14 ※日浦純一視点
※日浦純一視点
それは二週間ほど前のことだった。
いや、もしかしたらもう少しは前だったかもしれない。
『……洋介が死んだ』
見覚えのない番号からの着信だった。
いつもなら間違い電話か何かだろうと放置しているところだが、なぜかそのときは応答してしまった。
もしかしたら、電話番号を教えた看護師からの連絡かもしれないと思ったのだ。
しかし、相手は女性ではなく病院関係者でもなかった。
もしもし、と言葉を発する前に、先方が話しかけてくる。
名乗りもしないのに相手が誰だか分かったのは、その声を覚えていたからではなく、洋介の名を呼ぶ人間が僕たち以外にいないだろうという確信があったからだ。
「宗司?」
数日前に、その怒鳴り声を聞いた。洋介の入院している病室の前で声を掛けられたから。
少し考えれば分かることなのに、まさかそんなところで宗司を顔を合わせるとは思わなかった。
驚愕している自分と同じく、彼もやはり一瞬だけ言葉を失ったのを覚えている。
しかし、はっと息を呑んだと思えば「帰れ!」と声を上げた。女性の甲高いものとは違うが、その声は悲鳴に似ていたと思う。
それは、たった一瞬の邂逅で。更に言えば、感動の再会とはいえないものだった。
しかし、そうであるにも関わらず、懐かしさのようなものがこみ上げてくる。
離れ離れになって十年以上が経過しているし、あの頃とは違う声だというのに、やけに耳に馴染んだ。声質も音域も声量も何もかもが違う。だというのに、何年経過しても忘れることはないのだとやけに納得した。
『会えないか、純一』
病室の前で会ったときとは違い、冷静な声に問われる。
洋介が死んだという事実をまだ理解することができないのに、宗司は僕の返事を聞くこともせず淡々と告げた。確認したいことがあると。
ふと視界を掠めた物体に視線を落とせば、ソファに座っている自分の膝に息子が両手を伸ばしていた。
小さな手を振り回すので、思わず、その指を掴む。
「ママ」と僕に向かって呼びかける姿に苦笑しながら「パパだよ」と訂正した。しかし、息子にはまだ父と母の区別がつかないようで……いや、厳密には、その呼び名の差が分からないようで首を傾げている。
小さく丸い爪が、僕のズボンを掴んだ。可愛い僕の愛息子。
『純一?』
電話の向こうの声が、酷く遠いもののように感じた。
日常生活の向こうに明滅する、過去の幻影だ。手を振り払えばきっと消えてしまうほどに儚いもの。しかし、ずっと手を伸ばし続けてきたものでもあった。
「ああ、分かった。会うよ。待ち合わせはどこにする?」
そんな風に答える自分の声さえ遠くなる。
宗司は電話の向こうで小さく息を吐いた。震えるような吐息だったと思う。
*
1つだけ言い訳をするなら、時間も場所も決めたのは僕ではなく、宗司だったということだ。
「ここまでどうやって来たんだ?」
ちょうど家の近くに大きな川が流れていて、その上をいくつかの橋梁が通っている。
宗司が指定したのはその橋の1つだった。つまり彼は、僕がどこに住んでいるのか知っているのだ。
正式名称は別にあるのだが、地元の人は竜神橋と呼んでいる。由来はよく知らないけれど、昔からこの地に住む人は当然のごとくこの通称を使っているから、近所の人間はさして疑問にも思わないのだろう。
この周辺に迷い込んだ人間が、付近を歩く地元民に道を尋ねて、更に混乱するのはそういう理由からだった。
そんな橋の上を歩いていると、ちょうど正面から自分と同じようにこちらへ向かって歩いてくる人物がいる。それが、宗司だということは考えるまでもなく分かった。
こんな時間に、こんな場所へやってくる人間など、僕たちしかいない。
距離にしてほぼ1メートルと迫ったところで宗司は立ち止まった。
そして挨拶もそこそこに、ここまでどうやってやってきたのかと問う僕に、宗司は片方の眉を上げる。首を傾げたその仕草に何となく懐かしさを覚えた。
彼は、何でそんなことを聞くのかと不思議そうな顔をして、「お前は?」と問うてくる。車だと答えれば「いい車乗ってるんだろ」と冗談めかして笑った。
子供のときと同じだと、ふと思う。右の眉を困ったように下げるのだ。興味があるものを視界に収めたときに、よくそういう顔をしていた。
