15
純一は震えていた。震えながら、私の兄が橋から飛び降りたと語ったのだ。
何処を見ているのか分からない双眸に光はなく、まるで亡者の顔を見ているような気分になる。
思わず立ち上がって、掴みかかりそうになった。テーブルを挟んでいたので、両手を伸ばしたところで届きはしない。それが分かっていたのに、それでも、暴力的な行為に走ろうとしてしまったのだ。
いわゆる、反射というやつだろう。
血が上ったのだ。目の前に緞帳が下りて、光を奪われる。
だけど、この目が映すのは暗闇なんかじゃない。世界は、灼熱に赤く染め抜かれる。
全身が熱くなって、燃え上がりそうだった。
叫んだのだと思う。だけど、何と言ったのか思い出せない。
立ち上がった私を制したのは、同じく、勢いよく立ち上がった村田だった。
一体、いつからこちらを観察していたのか、その素早い動きに驚く。
激しさの伴う行動だったというのに、「駄目だよ」というその声は酷く落ち着いていた。
吐息さえ滲む、優しい声音だ。
だからと言って、冷静さを取り戻せるはずもなく、煮え滾るような感情を殺すこともできない。
怒っているのか、嘆いているのか、あるいは悲しんでいるのか。
自分でもよく分からない感情に支配された。
整理することのできない様々な想いが頭の中をぐちゃぐちゃに渦巻いて吐き気を伴う。
「離して……! 離してください!」
村田ともみ合うような格好になり、椅子の脚がつま先にひっかかった。ガタガタという音が響いてうるさい。とうとうバランスを崩し、倒れそうになったところを村田が支えてくれた。
胸が苦しくて、息ができない。
何かが、心臓の辺りに詰まっている。
「どうして……っ」と吐き出した後に、喉を塞いでいたのが罵声だったのだと気付いた。
だけど、上手く言葉にはできずに、舌の上で乾いて消える。
ひくり、と妙な音をたてて再び呼吸が止まった。泣き出しそうだったけど、悲しいわけではなかった。それよりももっと、深く、重く圧し掛かってくるような苦しみを伴っている。
そして、一度も経験したことのない気持ちだからこそ、たった一言で表すことなどできない。
ひどく混乱していたのだ。だから、もう1度「どうして」と唸るように呟く。
村田はその大きな手で私の背中を撫でながら、「手を上げたりしたら、後悔するよ」と目と目を合わせようとする。親が子供に何か言い聞かせようとするとき、そんな仕草をするかもしれない。
そんな風に思って、どうしようもなく瞼の裏が痛む。
それでも抵抗しようとする私に、「……それでも殴るというなら賛成するけど、それは、後でもできる」と告げた。
思わず顔を上げれば、彼は険しい顔をして純一を見据えている。
睨みつけているような鋭い眼光に怯んだのは私の方だった。
村田からすれば、今回のことは仕事として請け負ったことで、他人事に過ぎないだろう。
けれど、その目ははっきりと怒りを湛えていた。
「竜神橋というところを、僕も知っています」
村田は、すっかり脱力してしまった私を椅子に座らせながら、言う。静かな声だ。
「―――――あんな場所から落ちたら、助からない」
淡々としずぎていて、少し恐ろしい。だからこそ、その言葉に嘘偽りのないことが分かる。
膝の上に置いていた指がぴくりと痙攣した。そこから波及するように、全身ががたがたと揺れた。
助からないというのは、つまり、どういうことなのか。
誰かはっきり言葉にして教えてほしい。そうでなければ、理解できそうにない。
だけど、村田はそのまま沈黙し、純一もまた何も語らなくなってしまった。
「……死んだんですか」
寒さに凍えているかのように喉の奥まで力が入る。それなのに、発した声は案外、真っ直ぐと通った。
はっと、虚をつかれたかのように顔を上げた純一が、くしゃりと顔を歪める。
だけど、泣くこともせず、瞬きすらすることもなく私を見つめた。
その唇が、音もなく「ごめん、」「ごめんなさい」「申し訳、ありません」と繰り返す。
何に対しての謝罪なのか、誰に頭を下げているのか分からない。私には、何1つ理解できなかった。
だから彼の言葉を遮るように「兄は、死んだのですか……?」と、もう1度問う。
純一は、右手で強く目元を擦り、口を噤んだ。その仕草を見つめたまま、ふと気付く。
