狐の嫁入り(恋愛)
ぱらぱらと降ってきた雨に驚いて、思わずバスの停留所に避難した。
停留所の透明な屋根には、比較的大きめな雨粒がぽつぽつと音を鳴らし始めた。他に待っている人はいなくて、一時間に一度しか来ないバスは行ったばかりのようだ。
雲ひとつない青空からは、今もなぜか雨粒が降り続いている。雲のない空から雨が降るなんて、不思議なものだ。少し遠くには雲は見えるが、それにしてもここまで雨が届くなんて考えづらい。いったいこの雨はどこから来ているんだろう。
首が痛くなってきて、視線を前に戻す。どうせすぐ止むだろうと、申し訳なさそうにある小さなベンチに腰をかけると、もう一人停留所に駆け込んできた。
「あっ」
「……どうも」
鞄を頭の上にして入ってきた彼女には見覚えがあった。彼女も俺を見て小さな声を出したので、彼女も俺に気付いたらしい。といっても、俺は彼女の名前を知らない。きっと彼女も俺の名前を知らないはずだ。俺が週一で図書当番をしている際に、良く本を借りに来るのが彼女という、ただそれだけの関係だった。
俺が彼女に関して知っていることは、制服のリボンは緑で、一年生だと言うこと。恋愛小説を好んで借りていくこと、長編より短編小説の方が好きなこと……せいぜいそのくらいだ。
彼女は少しの間、俺を気にしていたようだけど、はっと気づいたように長めのスカートを手で払い、身だしなみを気にしだした。俺はなるべく気にしていないように見せるため、空を見上げる。雨はまだ上がらない。
「天気雨ですね」
まさか話しかけられるとは思わなくて、俺は辺りを見回した。彼女の他にはやっぱり俺しかいなくて、時々車が通るくらい。彼女に独り言を言う癖がなければ、間違いなく俺に話しかけているのだろう。図書室では何度も顔を合わせているけど、彼女が話すことは一度もなかった。俺が事務的に話しかけても、その返答は首を縦に振るか、横に振るかでしか返ってこなかったから、その声も初めて聞いた。
「……まだ止まなそうだね」
「隣、座ってもいいですか?」
「狭いけど、それでもいいなら」
小さなベンチは、二人横並びで座って少し余裕があるくらい、三人ではとても座れない大きさだ。スカート押さえて俺の隣に収まった彼女との距離は、鞄一つくらいの距離があるけれど、その距離は妙に落ち着かなく、俺は彼女との距離を測りかねていた。
「天気雨って、狐の嫁入りって呼ばれているの、知っています?」
「……いや、初めて聞いた」
「そうですか。先輩、図書委員なんで、てっきり物知りなのかと思っていました」
「図書委員はクジで負けただけ。それに、君みたいに本を読まないから物知りでもないよ」
足を揺らしながら、彼女の視線は空を見つめる。その物言いは、俺がなんとなくイメージしていた彼女の姿とは、だいぶ異なっていた。
「なんで狐の嫁入りって言うの?」
そんな疑問が俺の口から飛び出した。そう言ってから、そんな疑問を思い浮かべていなかったことに気付いた。その質問は独りでに音になったような……俺の思考とは別の場所から聞こえたような気もした。
彼女は俺がそう言うことを分かっていたように、話を続ける。
「いくつかの説がありますが、今回は私が一番好きな説をお話しますね」
そう言って、彼女は立ち上がった。肩まで伸ばした髪を揺らせて、こちらを振り返る。
「むかーしむかし、あるお狐さんは、お嫁さんをもらうことになりました。それは村で美人と評判のお狐さん! 村でも盛大にお祝いしなければと、各々準備に大忙し。結婚式では提灯を立てて、その間を練り歩く風習があったので、オレンジ色に光る提灯を沢山用意しました」
まるで演劇をしているかのように、くるくると表現をする彼女。その声は、俺の耳を魅了するかのように音を変える。
「だけど大変! こんなに提灯を目立たせてしまっては、人に見つかっちゃう! 人に見つかってしまえば、大事な結婚式も台無しになっちゃう! どうしようどうしよう! というところで、一匹のお狐さんは言いました。じゃあ神様にお願いして、自分達の周りだけ大雨を降らせれば人から見えなくなるんじゃない? ……それだ!」
びしっ、と俺に指を差す。びくっと小さく反応してしまう俺に、彼女はクスリと笑った。
「そんなわけで、空はまっさら青いのに、お狐様のいるところだけ雨が降る。そんな空模様を、狐の嫁入りって言うようになったのです。あっ、ちょうど雨止みましたね」
彼女が見上げるのに習って、俺も空を見上げる。透明な屋根に残った雨粒はゆっくりと地面に流れ落ちる。
「では、先輩。また明日、図書室で」
にっこりと笑って走り去って行く彼女の後ろ姿を、俺はぽかんとした表情で見送ることしかできなかった。停留場の外へ出る。空は青いままで、だけどアスファルトに染み込んだ雨の匂いが充満していた。そんな匂いも少し時間が過ぎただけできれいさっぱり無くなって、天気雨が振っていたことなんてすぐにわからなくなるだろう。
明日、彼女が本を返しに来る時のことを思い描く。先程彼女に会う前であれば、空想の中の彼女は黙って本を持ってきて、お互い視線を合わすことなく本を受け取るだけだった。だけど今となっては、彼女はどんな表情で本を返しに来るのか全く予想が付かなくなっていて、俺はまるで狐につままれたような気分で、そして彼女の笑顔が頭から離れないまま、帰路に着くことになった。
ちなみに『狐の嫁入り』の設定は本当とは少し違っています。




