田が、私の荷物を支えるために片手の指を2本だけ貸してくれると言ったのを思い出す。

かろうじて、この腕に残っている荷物は、何なのだろう。


「……たすけて……っ、」

「うん、」

「私……、たすけてっ、あげられなかった……っ」

「うん……、」


言葉を吐き出すたびに酸素が奪われていくのに、意識しなければ息を吸うことができない。

肉体が、正常に呼吸することを拒んでいるのだ。


「馬鹿だわ、皆、皆、馬鹿よ……、馬鹿で、どうしようもない……、」

「うん」

「だけど、一番馬鹿なのは、」

「うん」

「―――――私……だわっ、」


さっきまではきちんと椅子に座っていたというのに、いつの間にか部屋の隅に座り込んでいた。

滲んだ視界の端に、蹴り飛ばされたように転がっている椅子が見える。

村田は、そんな私を正面から抱きかかえていた。


「いつだって、機会はあった。……兄を捜しに行く機会があったのに、私は、そうしなかった」


それは例えば、1年前でも良かったかもしれない。いや、半年前だって良かっただろう。

小竹洋介から荷物が届くよりも前なら、兄を救うことができたかもしれない。

もしくは、兄が純一に会うよりも前なら。


「……いいえ、……違う、違う違う違う、」

「きわこちゃん?」


―――――本当は、何年も前に、兄を捜すことができたはずだ。

社会人になったそのときに。もしくは大学に入ったときでも良かった。それより前でもできることはあっただろう。高校生でも、あるいは中学生でも、大人の手を借りればできないということはなかったはずだ。

もうあきらめてしまった様子の父に、頼み込むことだってできたはずなのに。

母と兄を捜し出して、私に会わせてと、縋りつくことだってできたのに。


私は、玄関に座り込んで、ただひたすらに待っていた。


「遅かった……! 全部、何もかも! 私は全然、間に合わなかった……!!」


目を閉じれば、暗闇の中に浮かぶ歪んだ兄の文字。

私のことを「親愛なる妹」と呼んだ。

会いに行きたいと書き出さずにはいられなかったというのに、名前を呼ぶことさえ躊躇ったのだと分かる。


それなのに、私にとっての兄は、あまりに遠い存在で。


「―――――ごめんなさい、ごめんなさい……、ごめんね……っ、お兄ちゃん……、」


叫び続けたところで、私の声は届かない。


兄にはもう、届かないのだ。




























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