昔、施設に1つだけある大きなテレビで見た映画俳優がそんな笑い方をしていたのを思い出す。その俳優は日本人ではなかったけれど、表情が宗司に似ていた。そう言って、3人でからかった。
自分たちの笑い声が、耳の奥で甦る。
「それで?」と水を向ければ「俺は歩きだよ」とそっけなく返って来た。
駅からこの場所まではかなりの距離がある。そして、大通りではあるが車しか通らないので、街灯も数えるほどしかない。ヘッドライトの明かりだけで十分だという考えなのだろうか。ぽつぽつと感覚を置いて瞬く街灯も、その内のいくつかは今にも電球が切れそうだ。
歩道は大人が横に並んでも余るくらいに広いが、歩行者のために作られたものではないように思う。偶々、それほどの道幅を取る余裕があったということだろう。
実際、ここには僕と宗司しかいない。
そもそも時間も時間である。時刻は既に真夜中で、人間どころか車の一台も通らなかった。
「洋介はいつ?」
出会ったそのときと同じく、1メートルほどの間隔を置いて佇む。
2人とも欄干にもたれるようにして立っていた。僕は、橋の下を流れる大きな川を眺めるように、宗司は広い道路を見るともなしに見やって。
「2週間くらい前だったかな」
数時間前まで降っていた雨のせいか、川の流れが早い。しんと静まり返った道に、ざあざあと耳障りな音が響いていた。
大きな川で、欄干から見下ろせば土手の下には駐車場やちょっとした広場が見える。雨が降れば当然、そこも水に埋まってしまうのだが、それも織り込み済みなのだろう。
実際今でも半分ほどが水に浸かっている状態だった。
「……2週間? そんなに……?」
「ああ、そうか。そんなに経つんだな……」
自分で「2週間前」と言ったくせにおかしなことを言う。
「曖昧、なのか……?」
「そもそも時間の間隔が曖昧だからな」
薄暗いのでよく分からなかったが、一歩距離を詰めれば、その横顔には疲労の色が見える。
記憶の中の宗司はいつまでも少年のままだ。つい先日会ったときだって、確かに彼は大人になったのだと思ったけれど、それと同時に、あまり変わっていないとも感じた。
「洋介、どうだった?」
「どうって?」
「……最期は、」
どうだったのかと口にしようとして声が掠れた。喉が震えて、上手く音にならなかったのだ。
その時、一台の車が真横を通り過ぎる。突然辺りが明るくなったので、眩しさに目を眇めていれば、
「あいつらしかったと思うよ。壮絶だった。だけど、穏やかだった」
相反する二つの言葉を並べた宗司は遠くを見つめた。
その言葉の真意を掴めずに、鸚鵡返しする僕の「壮絶……穏やか……」という呟きを拾って彼は小さく笑う。
「生きることを諦めさせるために、あれほど過酷な戦いを強いるのかな」
そして、くるりと反転して僕と同じように川面を見つめる。
欄干に両肘をついて、その中に半分だけ顔を埋めた宗司が瞳だけをこちらに向けた。長い前髪が額でさらりと揺れる。宗司は、高志と違い美形というわけではない。しかし、はっと人目を引く佇まいをしていた。それは造詣の美しさというよりも、雰囲気によるものが大きいと思う。
近くに居たときは分からなかった。だけど、こうして少し離れてみるとよく分かる。
色とりどりの花の中に、ぽつんと真っ白な花があれば自然と目が向くだろう。宗司は多分、そんな存在だ。
これまで彼が、平坦な道を歩んできたわけではないと知っているのに、その足元には深雪が広がっているような。馬鹿な妄想をかきたてる。
「……ここは少し、寒いな」
日中は今よりも少しだけマシだけれど、まだまだ真冬とも言える時期だ。
「飲み物、持ってきた」
僕が鞄の中から水筒を取り出すと、「お前……相変わらずだな」と笑う。
何が?と問えば、そういう用意周到なところが変わらないと、また1つ笑った。目を細めて。まるでそこに愛おしい誰かが居るみたいに。
手袋をしたまま鞄の中を漁り、腕の長さよりも少し短い水筒を取り出した。ふたを開けようとするのに、指先ががくがくと震えて上手くいかないのは寒さのせいなのか。
「貸せ」と短く言った宗司が僕の手から水筒を取り上げる。
節くれだった指先の爪が、黒く汚れていた。機械オイルだろうと思う。確かそういう仕事をしていたはずだ。