彼は答えられないのではなく、きっと、答えたくないのだ。
「遺体は、発見されていませんよね?」
すっかり勢いを失い、ただ純一の顔を眺めていれば、村田が強調するようにゆっくりと訊く。
確かに、最近そのような報道がなされたような記憶はない。純一もそっと肯いた。
「もしかしたら……何か奇跡的なことが起こって宗司君が助かったのだと思いたいけど……、それは多分、考えにくいと、思う。何かにひっかかって、水底に沈んでいるか……。どこかに流されている最中で、まだ発見されていないだけなのか……」
あの高さだと、高層ビルから飛び降りるのと同じようなものだから。と、村田は付け加えた。
純一に向かって話しかけてはいたけれど、私に言い聞かせる意味もあったかもしれない。だって、純一は既に、今しがた村田が説明してくれたようなことを考えていたはずだから。
突き落とすつもりだったのだとすれば、尚更。
ぐっと握り締めた拳の上にぽつぽつと水滴が落ちる。
兄の残像を追いかけて、ここまで来た。誰かの後ろに映り込む薄い影のようなものに目を凝らして、そこに兄がいるのだと信じて。だけど、ほんの欠片の1つさえ残っていなかった。
もしも洋介が居なければ。棚道が居なければ。純一が、居なければ。
兄が生きていたことさえ証明できないのではないかと、そんな風に思えてくる。
ひくり、としゃっくりのような音がした。小さな子供みたいで情けない。だけど、止めることが出来なかった。
「―――――宗司がいなくなって、僕は座り込んでいました」
そのとき、ぽつりと純一が言った。
「足が震えて、立つことができなくなって。ぼんやりと空を見つめていたんです。……そしたら」
そこまで話して再び口を閉ざす。「そしたら?」と、村田が促すと、彼は立ち上がり部屋の隅に置かれた小さな収納棚に向かった。一番上の、籐でできた引き出しから何かを取り出し、再び戻って来る。
すとん、と脱力するように椅子に腰掛けた純一は、私の前に、それを差し出した。
受け取ることもできずに、ぼやけた視界に映る純一の右手を見つめていれば、
「風が吹いたんです」と、言う。
彼は真剣な顔をしているが、何の話か分からず首を傾ぐしかない。
そんな私の顔をじっと見つめて、ふっと大きく息を吐き出した純一がぐっと唇を引き結ぶ。先ほどまでとは違い、目に力がある。
それは、何事か覚悟を決めた人間の顔つきだと、知っていた。
「宗司が……、飛び降りて、多分そんなに時間は経っていなかったと思います。座り込んだ僕を巻き込むような、強い風が吹いて、目の前を何かが掠めました。
僕は思わず、それを掴んでいて……、まさか、掴めるとは思わなかったんですけど、まるで、手の平に吸い込まれるように落ちてきたんです。
これが何かは分からなかったけど、多分、宗司のものだと思う。
今の今まで、これが宗司のものだとは、自信が持てなかったけど……」
貴女の顔を見ていたら、宗司のもので間違いないような気がしたから。と、何かをテーブルの上に置いた。
その指先が細かく震えている。紫に変色した爪の先を辿れば、しわくちゃになった紙片があった。
ノートの端を指で裂いたような紙切れだ。実際、誰かがそうして、引きちぎったものだと分かる。
私は、純一の指を払いのけるようにして、その紙を掴んでいた。
それが、何なのか、分かったからだ。
鞄の中から兄のノートを取り出し、指で払うようにして次々と捲っていく。
「きわこちゃん?」という、村田の声は聞こえていたけれど、言葉が出ない。
流れ落ちては、何度も頬を滑っていく温度のない水滴が不快だけれど、拭っている場合ではないと思った。
テーブルや膝に水溜りを作る涙をそのままに目的のページを開けば、兄の文字が、歪んで滲む。
せっかく、兄が残してくれたノートなのに、濡らしてしまった。
そう感じて、ますます瞼が熱くなる。
「きわこちゃん、」
何かを言いかけた村田を制し、開いたノートを純一に見せれば、彼は目を瞠ってぐっと息を呑んだ。
彼にも、己が拾った紙切れが何を意味するのか理解できたのだろう。
そこには、『親愛なる妹よ、君よ』と書かれている。
そして、そのページは下半分が切り取られていた。……いや、というよりも、引き裂かれていたと表したほうが正しいかもしれない。
