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洋館の入口で叫び声を上げる私を止めたのは村田だった。

身を捩って抵抗する私に「しーっ、しー、大丈夫、大丈夫」と小さな子を宥めるように囁く。


「やめて、やめてください……! 離して……っ」


それでも声を抑えることができない私を、後ろから羽交い絞めにしてきた。

体格差と腕力の違いにより、制圧されてしまう。拘束から逃れようと腕を振り上げようとするのに全く上手くいかない。

あっけないほど簡単に、動きを封じられてしまった。

肩で呼吸をしながら、背後から自分を押さえつけている男に視線を向けると、彼は私のことなど目にも留めずに何かを一心に見つめている。

そのあまりに険しい眼差しに、思わず動きを止めた。

すると村田は、ちらりと私を一瞥して、片手で私を抱きとめたまま小さく指を差す。

彼の指先を追えば、洋館の2階から幾人かの人間がこちらを見下ろしていることに気付いた。

男性も女性も居るようだったが、どの顔にも見覚えはない。他に人気ひとけはなかったというのに、どこかに隠れていたのか。それとも、ただ視界に入らなかっただけなのか。

とにかく、その虚ろな眼差しに震えが走った。

その中に棚道はいなかったけれど、彼もどこかで見ているのだろう。

けれど、それならそれでいいと思った。これほどの人数が居るのであれば、彼らに話しを聞くことができるかもしれない。

だからこそ、「何で、何で、止めるんですか……っ」と再び声を上げる。

一度勢いを失ったからか、弱々しい声が漏れただけだったが、村田の関心を向けるのには成功したらしい。ふと、私に視線を移した彼は眉間に皺を寄せた。

一瞬だけその瞳を揺らして、白い息を吐き出す。


そして、「君は、お父さんの想いを無駄にする気なのか」と、静かに問いかけてきた。


すっかり消え失せてしまった彼の陽気さが懐かしい。

今こそ、明るい声で言って欲しかった。

暗い気分なんて払拭してしまうほどの笑顔で、こんなのは、何もかも嘘なんだよと。


「君のお父さんが、なぜ……君をこの団体から引き離そうとしたのか、よく考えるべきだ」


「こういうことを、心配していたんじゃないの?」と、再び睨みつけるように洋館を見上げた。

等間隔に並ぶ窓の向こう側に見える人影が、雪景色に霞んで、亡霊が佇んでいるようにも見える。それがひどく不気味で、その存在そのものが彼らの所属する団体のおぞましさを表しているようだった。

幼かった私を誘拐しようとしたくらいだ。それはほぼ狂言だったかもしれないが、彼らが一体どういう存在なのかを証明することには成功していたように思う。

強硬手段に出ることも厭わないという、その強気な態度が、父や叔母を怯えさせたのだ。

そして、母と兄の身に起こった出来事が―――――棚道の導いた通りの結末だったとしたなら。

今、私と村田を見下ろしている彼らにとって、母のことはまさしく不都合な真実に違いない。

それを誰かに知られることは、きっと喜ばしいことではないはずだ。


「とりあえずここを離れよう」という村田に、後ろ髪を引かれる思いで従う。

ぽつぽつと頬を滑った水滴は、私の顔をめがけて降ってきた雪の成れの果てなのか。

それとも己の瞳から零れ落ちたものなのか。

胸の奥につっかえた塊を吐き出すかのように、息を漏らす。

だけど、むしろ一層苦しくなった気がして。胸元を強く、強く握り締めた。


*


「どこか喫茶店にでも入ろうか。ちょっとお腹が空いたね」と村田が言うので、車で移動し、道沿いの喫茶店に入る。

村田は元々、この店を知っていたのかもしれない。

よくよく考えれば、洋館まで下見に来ていたことだって考えられる。

少し暑すぎるほどに暖房をきかせた店内で、コートを脱ごうとボタンに手をかけた。

けれど、指先が面白いほどにがくがくと震えていてうまくいかない。先を歩く村田を追いながら、とりあえず両手に息を吹きかける。ついさっきまで屋外に居たので、温かいとは言えない呼気だったけれど、それでもしないよりはマシだ。