彼が欄干にふたを置いて、その中にお茶を注ぐのを眺める。素手だというのに震えている様子もない。寒いと口にした割に、案外平気そうだった。
試験管に薬品を注いでいるかのような顔をしている幼馴染に、「仕事は?」と訊く。
さりげなさを装ったけれど上手くいっただろうか。
相手が誰であっても私的なことを尋ねるのは少し、緊張する。その間合いが難しいのだ。しかし、宗司はさして気にした様子もなく、さらりと答えた。
「辞めたんだ。洋介が、あんなだったし」
好きなときに休める仕事なんて、ないだろ。と続ける。
頷きながら、差し出されたふたを押し戻した。
「先にいいよ」と言った、己の声が震えている。
宗司は湯気のたつふたの中を覗きこんで「そうか」と笑みを落とした。しかし、そこに唇をつけた瞬間、「あ、」と言いながら飲むのを止める。
そして僕の顔を、穴が空くほどにじっと見つめた。
その視線の強さに惑い、ほんの僅かに間合いを取った僕を見て、喉の奥をくくっと鳴らす。右手を掲げるようにして、お茶の入ったふたを揺らした。
「の、飲まないのか」
先ほどよりも一層震えた声で尋ねる。
喉の奥がぎゅうっと引き攣れるように締まった。苦しい。だけど、「飲まないのか」ともう一度問う。
「……馬鹿だな、純一」
こつん、と欄干の上にお茶の入ったコップを置いて、改めて僕の方に向き直った宗司は目を細めた。
「真面目で、だけどどん臭くて、嘘がつけない純一」
かつて幼馴染たちは、僕のことをそんな風に評して笑ったのだ。
馬鹿にされたわけではないと知っている。親が自分の子供をあえて悪く言うのに似ていた。悪意があるわけではなく、「自分のもの」だから多少けなしても問題ないと思っている。
しかし、いつまでもそんな子供ではないし、僕だって多少は成長しているはずだ。
そう反論しようと口を開けば、宗司は「お」と面白がるような顔をした。
互いに何を言い出すのか息を詰めて待つ。妙な沈黙が走ったそのとき、僕の胸ポケットが震えた。
マナーモードにしていたスマホが着信を知らせているのだ。
「ごめん、ちょっと」と言いつつ、上着のポケットからスマホを取り出すと、そこに表示されていたのは妻の名だった。
そういえば、何も知らせずに家を出て来た。
息子と一緒に眠っていた妻の穏やかな顔が頭に過ぎる。
『―――――あなた? 今、どこにいるの?』
少し焦ったような声音だ。寝起き特有の甘ったるい口調ではないので、もう随分前に目覚めていたのだろう。そして、隣にいない僕に気付いて、家の中を捜し回ったに違いない。
「ああ、ごめん。ちょっと……喉が渇いて……」
自分でも下手な言い訳だと思った。『飲み物なら冷蔵庫に入ってるけど』明らかに訝しんでいる様子の妻が間髪入れずに答える。
「あーええと、何だか、そう……どうしても炭酸が飲みたくて」
『……炭酸?』
息子がまだ小さいので、我が家にはそういった類のものは置いていない。果汁100パーセントのものしかないのだ。
『コンビにまで行ってるの?』
「あ、ああ、そう。ついでに散歩でもしようかと……」
ちょっと遠回りして帰ろうと思うんだ、何とかそう誤魔化そうとして視線を巡らせる。
そして、異変に気付いた。
宗司が、欄干の上に立っているのだ。
ちょうど足を乗せるだけの幅しかないから、一歩でも後ろに下がれば落下してしまう。
そんな狭いところだというのに、宗司は器用にバランスをとっていた。
「お、」
呼びかけようとして、妻がこちらの声に聞き耳をたてていることに気付く。
声を出さずに「何してる」と唇を動かすのだが、欄干の上に立っている宗司とはだいぶ高低差がある。
伝わっている気がしないし、宗司の顔もよく見えなかった。
「―――――やっぱり、お前は馬鹿だな。純一」
ぽつりと落ちた声は決して大きくなかったけれど、川の音さえ気にならないほどに朗々とした響きだった。
そこに少しだけ滲んだ笑い声が、何を意味しているのか分からない。
ついさっき耳にしたのと全く同じ言葉なのに、どこか違う意味を持っているような気がした。
「飲み物の中に薬なんて、ドラマでも使わない手なんじゃないか。いや、むしろ……そういう単純な手法で殺されたりするのかな」