兄はどうやら筆圧が強かったようだから、破られた部分の下のページに、何事か書かれたような形跡が残っていた。けれど、読み取れるほどのものではなく、文字を書いたのかどうかすら分からなかったのだ。
その答えが、今、私の手の中にある。
「―――――会いに、行きたい」
ぐしゃりと潰れた小さな紙切れ。
そこに、そっと呟くような文字で書かれていた。
「親愛なる妹よ、君よ」という言葉は、そこで終わりだと思っていたのに。
本当は、続きがあった。
兄は1度その言葉をノートに書き込み、そして切り取ったようだ。
何を思ってそうしたのか分からない。まるで、書き損じたかのように。もしくは、悪い言葉を書き込んだかのように。上から二重線で塗り潰すわけでもなく、その言葉を封じるように紙ごと破り取って、なかったことにしてしまったらしい。
それなのに、そんな紙を後生大事に持ち歩いていたというのか。
『―――――親愛なる妹よ、君よ。
会いに行きたい』
でも、会いには来なかった。
兄は1度として、私の前に姿を現さなかったのだ。
「どうして……っ!!」
実際に見たわけでもないのに、橋の欄干に佇む兄の姿が見える。そんな気がした。
ぽっかりと浮かぶ月を背景に、真っ黒な影は夜空に沈みこんでいくようだ。その右手には、小さな紙片を握り締めている。
縋りつくように、抱きしめるように、あるいは、潰すように。
『会いに行きたい』という、そんなたった一言を手放せないまま、橋の上から飛び降りたのだ。
光の1つさえ見えない暗闇に足を1歩踏み出し、ふわりと舞うその姿が見える。
「どうして、どうして、どうして……!! どうして、助けてくれなかったの……!!」
兄にこれほどに想われているなんて、想像すらしていなかった。
―――――知らずに、生きてきた。
たまらなく苦しくなって、居ても立ってもいられず胸元を握り締める。
「どうしてぇ……っ!!」
立ち上がり叫び続ける私を村田が抱きとめた。掴みかかって、殴りつけて、罵声を浴びせて。
そうできたなら良かった。けれど、
「パパを! いじめるな!!」
幼く、つたない声に邪魔される。
振り向けば、いつの間に帰って来ていたのか、ダイニングの扉を開け放ったところに純一の奥さんと息子が立っていた。
小さな足音をたてながら近づいてきた幼い息子が純一の足に縋りつく。
私を睨みつけるその顔は、興奮しているのか目元が赤く滲んでいる。今にも涙が零れそうな大きな瞳が、純一によく似ていた。
「一体、何なんですか?」
この家を訪ねてきたときは柔らかな笑みで迎えてくれた純一の奥さんが、不審感を隠さずに、首を傾げる。
そんな彼女に、純一は「大丈夫だ」と微苦笑を浮かべた。そして、息子を抱き上げて「悪いのはパパなんだよ」と続ける。
「全部、パパが悪いんだ」と。
幼い子供のまろい頬に口付けるようにして呟くその姿に、彼はもしかして、こうなることを予測していたのかもしれないと思った。
自宅に招いたのも、もしかしたら、それが理由なのかもしれない。
彼は、家族の前で断罪されることを望んでいたのだろう。
だけど、村田は奥歯を噛み締めるようにして「そんなのは、卑怯ですよ」と呟く。
どうやら彼も、今しがた私が考えていたことと同じ結論に至ったらしい。
「宗司君が守ろうとしたものを壊すなんて……。
貴方自身が許しても、僕もきわこちゃんも、許しませんよ」
怒鳴り声を上げたわけではなかったけれど、有無を言わせない強さがあった。
そして、兄のノートを鞄の中に仕舞うと、私の腕を掴み「帰ろう」と引っ張る。
もうここには何の用もない、と。
返事をしようと思うのに、涙腺が壊れてしまったのか涙が零れて止まらない。しゃくりあげる呼吸もなかなか元に戻らなかった。
村田に促されるままに部屋から出ようとすれば、ぼやけた視界の向こうで、純一が立ち上がる。
「あなた……?」
戸惑っている様子の奥さんに寄り添う純一は、赤い目をしていた。
彼の足元にくっついたままの小さな男の子は、自分の父親に乱暴な口を利いていた私を敵だと認識したようだ。未だに睨みつけるような目をしている。
普段であれば、そんな姿さえ微笑ましく見守ることができるのに。
寄り添うようにして立っている彼らを直視することができない。
村田の言っていたことは、まさしくその通りだったのだ。