「……大丈夫?」

気遣わしげに声を掛けられて「はい」と肯くものの、声まで震えている気がした。

歩いていると、背中が汗ばむほどなのに、肩や腕が小刻みに揺れる。それを抑えることができない。

寒さに震えていた余韻なのだろうと思っていたが、ふと気付く。

これはきっと、寒さからくるものではないと。

思わず、己を抱きしめるように両腕を胸の前で交差させた。そうしなければ、凍えそうな気さえする。

母と兄のことは、明確に何かの答えを得たわけでもないし、全ては推測の域を出ていない。

もしかしたら本当は何もなかったのかもしれないと、そんな風に思うのに。

一歩足を踏み出すごとに、自分の中の何かが崩れていくような気がする。


私はここまで来て、一体何を知ってしまったのだろうか。


微かに聴こえる弦楽器の音に、ふわりふわりとたゆたうような心地になった。

複雑に絡み合う思考に、自我を奪われてしまうような感覚に陥る。

しっかりと地面を踏み締めることすらできない。屋外との温度差に肉体がついていっていないのだろう。

ふらふらとしながら、それでも前へと進む。

やがて、愛想がいいとは言えない店員に向かい合わせのソファ席に誘導され、そこに収まった。

たった一日に起こった出来事だというのに、ここ数週間分の体力を全て使いきってしまったかのような疲労感だ。

感触のいいソファに背中を預けて、向かいに座った村田の顔を見つめる。

彼は、にこりと明らかな作り笑いを浮かべた後、白く曇った窓の外に視線を逃がし黙り込んだ。眉間に皺が寄っているので、もしかしたら何か考え事をしているのかもしれない。

だけど、今だけはこの沈黙が有り難かった。

私自身、この数時間に起こった出来事を整理する必要があると思ったからだ。


このままでは、自分が、予想もつかないことをやってしまいそうで恐ろしくもあった。

村田が止めるのであれば、彼をこの店に置いたままタクシーを拾って、さっきの洋館まで戻り単身で乗り込む。そういうことだって有り得る。私一人であれば、彼らも中まで招き入れるかもしれない。

そんな考えが過ぎる。

それがどれ程に無謀なことなのか、自分でもよく分かっているはずなのに。


「きわこちゃん」


どれほどの時間が経ったのか、運ばれてきたコーヒーの湯気が少し落ち着いた頃、村田がそっと声を掛けてきた。

顔を上げると、テーブルの上に投げ出していた両手を掴まれる。

自分の指先が未だに震えているように思うのは、勘違いだろうか。


「……君の手はとても小さいね」

「? な、何ですか?」


突然何を言い出すのかと、自分の手を掴む村田の指を見つめる。男性らしい、節くれだった太い指だ。それに厚みもある。

彼は、ほんの一瞬だけ、ぎゅっとその手に力を込めた後、あっけないほど簡単に手を離した。

そしてテーブルに肘をついて、手の平に自分の顔を載せる。

斜めに傾いだ顔が、私をじっと見つめた。


「その両手で、一体、何が持てると思う?」

「……え?」


そんな小さな手では、持てる荷物もだいぶ限られてくるよね。と彼は意地悪そうに笑う。


「これまでの人生でも、君は多くの岐路で様々な選択をしてきたと思う。それはそう……例えば、受験なんかもそうだよね。選ぶ高校? 大学? によって、その先に続いている道は違うものだよ。行き着く先は同じかもしれないけれど、出会う人間は変わってくる。そして、出会った人間によって受ける影響も違うだろうし、人間関係というのは少なからず自分自身に影響を与えるものだよね」


村田が何を伝えようとしているのか分からず、ただ黙り込んで、その言葉に耳を傾けた。


「これから先も君は色んなことを選択していくことになる。それにはきっと、これまでの人生とは比べ物にならないほどの究極の選択も含まれると思うよ。……そのときには気付かなくても、やがて、いつかのときに理解するときがくる。ああ、あのとき自分はとんでもない道を選んでしまったんだって」