僕に話しかけているように見せかけて、実は独り言なのではないかと思える。だって宗司は、僕の返事など期待していない。しかし、彼の声が、スマホを当てているのとは逆の耳に大きく反響する。
うるさいと、感じるほどに。
「間抜けだって言ってるんじゃないから、怒るなよ。あんまりに単純すぎて……それがお前らしいって、そう思ってるんだ。
だってお前、嘘はつけないだろ。
それに、複雑なことを考えるのが苦手だってことも知ってるよ」
は、と呑んだ息に反応を示したのは『あなた? どうしたの? そこに誰かいるの?』妻だけだ。
「い、いや。誰もいないよ、通りすがりの、人だ」
取り繕うことができていたか分からない。だけど、僕はしっかりと妻の言葉に反応を示していた。
今、目の前に居る宗司には、何1つ返事もできないというのに。
「お前は多分、俺や洋介のことを調べたんだろう。それでどう思った? 自分とあまりに違って同情したか? それとも笑ったのか? 馬鹿な奴らだと見下したか。だけど、お前の人生だってそれほど誇れるものじゃないだろ。施設の中に居たときのことは置いておいても、平々凡々な人生だよ。凹凸のないくだらない人生とも言えるな。普通の高校に行って、普通の大学に入って、普通の会社に入って、普通の奥さんもらって、普通に家庭を築いて。これと言った趣味もなくて、お酒は飲めないだろ。多分、そうだ。それでタバコも吸わない。きっとそうだろう。そんなありきたりでつまらない人生だ」
暗闇の中に溶け込んでいくような抑揚のない声に、僕は首を振ることしかできない。
『……あなた?』
妻の優しい声が僕を呼んでいる。
きっと他人から見れば山も谷もないつまらない人生に見えるだろう。
いい会社に入ったと思ったけれど、特別秀でているわけではなかった。何か特別なことができるわけでもなく、自己評価をするなら、何もかもにおいて平均値だ。仕事が速いわけでもなく、遅いとも言えない。
でも、だからと言って自分が普通だとも思えなかった。
「普通」であるなら、こんなに苦しむはずがない。
最近は夜中に目が覚めることが多くなった。それは多分、洋介が入院していると知ったときからだろう。
眠れない日が続いて、なぜか昔のことをよく思い出す。
それは昼間でも同じで、まるで白昼夢の中を生きているようだった。
不眠に悩まされ、気分も優れず、吐き気が起こることさえある。
病院に行けば寝不足だと睡眠導入剤を渡された。こんなものでは改善しないと訴えれば、カウンセリングを受けてみるように勧められる。
しかし、カウンセリングに行ったところで打ち明けられるはずもなかった。
あれは、僕たちだけの秘密なのだから。
「だけど、いや、だから―――――」
『あなた? どうしたの? 何かあった?』
宗司と妻の声が重なる。
「普通だからこそ、最高だな。純一。
お前、ごくごく普通で、単純で、素晴らしい人生を生きてるよ」
たんっ、たんっ、と砂利の上を走るような奇妙な音で、心臓が音をたてている。
僕たちの秘密を知るのは、僕たちだけだ。
つまり、宗司、洋介、高志、僕。
洋介はどうやら亡くなったらしく、高志はきっとあの団体からは離れることができない。
あの林の中の出来事を知っている大人たちは代表の信奉者であり、幹部でもあるから、罪悪感すら抱いていないだろう。もしかしたら、本当にあの日の出来事は忘れているかもしれない。
だとすれば、宗司さえいなければ、あのことは明るみに出ることはないだろう。
そうだ、宗司さえ、いなければ。
「ずっとこう思いながら生きてきたよ、純一。
お前じゃなくて良かったって。こちら側に居るのが俺たちで、そっち側に居るのがお前で。
それで良かったって思ってた。
―――――だって、お前はきっと耐えられないだろうから」
お茶の中に睡眠導入剤を混ぜた。
「計画」なんてものはなかった。そんな複雑なことを考えられる余裕などなかったのだ。
ただ、宗司など消えてしまえばいいと思った。
あれほどに会いたかったはずの存在なのに、どうしてそんな風に思ったのか分からない。
自分でも混乱しているのがよく分かった。だけど、彼がいなくなれば、この得体の知れない不安も払拭されるだろうと考えたのもまた事実だった。
