ペトリコール
特になにも起きないお話です。
土砂降りの雨は、花火大会当日の期待を跡形もなく打ち砕いた。
朝から降り続く雨はもともと猛威を振るった台風で、すでに温帯低気圧に変わっている。けどその雨風は、まだまだ荒らしたりないという気持ちが伝わるような勢いで窓を鳴らしている。
ベッドの上、休日に甘んじて起きてからもベッドの上でぐだぐだとしていたわたしは、ふとクローゼットに視線を向ける。クローゼットの前に掛けていたのは、先週友達と色を合わせて買ったばっかりの浴衣だ。
夏も中盤を過ぎてお買い得だったその浴衣は、紫の生地に綺麗な紫陽花があしらわれていて一目惚れしたものだった。お小遣い叩いて買ったけど、今年最後の花火大会で着ないとなると、もう今年は袖を通さないかもしれない。
Lineのグループチャットには花火大会中止の報告がすでに上がっていて、みんな残念そうな反応を見せている。わたしも同じく嘆きのメッセージをいくつか送って、のろのろと部屋を出た。
お母さんはもうパートに行ったみたいで、テーブルの上には朝ごはんがラップしてあった。
こんな雨でもお店が開くなら通勤しなきゃいけないのは大変だなぁと思いながら、ジャムを塗ったパンと冷えたままの目玉焼きを口に運ぶ。なんだかあまり味もしない気がした。
テレビは台風の爪痕を絶えず流していて、不要不急の外出はしないようにと雨風の中伝えていた。予定がぽっかりと空いてしまったわたしは、なにをするでもなくソファの上で寝転ぶしかない。
ソファから見える外は、雨が強くなったり弱くなったりと、よくわからない天気をしている。ウェザーアプリでは少しの間晴れて、また土砂降りになって、また晴れたり曇ったりするらしい。
いっそずっと降り続いてくれるんなら、絶対無理だーってなったのに、なんでちょっと晴れたりするんだよ。
朝でも昼でもない時間のワイドショーでは、新作のカフェメニューの特集をやっていた。近くの駅に入っているチェーン店でも新作ドリンクを出すみたいで、女性キャスターが美味しそうに飲んでいる。
「…………」
ふと考えてしまった計画。うん、きっと、できなくはない。お母さんにバレれば怒られることは必至だろうけど……悪いことと分かっててしてしまう好奇心に、耐えられそうにないことは頭の隅で気づいていた。
浴衣は本格的なものじゃなく、一人でも簡単に着られるタイプだ。
玄関の鏡には浴衣を着たわたしが映っている。うん、やっぱり可愛いし、ちょっと大人っぽい雰囲気もある。髪型もそんなに凝ってないのに、鏡に映ったわたしはどこか別のわたしみたいだった。
ドアから顔を覗かせ、周囲を見回す。雨は止み少し日差しがさしているほどだけど、アパートの廊下は静まり返っていた。
さっと家を出て鍵を掛ける。なるべく音を出さないように、静かにエレベータに乗り込んだ。お母さんの交友関係からご近所さんに見られるのも危ない。
一階に誰も人がいないことにほっとして、玄関から速足で立ち去る。やっぱり靴だけはスニーカーを履いてきてよかったと思った。アパートから一つ角を曲がって、わたしはやっと緊張の糸を解く。
駅までは普通に歩いて七、八分くらい。ウェザーアプリでは二十分後にまた雨が降るらしい。速足のまま駅の方向へ進む。
外は雨のせいでじっとりと湿っぽい。気温はそんなに高くないからまだマシかも。強い風と一緒に強い雨の匂いがした。
駅に近づくにつれ徐々に人が増えてくる。もちろん浴衣の人なんて見当たらなくて、なんだか鼓動が早くなってきた。
電車は大雨で運休しているけれど、駅にはほどほどの人がいる。花火大会も近くの神社のお祭りも中止になったから、それでも浴衣を着ているわたしにいくつかの視線が止まり、通り過ぎていった。
駅のホームに隣接しているカフェチェーン店は『OPEN』の札が掛けられていた。ここまで来てから閉まっている可能性があることに気づいてほっとした。
いつ来ても大抵席が埋まっているけど、今日は数人のお客さんしかしなかった。レジにいる店員さんは大きなあくびをしていて、わたしに気づいて一瞬の間の後に注文を取ってくれた。
「えっと、このマロンクリームアイスフラッペをお願いします」
「店内でご利用ですね? 680円になります」
ICカードで支払い、受取りを待とうとしたけど。
「お運びいたしますので、お席でお待ちください」
と声をかけられた。
いつも対面で受け取って自分で持っていくお店だったから少し驚きながらも窓際の席へ移動する。
……人少ないからかな?
ちょっとした特別感を感じながら待っていると、すぐにフラッペが運ばれてきた。
マロン味のフラッペの上に、たっぷりのクリームとアイス、小さなハート型のクッキーが散りばめられている。まさしく、朝テレビでキャスターが飲んでいたものだった。
見栄えがかなり可愛くて、何枚か写真を撮った。いつものようにSNSにアップするかちょっと迷ったけど、今回のお出かけは誰にも知られたくなかったからそのままスプーンを手に取る。
窓を雨粒が叩く。いつの間にか降り出していて、道行く人達が走ったり傘をひらいたりしている。
ガラス一枚区切られただけの、まるで別世界で、わたしは甘いクリームを口に含んだ。
「ありがとうございましたー」
雨が止むまでカフェにいたら、結構な時間過ごしてしまった。カフェ内の人は相変わらず少なくて、長くいても全然問題なさそうだったのもある。
外に出るとまた雨の匂いがして、ふと気になることが出来た。
立ち止まってその場で検索にかける。
「ふぅん、初めて知った」
なんにでも名前はあるんだな、と思いながらわたしは帰り道を急いだ。