「……」

「いや、もしかしたら、この道を選んでよかったと心底ほっとしたりするのかもしれない」

「……は、い」


独り言のようにつらつらと語る村田に、やはり相槌を打つことしかできない。

何か気の利いた返事ができればいいのに、私にはそれほどの会話力も適応力もなかった。何せ、社会に出てまだ一年である。

先輩が話しを振ってくれてもまともに返事ができないこともあった。

経験が浅いのだからそれも仕方のないことだと、己を擁護してみるけれど虚しくもある。

そんなことを考えながら視線を落とした。

すると、村田はふと言葉を止める。思わずその顔を見れば、今度は少しも笑っていない。


「だけど、君が何かを選択するどの瞬間も、君は既に『君だけの荷物』を抱えているんだ」

「……私だけの、荷物?」

「そう。だからこそ、君は選ばなくちゃいけなくなる」

「……選ぶ、」

「うん。どの荷物を捨てて、どの荷物を抱えるのか。もしくは、荷物を重ねる順番を考えたりすることもあるだろうね」


思わず、自分の両手を見下ろした。確かに私の両手は彼のものよりも随分と小さい。


「僕はね、思うんだけど。年を重ねたからと言って、抱えることのできる荷物が増えるわけじゃないと思う。ただ単に、荷物の重ね方、持ち方が上手くなるだけなんだと……そう思うよ。もしくは、荷物の選び方が分かるようになるだけかもしれない」


「案外、容量というのは、そう変わらないと思ってる」


成長期を終えて、君の手の大きさが変わらなくなったように。と、続ける。

そしておもむろに自分の手を掲げて見せた。何かで怪我をしたのか、よく見れば指とか手の平に小さな切り傷がある。不躾にもそれをじっと眺めていれば「……まぁ、仕事柄ね」と笑った。

それ以上、その傷について説明する気はないらしく、んん、と咳払いをする。


「そう、だからね。自分一人で持つことのできる荷物には限りがある。

だけど、誰かの手を借りることはできるよ。年を重ねるというのはもしかしたら、そういうことなのかもしれない。知り合いや友人が増える分、手を貸してくれる人間が増えるっていうことなのかもしれないよね」

「……そういう、ものですか?」

「うーん、まぁ……手を貸してくれる人間の居ない人もいるだろうし、もしかしたら……人それぞれなのかもしれないけど……」


相変わらず、自分の手を私に向けたまま村田は言った。


「とにかく僕は、そう、この話しで言うところの『君を手助けする人間』だね。つまり、この手を貸してもいいってこと」

「それは……有難うございます?」

「何で、疑問系なのか分かんないけど、ふふ」


苦笑したその人は、テーブルの上に自分の手を置いた。片方だけ。


「だけど僕には元々、他にも抱えている荷物がある。だからきわこちゃんに貸し出せるのは片手だけ。そして、この全部を与えられるわけでもない」


そんな風に言って、指を二本だけ立てる。


「君はその両手で、自分の荷物を一生懸命に抱えてる。まだ若いから、きっとその抱え方もよく知らないだろう。誰かに助けを求める方法だってよく分かってないはずだよ」


確かにそうだと思うから、こくりと肯く。


「そこに、僕という人間が現れて、そう……指を二本だけ貸してくれるんだ。それで君は思うはず」

「……何を?」


自分のことだというのに、村田という赤の他人に代弁されて戸惑う。だけど、問わずにはいられなかった。

自分でも自分のことがよく分からない。これが若さゆえのことなのか、それとも、今この状況だから混乱しているだけなのか。


「何で、二本しか貸してくれないのかって」

「……そんな、」こと思うはずはない、と言おうとして思わず口を噤んだ。

本当に、そうだろうか? 何で助けてくれないのかと、思ったりしないだろうか。

自分でも自信が持てなかった。


目の前で困っている人間が居たなら、手を貸すのは当然のことだと思う。

自分の手の届く範囲で誰かが転んだなら、助け起こすのが筋というものだろう。

だけど、本当にそうだろうか?