兄が守ろうとしていたのは、きっとこれだったのだろうと思わせる。
先ほど見た光景が忘れられない。
庭先で、陽だまりの中、跳ねるようにして遊びまわる子供と、それを見守る母親。そして、そんな2人を少し離れた位置から目を細めて眺める父親。
夢に描いた理想の家族がそこにある。
欲しくてたまらず、だけど手を伸ばしたからと言って必ず得られるものではない。
私自身、家族という幻影を胸に抱き続けてきたからこそ分かる。
それは、ごくごく普通で、
―――――どれだけ素晴らしいものなのかということが。
『普通だからこそ、最高だな。純一。
お前、ごくごく普通で、単純で、素晴らしい人生を生きてるよ』
兄の声が、聞こえるような気がした。
*
*
村田が車を停めている駐車場まで見送りに出るという純一を制し、玄関の内側で別れを告げる。
玄関の扉を出たら、私たちは、知り合いから赤の他人に変わるのだ。
この先、例え道端ですれ違ったとしても、互いに声を掛けることはない。元々、何の関わりもなかったかのように、素知らぬ振りとして生きていく。
口約束を交わしたわけではないが、わざわざ言葉にするまでもないと思った。
もう2度と会うことはないだろう。
全て忘れるというのが、純一に課された命題なのであれば。彼には、それを守ってもらいたい。
「―――――ところで、」
扉を開けて、さあ出ようというところで村田がふと立ち止まる。
ほんのついでなのだという素振りで振り返った彼は、じっと純一を見据えた。
純一の数歩後ろに奥さんが立っていて、やはりどこか怪訝そうな表情を浮かべて私たちを見ている。
「眠れるようになりましたか? 純一さん」
そう訊いた村田の笑みはどこか歪だった。
「不眠が続いていたと言っていましたね? 憂いを払って、眠れるようになりましたか?」
小竹洋介は鬼籍に入り、兄は事実上の行方不明。棚道はあの団体に捕われたまま。彼の不安を煽るようなものはもう、ない。……そのはずだ。
純一は、口元を押さえて強く両目を閉じた。
「―――――眠ると、いつも見る夢がありました」
そして純一は、目を閉じたまま震える声で村田に答える。
それは施設に住んでいた頃のことだという。
彼ら4人はかけっこをして遊んでいたのだと、少し笑い声を滲ませた。まるで、その頃を思い出しているかのように。だけど、やはりその声は頼りなく、耳を澄ませていなければ聞こえないほどだった。
「僕は4人の中で一番出来損ないで。だから、足だって遅かった」
他の3人との差は歴然としていて、何度やっても負けてしまうのだと言う。
「だけどあるとき、高志が負けたんです」
ほんの少し、半歩遅れを取ったくらだったけれど、確かに高志のほうが遅かったのだと唇が弧を描いた。
「普通に考えればそんなのは有り得ない。他の3人は何だって同じレベルで、足だって、全員速かった」
「……怪我をしていたとか?」
「いいえ、それもありません」
つまり、わざと負けてくれたんですよ。と、純一は一層強く目を閉じる。
「それから、何度やっても他の3人の内の誰かが負けるんです。お前、足速くなったんじゃないかって、僕に、笑いかけながら」
だけど僕は、彼らが負けてくれているのだと知っていたから、意地になって「本気でやれ」と怒ったのだと。純一は目開ける。
そんな夢を見るんですと。
「……それが、貴方の見ていた悪夢なんですか?」
眠れないほどのものだというから、当然、あの林の中での出来事でも夢に見ているのだと思っていた。
「悪夢……そうですね、あれはきっと、悪夢だったんでしょうね。
……かけっこをした後、僕たちが言い合いをしていると、施設の中から美里さんが出てきて言うんです。そろそろご飯にしましょうかって。
だから、僕たちの小競り合いは決着がつかないまま、いつもうやむやになったまま終わっていた。
毎日毎日、そんな感じだったんです。僕たちは仲が良かったけど、それなりに喧嘩もして。その度に仲直りして、そしてまた、喧嘩したりして……。
そんな日々が、夢の中に現れるんです。そして―――――」
僕はどうしても、あの日に帰りたくなるんです。と、純一はがくりと崩れ落ちるように床に膝をついた。
