プロローグ
カーテンがゆらりゆらりと優しく揺れている。
真冬だというのに窓を開けているのには何か意味があるのだろうか。
ここがもし、大部屋だったら他の患者から抗議を受けるに違いない。
たまたま個室しか空いていなかったからという理由で、この部屋に入院することになったこいつは、なかなか運があると思っている。
「……ああ、お前か」
扉を開けたまま動かずに居れば、気配に気付いた洋介が力の入らない顔でゆったりと笑った。
ベッドに寝たきりの彼は、ただ顔だけを動かして「入れよ」と言う。
前回、この部屋へ来たときよりも更に痩せているような気がした。
鼻を付く薬品の臭いに知らない内に顔を歪めていたらしく、洋介はそんな俺の顔を見て、また一つ笑う。
「まさかこんな風になるなんて、思わなかったな……」
実感の篭った声に「俺もそう思う」と肯けば、俺の全身を眺めて「お前は相変わらずだな」と目を細めた。
もう自分で便所にも行けないんだぜ、と自嘲気味に笑うその姿に胸の奥を突かれたような感覚に陥る。
俺たち幼馴染の中で一番快活で明朗で、何より健やかだった洋介。
かけっこでは一番早かったし、力も強くて、幼馴染の中で一番体格が良かった。
気性が荒かったせいで自然とガキ大将的な役割を担い、俺たちの幼馴染をよく泣かせていたことを思い出す。
「死んだらどこに行くのか、あの人の話をちゃんと聞いておくべきだったかな。そういうこと、よく話してただろ」
「……やめたほうがいい。アイツが言ってたことなんて、ほとんどが空想か妄想だ」
「ふっ、だな」
初めから冗談だったのだろう。洋介は明るい色の瞳を瞬かせて、「あの人に会いに行く元気もないよ」と呟く。実感の篭る声だった。
「最近、すごく眠くてさ。多分、薬のせいだろうな」
まどろんでいるようなはっきりとしない口調からも分かる。相当に強い薬なのだろう。
点滴の時間は地獄だな、と視線に促されるように洋介の腕を見れば、皮膚が赤紫に変色している。
血管が細くてなかなか針が入らないらしく、1回点滴を打つたびに何度か針を刺し直すそうだ。
針を残したまま点滴のチューブだけを交換することもあるようだが、そのあたりの説明はよく分からなかった。ただ、針を刺すときに皮膚が破けそうに痛むのだということには肯いておく。
「なあ、宗司。後悔のない人生を送るっていうのは難しいな」
今日はいつもより意識がはっきりしているのか、やけに饒舌だ。
この間、見舞ったときは終始ぼんやりとしていて、かろうじて返事ができるほどだった。
「後悔、してるのか?」
ベッドの脇にパイプ椅子を置いて座れば、その様子を眺めていたらしい洋介が小さく肯く。
けれど、その後すぐに「いや、」と呟いた。
肯定しているのか否定しているのか、どちらか分からない返答だ。
自分でもよく分からないのかもしれない。
「俺さ、ずっと考えてたんだ。いつか自分の両親に会いに行こうってさ。捜し出すのは難しいかもしれないって思っていたけど、時間をかければ見つかるかもしれないって……」
「うん」
「そう思いながら生きてきた」
「……そうか」
「ああ、そうなんだ」
ちらりとこちらに視線を移して、搾り出すように声を出す。
息苦しいのかもしれないと思った。
「……だけど、実際に行動することはなかったよ」
まだ、時間があると思ってたから。と洋介は目を閉じる。
「もっと後でもいいと思ってた。もっといい人間になってから、もっと稼ぐようになってから、もっと充実した人生を送れるようになってから……。そうやって色んな理由をつけて」
「多分、逃げてたんだろうな」と、こくりと息を飲み込んだ。
その声には確かに、涙が滲んでいる。
だけど、洋介は涙を零すこともなく瞼をこじ開けて、俺の顔を見た。
顔なんかがさがさで、頬の辺りは皮が向けている。それなのに、その瞳が水分を失うことはない。
双眸だけがぎらぎらと光を含んで、飢えた獣のような眼差しをしていた。
「宗司」
やせ細った腕が一瞬だけ宙を彷徨い、膝の上に置いていた俺の右手を掴んだ。
男同士なのに変な感じだと思ったけれど、離せとは言えなかった。縋るように掴まれたその指先の強さにたじろいだのだ。
病人だとは思えないほどの力強さで、俺の手を掴んで離さない。
「人生は案外、短いよ」
洋介はそう言って、俺から視線を外すと点滴バックを見上げる。
ぽつり、ぽつりと、落ちていく液体を睨みつけるようにして、「俺の命は、これがないともうだめなんだぜ」と言った。乾いた唇には水分が足りておらず、だからこそ、その声も乾いて聞こえる。
「洋介、俺に何かできることあるか?」