そういう状況に陥ったとき、自分は立ち止まって「大丈夫ですか?」と声を掛けて、手を差し伸べるだろうか。

通勤時、とても急いで歩いていたとして、その人を助けることにより遅刻する可能性があったなら。

私は、他の人が手を差し伸べることを願いながら、足を止めずに歩き続けるのではないだろうか。

困っている人間が居るからと言って、手を差し伸べるのは義務ではない。

あくまでも、善意によるものなのだ。

それなのに、もしも転んだのが自分だったなら、なぜ助けてくれないのかと思うに違いないのだ。


「僕はね、僕の大事なものを守るために、無理はしないと決めているんだ」


村田は断言した。その言葉に迷いなどはない。


「この仕事はいわば、人助けに近いものがある。だけど、僕は報酬をもらっている。だから人は遠慮なく困りごとを押し付けてくるんだ。お金を払っているんだから、それ相応の働きをしろってね。……それはどんな仕事でも同じなのかもしれないけど」

でも、だからこそ、と村田は一度呼吸を置いた。


「僕は、僕なりの境界を定めて仕事をしているんだ」


僕だって人間だから、できることとできないことがある。だけど、できるからと言って、自分を犠牲にするようなことはしたくない。ましてや、抱えているものを投げ出すことは、もっとしたくない。

「だから、指二本だけ、君に貸してあげることができるんだ」と、言った。

二本の指を顔の横へ持ってくると、まるで写真でも撮っているかのようなおどけた雰囲気になるのに、その顔は真剣そのものだった。


「そして、君は僕の指を借りていることも考慮して、選ばなくちゃいけないよ」

「選ぶ……、選ぶ……?」


何度も同じことを言われているのに、自分にはどんな選択肢があるのか、何を選ばなければいけないのかが分からない。

私は今、どんな「岐路」に立たされているのだろう。

ただ呆然と、目の前のコーヒーカップを眺める。

ただの一口さえ含んでいないのに、すっかり冷めてしまった様子だ。それとも、そう見えるだけで唇をつければ、まだ熱を持ったままなのかもしれない。


「これが例えば物語だったなら、いや、もしくはドラマや映画だったら、全ての出来事が終幕へ向けて一気に動き出すだろうね。そして、幕が下りる瞬間にはきっと、何もかもがうまく納まってるはずだ。なぜかって? それは、観客がそう望むからだよ」

「……だけど?、」

「そう『だけど』、これは物語でもドラマや映画でもない。ただの現実だ。だからこそ、全てが上手く納まるなんて有り得ない。だから君は、抱えている荷物を落とさないように、正しい選択をしなければならないんだよ。そうしなければ、君の抱えているもの全て、落としてしまうことになりかねない」


心を、読まれているのではないかと思った。

1人であの洋館に戻ろうとしたことさえ、村田には分かりきったことなのかもしれない。

「年寄りの戯言だと、笑ってもいいよ」と続けながらも、その眼差しには無視のできない強い光が宿っている。単純に、経験の差なのだろうか。年を重ねているからこそ分かることなのだろうか。

だけど、これは多分、それほどに単純なことではない気がした。


「落としたことがあるんですか? 荷物を、全部」


思わず口をついて出た言葉だったけれど、答えを出す前に聞いてみたかった。

軽々しくステップでも踏むような足取りで歩くこの男が、そんな失敗をしたことがあるのかと。

彼の例え話に出てくる「荷物」は言わずもがな、郵便物や宅配便ではないし、箱に納まるような物体ではない。いや、厳密に言えば、そういうものも含まれる気はするが、財産や地位や名誉と言った分かりやすいものではないはずだ。