睡眠導入剤を飲ませたくらいで何とかできると思ったわけではない。
もしも、それを飲んだ彼の意識が朦朧とすることがあれば、橋の上から突き落とすことはできるかもしれないと思っただけだ。
しかし、上手くいくとは限らなかった。
偶然の成り行きというやつに、かけてみようと思っただけだ。
「純一、お前は、それでいい」
無味無臭のはずのそれに気付いた宗司には確信があったわけではないだろう。
きっと、ただの勘だったに違いない。
だけど、僕の顔を見て、全てを察した。
『あなた? おかしいわ。電波が悪いのかしら。ねぇ、あなたの声が聞こえないの。私の声は聞こえてる?』
ああ、ちょっと待って。
待ってくれ。
「約束を覚えてるか? 純一。あの日、4人で交わした約束だ」
「……ああ、」
かろうじて掠れた声が出る。
『良かった、聞こえてるのね』と、電話の向こうで妻がほっと息を落とした。
「約束を守れよ。だけど、お前は全部守る必要はない。もう、分かってるんだろう?」
『散歩なんてしないで早く帰って来られない? 夜中だし危ないわ』
「……ああ、」
「幸せになった人間を恨まない、幸せになった人間を憎まない、幸せになった人間の邪魔をしない」
あの日の記憶が甦る。今まさに、宗司と手を繋いでいるような感覚に陥った。
左側に宗司。右側には高志がいた。正面には、洋介だ。
指と指を絡めるようにして、指きりをするみたいに約束を交わした。
いや、もしかしたらあれは、ただの「誓い」だったのかもしれない。
戦場に出る前の騎士がそうするみたいに、僕たちは仲間と誓約を交わしたのだ。
頭上に掲げる剣を持っていなかったから、代わりに、魂を捧げた。
そして誓約を交わした後、
「―――――幸せになった人間は、全て、忘れる」
と、決めた。
そう言ったのは、確か、高志だったと思う。
つまり僕は、僕以外の3人が決めた誓約に肯いただけだ。
思えば、あのときから何もかもお膳立てされていたのかもしれない。
誰か1人だけを幸せにすると決めて、他の3人はそれ以外の道を行く。
「純一、お前は、忘れていいんだから」
あのときと同じように空にはいくつもの星が輝いている。
施設に置かれていた少ない蔵書の中から星座の本を持ち出して、夜空を眺めたのはいつのことだったか。
あのときの僕たちには想像もできなかった。
こんな未来が、待ち受けているなんて。
「しゅ、」
名前を呼ぼうと思った。引き留めるにはそれしかない。
だけどそのとき、電話の向こうで息子が声を上げて泣いた。
『パパぁっ!』
その声を無視することができなくて、思わず「どうした?」とスマホに意識を傾ける。
『ほらほら、泣かないの。……さっきからパパがいない、パパがいないって……あなたのことを捜してるのよ』と、苦笑する妻の声に胸が痛んだ。
父親と母親の呼び名の違いに気付いたのだと微笑ましい気分になるはずなのに、視界がぼやける。
そして、ふと宗司の方に視線を戻して―――――そこに、誰もいないことに気付いた。
ひゅっと息を呑んで「しゅ、」呼びかけようとするも、再び妻の声に遮られる。
『もう、帰ってくる? それともまだ時間がかかるのかしら』
がくりと膝が折れて、アスファルトの上に座り込んだ。
欄干の上に、水筒とふたがぽつんと置かれている。さっきまで、そこに、宗司が立っていたのに。
右を見て、左を見る。意味もなく道路に視線を移して、辺りには人の気配さえないことを確認した。
周辺がいくら薄暗いとは言え、人間がたった一瞬で姿を消すはずがない。
だから僕は、一刻も早く欄干の下を覗くべきなのだ。
飛び降りた。宗司が―――――、
『あなた? 何かあったの?』
妻の声に、立ち上がることもできないまま返事をする。
瞼の奥が焼けるように、熱い。
「……何も、」
そうだ。僕はこんな風に生きてきたのだ。ずっと、あの日から、
「―――――っ、何も」
本当は何1つ忘れることなどできなかったというのに。
「何でもないよ、何も……、何でも、ない」
何事もなかったかのように、目を閉じて、耳を塞ぎ、口を噤んで。
全て、忘れてしまったかのような顔をして。
そうやって、生きてきたのだ。
あの日交わしたのは、そういう約束だったから。