思わずそう言ってしまったのは、洋介を憐れんだからかもしれない。
その心を察したかのように彼は鼻で嗤う。
「もういいよ、別に。だって死んだら何もかも終わりだろ?」と、今更何かしたところで結果は同じだろう?と責めるでもなく淡々と事実だけを口にする。
「もう、両親を捜さなくていいのか?」
それでも、この話を終えることができなかった。
何でもいいから、俺は、自分の為に洋介の願いを叶えたかったのだ。
洋介はただ俺の顔をじっと見て、「最後の最後になったら、それさえもどうでも良くなったよ」と呟く。
相変わらず、俺の手を握ったままだったけれど、さっきとは違って脱力していた。本当は指先に込める力など残っていないのだと知っている。微かに震えているのは寒さのせいではない。
その手を元に戻す余力さえないのだろう。
骨と皮ばかりの五本指が痛々しい。
「それに、親は、生きてるから」
断定した物言いに目を瞠れば、苦笑した洋介が「多分」と苦笑する。
「自分がこうなったからこそよく分かるんだけどさ」
「ん?」
「……なぁ宗司」
「うん」
「生きるってことは多分、お前が思ってるより……いや、今、世界中の人間が考えてるより、ずっとずっと尊いよ」
「……うん」
「親がどうしてるかなんて、正直、もうどうでもいいんだ。……生きてるなら、それでいい」
くぼんだ目の周りには隈が浮いている。真っ黒なその目は、死の淵を覘いているのだろう。
声を上げて笑い合ったこともあった。そのときの洋介の目は太陽の光をいっぱいに取り込んで輝き、そして、その光はきっと死ぬまで失われないのだろうと信じていた。
「―――――それに、親は居なくても兄弟ならいるしな。そうだろ? 宗司」
長く話しすぎたのか、洋介の胸が変な音をたてている。ぜえぜえと、まるで全力疾走でもしたかのような呼吸が漏れた。
そして、ぶるりと肩を震わせたので、俺の手を掴んでいた細い腕を掛け布団の中に戻す。
立ち上がった俺の顔を見ていた洋介は、「お前は、母親みたいだな」とからかうように笑った。
その顔や口調が、子供の頃と全く同じだったから思わず声を上げて泣きそうになる。
一人にするな、と。
そう言葉にしてしまいそうだったから、ただ口を結んだ。
「……純一ってさ」
ふと下りた沈黙を払うように洋介が、ここには居ない幼馴染の名前を呼んだ。
「……ん?」
「一がつくからには長男なのかな」
どうでもいい話だとは思ったけれど、確かにそうだ。
次男や三男に「一」をつけることもあるだろうが、大抵は長男につけられる漢字だろう。
「もしくは、一人っ子なんじゃないか」
辿り着いた結論に、洋介はやっぱり楽しげに声を上げて笑った。
「何で笑うのかよく分からないけど……」
俺がそう言えば、
「だって俺たち、幼馴染なのに。今更、何を言ってるんだろ?って感じじゃないか?」
くすくすと喉の奥を鳴らす。
「純一の怒る顔が見えるよ、くくっ」
今日はよく、笑うな―――――。
そのことが無性に切ない。
「今日」という日を暗いものにしないように、あえてそうしているような気がしたのだ。
それはまるで、俺の記憶に「笑う洋介」を刻み付けようとしているような。
そういう作業をしているかのように、洋介は何度も何度も笑う。
「なぁ宗司。あの日の約束を覚えてるか」
当たり前だと言おうとして失敗する。情けない、うめき声のような息が漏れた。
耐えられない、無理だ、そんなことばかりが頭の中を支配する。
俺のそんな様子を見て、洋介はまた笑い、そして泣いた。
限界だな、と小さく嗚咽を漏らして。
「……っ悪いな、宗司」
「何? 何で、謝る?」
「……っ、」
「洋介、」
「お前に、全部……、全部、預けてもいいか……?」
はたはたと落ちた涙が、洋介の顔を流れていく。
自分も泣いていると気付いたのはそのときだった。苦しくて、どうしようもない。
何かを伝えるべきだと思うのに、うまく言葉にもできない。
何度も何度も肯くけれど、それで伝わっているかどうかも分からなかった。
「俺は……、先に行くよ」
だからお前は、約束を守れよと微笑する。
涙の跡が残る顔で、ゆっくりと目を閉じた。
「洋介?」
返事は無い。ただ静かな呼吸音が響くだけだ。本当は、かなり無理をしていたのだろう。
ふわりふわりと揺れるカーテンを眺めながら、しばらくそこに座っていた。
もう一度、洋介の目が覚めるかもしれないと思ったから。
だけど、その日もその後も目覚めることは一度もなく―――――。
たった二日後に、幼馴染は宣言通り、俺よりも先に逝ってしまった。
『約束を果たせよ』
その声がずっと耳に残っている。