それは多分、人と人との繋がりであったり、家族の絆であったり、友情であるかもしれないし、恋情かもしれない。思いやりや、優しさや同情かも。

非常に不確かで曖昧なものではあるが、それは、生きる上ではとても重要なものである。

そういうものを全部、落とすというのは。

何もかもを失くしてしまうというのは、まさしく、絶望に近いものがあると思う。

だからこそ、聞いてみたかったのだ。


それほどの、絶望を負ったことがあるのかと―――――。


「……さぁね」


村田は、唇の端を歪めて笑った。

今の今まで一度も見たことがないような笑い方だったから、何となく察してしまう。


「-――――私は、どうすればいいんでしょうか?」


言葉が切れたのはほんの一瞬だったけれど、それでも店内のBGMが完全な静寂を許してくれない。

他にお客さんの姿は見えないから、互いの声が聞き取りずらいということはないけれど、聴こえすぎるというのも何だか問題な気がした。

一度言葉にしてしまうと、誤魔化すこともうやむやにすることもできない。


「きわこちゃんはそもそも何をしたいんだった?」


村田はなぜか満足げな顔をして、テーブルに身を乗り出してきた。

物理的な距離が縮まって、その表情がはっきりと見える。彼もそれを狙っているのだろう。

底意地の悪い笑みが浮いているわけではない。しいて言うなら、案じている、というところか。


「兄を、捜したいです」


考えて出した答えではない。ただ何となく、するりと出てきた言葉だった。

そうだ。最初から目的は、「それ」だったはずだ。

兄を捜すこと。その一点に尽きるはず。

だけど、改めて口にしてみると、胸の奥にわだかまっていた何かがすっと溶け出していくような気がした。

村田は私の言葉を聞いて、微笑を深くする。


「そうだね。君は、まずそれを忘れないことだよ。これから何が起ころうと、目的を見誤らないようにしないと」


村田は、うんうんと何度も肯きながら、前のめりになっていた体を元に戻した。

今度は完全に背中をソファに預けている。脱力しているようだ。


「……確かに、お母さんのことは……心配だろうし、結局、どういうことだったかもよく分からない。何かが起こったのは多分、間違いない。だけど、その謎を解く前にすることがあるよね」

「は、い……」

「だけど、お母さんのことは解決しないかもしれないということは念頭に置いておいたほうがいい。まずは、君のお兄さんを見つけること。話しはそれからだ」

「―――――はい」


母のことを口にされると、たまらなく苦しくなった。

顔も、声も、姿形でさえ、曖昧で。面影さえ、記憶の中から消えてしまっている。

そして、そんな風に母や兄の姿を思い出そうとする度に過ぎるのは、家を引っ越すときにアルバムの類をごみ袋に詰めていた父の背中だ。

アルバムにも納めていなかった写真の束を、まとめて袋に放り込んでいた。

一心不乱というのは、ああいうのを言うのかもしれない。形振り構わず、乱暴に、乱雑に次々を袋に投げ入れていった。

そして全てを袋に入れた後、ほんの束の間、動きを止めて。

ごみ袋の上に倒れこんだ。

何事かと近寄ろうとして、倒れたのではなく、ごみ袋を抱きしめているのだと気付いた。

どうすることもできず、声を掛けることすら躊躇っていると、父は小さな小さな嗚咽を漏らしたのだ。

多分、私が傍にいることを知らなかったのだろう。


「これがテレビドラマか何かだったら、あの得たいの知らない団体の秘密を暴いて、それこそ巨悪を暴くのだろうと思う」


だけど、これは現実だから。と、村田は強調する。


「君が1人で、彼ら複数の人間を相手にしたところで勝てるわけがない。警察に相談する? だけど、どんな根拠で公的機関に動いてもらうんだろうね? 何の証拠も無いのに」


無理だよね、無理無理。と首を振りながら、はは、と乾いた声で笑った。

警察に相談するというのは、確かに頭を過ぎった考えでもある。だけど、どんな風に、何を相談すればいいのか分からない。こんな荒唐無稽で、現実味のない話を信じてもらえるかどうかも分からない。