「僕は今、幸せです。とても、とても幸せで、時々本当に怖くなる。この日々を失っては生きていけないと思って、苦しくなる」
大きく肩を震わせて土下座しているみたいに語る純一の背中に、奥さんがそっと手をかける。
きっと意味など分からないだろうに、夫が泣いているから、そうしているのだ。
「……それなのに……っ、夢を見た日は、朝起きた瞬間に、施設に戻りたくなりました……。洋介が、高志が、宗司が……っ、どんな想いで、僕に『普通』を与えてくれたか知っているのに……っ、」
忘れたくない、本当は、何1つ忘れたくないんです。と、純一は声を上げて泣いた。
だけど、忘れなければ約束を果たせない。
だからこそ、夢とは言え施設での日々を懐かしむなんて間違っている。
あの日々に戻りたいと思うのは、彼らに対する裏切りなのだと、吼えるように叫んだ。
その声を背中で聞きながら、私は扉を開けて玄関から飛び出していた。
もう、何1つ聞いていられなかったからだ。悲鳴のような泣き声が刃物となって突き刺さる。
この場にはいられないと思った。そうしなければ、私自身がこの苦痛に耐えられそうになかったのだ。
兄だったらきっと、純一に何か言葉をかけていたことだろう。
いや、兄でなくてもいい。
洋介が生きていたなら、あるいは棚道がここに居たなら、彼が泣き止むような一言を口にしたのかもしれなかった。
「きわこちゃん……!」
だけど私には、彼にあげられる言葉がない。大声で泣き喚いているその人に、同情することもできない。
胸が裂けてしまいそうなほどの慟哭を聞いたというのに、許すことができないでいる。
だから、一刻も早くこの場を離れたかったのだ。
このままではきっと、酷いことを言ってしまう。彼が立ち直れなくなりそうなことを口にしてしまうだろう。
だから、離れなければ。
そう思うのに、足がもつれて上手く前に進めない。
玄関先に置かれた三輪車を視界の隅に納めて、そのまま座り込んでしまった。
膝を抱えて、その中に顔を埋めて、真っ暗になった闇の中で兄の幻影を追う。今こそ、その顔を思い出したいと思うのに。輪郭さえ結ぶことができない。
私に会いたいと、そんな言葉を残して、その人はいなくなってしまったから。
「兄のことを、愛しているかどうか、分からないんです、……っ、好きか、嫌いかも、よく分からない……っ」
走って追いかけてきてくれた村田の手を掴んだ。
強く握り返してくれたその腕に縋りつく。
「一緒に居た時間が短すぎて……、離れていた時間が、長すぎて……、兄が、どういう人なのか、分からない。私は家族なのに、妹なのに、何も分からない……、」
幼い頃、一緒にままごとをして遊んだことを覚えている。
年の離れた兄は、きっと嫌で仕方なかっただろう。
だけど、いつも困った顔をしながら付き合ってくれた。……そういうことを思い出すのに。
兄の顔は、曇りガラスに映したみたいにぼんやりとしている。
「忘れたいと思って生きてきたのに、……本当は、思いだせることのほうが少ないんです……、」
それなのに、兄を、母を、永遠に失ってしまったのかと思うと怖くてたまらない。
苦しくて、息もできない。悲しみに潰されて、死んでしまう。
「どうして、ですか……っ、どうして、こんなに……、」
―――――何もかもを失ってしまったような気持ちになるのだろう。
自分を置き去りにして姿を消した、母と兄。
これまでの間ずっと、彼らが不幸になったなんて思ってもみなかった。
私のことなんて忘れて、楽しくやっているに違いないと、そう決め付けていたのだ。
「……なんで……っ、なんで、なんで、なんで……!」
道端に座り込んでいる私を、通りすがりの人が好奇な眼差しで見ている。
だけど村田は、私を諌めるようなことはしなかった。
代わりに、
「家族だからでしょう?」と、告げる。
「兄妹だからでしょう?」と。
肩に置かれた村田の大きな手に力が篭った。
「兄妹だから―――――、お兄さんのことを想って、苦しくなる。彼の人生を想って、悲しくなる。
そして、いなくなってしまったのが、辛くてたまらないんだ。家族を失うというのは、そういうものだから。だから、嘆く理由なんてそれだけで十分だよ」と。
君が悲しまないで、一体、他の誰が彼を悼んでやるのかと声を震わせた。
だから私は結局、泣くことしかできなかったのだ。