そもそも、自分自身、まだ信じ切れていないのだ。

だから警察署に赴いたところで、支離滅裂の話しかできないと分かっている。


「僕はただの調査員だし、君もただの会社員だ。特別な力もなければ、ああいう団体を相手にしても問題ないほどの人間を知っているわけでもない」


それは例えば、あの団体から無事に抜け出すことのできた女性を指しているのだろう。

たまたま、有名政治家と縁続きだったからこそ、何事もなかった。


「たった2人でできることなんて高が知れてるんだよ」

「……そうですね」

「だからね、きわこちゃん」

「はい」

「こういうときはね、何か1つだけ、最も大事なものを選ぶようにするんだ」


村田は、小学生にでも話しをしているかのような優しい口調で言った。

1つ1つの言葉がはっきりと聞こえるように話すのは、私に言い聞かせようとしているからかもしれない。


「他のものに目移りしないように気をつけて」


ね? と念を押すように言われて、深く肯いた。

そうするしかなかったから。

結局、村田の望む結論に導かれたような気もするが、歯向かったり反論したりするには、圧倒的に経験値が足りない。


「―――――それでね、」


いつまでも震えたままの指先に視線を落としていると、村田が自分のスマホを差し出してくる。

テーブルの上でくるりと向きを変えて、テーブルの上を滑らせた。

思わず、両手で受け止めて、その画面いっぱいに映っているものを眺める。


「……これは、何ですか? 名簿……?」


暗くて荒い画面に映し出されているのは、何かの書類だ。

拡大しなければはっきりと見えないが、画像データだということは認識できる。

一番左にずらりと個人名が並び、その横に住所や電話番号が記載されていた。


「さっき、ちょっとね。トイレに行ったついでに」


村田はにやりと笑い、私の手からスマホを引き抜く。

その一連の動作を眺めながら、『トイレに行ったついで』という言葉を反芻する。


「すっごいベタなんだけど、トイレに行った帰りにちょっと洋館の中を散策してみました。面白いよね。あまりにベタすぎて、棚道さん、警戒していなかったんじゃないかな」


テレビドラマでよく見る手法でしょ?と、指で画面を操作しながら軽く首を傾いだ。

「そして、まさかそんなことをする人間が居るとは思っていなかったのか、どの部屋もだいたい鍵がかかってなかったんだよね。まぁ、普段は身内しか出入りしていないのだろうから、鍵をかける習慣がないんだろうと思うけど」

その開放された一室で、とあるファイルを見つけたのだという。

「今どき、アナログだと思わない? 紙の資料をファイリングしてるんだもん。見つけてって言わんばかりだった」


その背表紙には、はっきりと『夢と希望と創造の家』と記されていたのだという。

思わぬ発見に興奮しつつも、周囲を警戒しながら中身を改めたところ、


「名簿があったんだ。恐らく、創造の家とやらに入っていた子供たちのものだと思う」


見覚えがない? と、再びスマホの画面を見せられる。

先ほど見せられたものとは少し違う名簿だ。きっと年代ごとに用紙が分けられていたのだろう。

見落とさないように1つずつ名前を確認する。

そして、思わず、はっと大きく息を呑んだ。


「―――――小竹、洋介」


顔を上げれば、村田と視線がぶつかる。


「小竹洋介って、」


もう一度確認するようにその名を口にした途端、心臓が早鐘を打った。

元々小刻みに震えていた指先に力を込める。これ以上、動揺していることを悟られたくなかったのだ。

そんな私の心情を知ってか知らずか、村田は静かに告げる。


「……そう。小包の差出人だよ」


―――――そう、そうだ。その筆跡さえ、はっきりと思い出すことができる。


村田は、「きわこちゃんは、差出人の名前も住所も電話番号もデタラメなんじゃないかと言っていたけど、身元を隠したい場合でも名前だけは本名を記すことがあるんだよ」と説明を加えた。

だって、誰かに見られて名前が違うことを指摘されたら困るでしょ?と。


「それとも本当は……見つけてほしかったのかもしれない。だから、あえて本名を書いたのかも……」


雪のせいで、伝票が濡れていた。だから、その名前は滲んで、今にも消えてしまいそうだった。

だけど、読み取ることができなかったわけじゃない。


目に焼きついて離れないそれは、兄の友人の名前だった。

















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