白塔の先
あの日のことは今でも思い出す。
「見たか? 見たよな?」
「見た見た、塔の話だよね!」
「そうそうあの塔だよ! スッゲーよな」
それは太平洋の真ん中、どこの国でもない場所に出来た真っ白な塔の話だった。昨日まではただの海だったはずの場所に、小さな陸地と一本の塔が一夜にして現れた。その時は中学生だったけど、中学生じゃなくても世界中の人がその塔に注目していただろう。
「その塔、宇宙まで伸びてるんだってよ! テレビで言ってた!」
「宇宙ステーションからも見えるかな、てっぺんってどうなってるんだろ」
「中ってどうなってると思う? きっと財宝とかあるぜ!」
その日、クラスの誰もが塔の話をしていた。先生がきても話題はつきなくてなかなか静かにならなくて怒られた記憶がある。
家に帰ってもニュースは塔の映像が流れていて、その塔は天を衝くようにひたすら空高く伸びていた。さすがに自分が住んでいるところからは見えなかったけど、その塔はまるで世界がまるまる変わってしまったかのように当時の俺には思えたんだ。
★ ★ ★
「おーい、皿足りねぇぞっ!」
「うっす、今用意します!」
洗面台に山積みにされた食器を上からスポンジで洗っていく。表面の汚れを簡単に流して、あとは業務用の食器洗い機に適当に入れれば乾燥までやってくれる。
金曜日の夜、バイト先である居酒屋のキッチンはまさに戦場だった。
汚れた皿は際限なく積みあがるし、コンロの熱気が肌を焼く。注文の書かれた紙はまるでカーテンのように風になびいていた。
「デザート追加ー、啓介君ゴメンけどこれだけ先に出してくれない? そしたら席空きそうだから」
ホール担当の紗理奈先輩が伝票を直接持ってきた。アイスクリームは器に適当に盛ればいいからすぐに出来る。まだまだ予約客は来るから、席を開けるのは急務だ。
「先輩、持って行ってください」
ちょっと雑に、だが多めに盛ったアイスクリームを4つ出す。
「ありがとー! 啓介君!」
手際よくトレイにアイスクリームを並べ、笑顔のまま紗理奈先輩が持っていく。ポニーテールが後ろで揺れていて、それをつい目で追いかける。
「手止めるなよー」
「……止まってません」
手元の皿をガシャガシャと洗う。声をかけてきたのは皿を取りに来たキッチンの哲也さんだった。
「紗理奈ちゃんいいよなぁ、可愛いしいつも笑顔で元気そうで……俺もあと20年若かったらな」
「いや哲也さん結婚してるでしょ」
「それでも良いものは良いと言える俺でありたい。結婚してなくて俺よりも20歳くらい若い男ならチャンスあるかもしれないのになー」
「……さっさと仕事に戻ってください」
紗理奈先輩と一緒にバイトをして一年、俺が紗理奈先輩に気があるというのはキッチン内で周知の事実となっていた。
一年経っても、俺は紗理奈先輩を目で追いかけるだけで、紗理奈先輩とは特別なことはなにもない。
いつまでも勇気が出ないまま、一度もどこかへ誘ったりできていない。
「紗理奈ちゃんももう三年なんだから、早く行動しないとバイト辞めちまうぞー」
先輩のからかうようなその言葉に、俺はぐうの音も出なかった。
★ ★ ★
夜12時を超えて、バイト先を出る。
外は涼しい風が吹いていて、店の中にいるよりずっと過ごしやすい。
「おつかれー」
自転車に乗った紗理奈先輩が通りかかる、前聞いた話だと家はここから5分もかからないみたいで、自転車で通っている。
「お疲れ様です、今日もきつかったですねー」
「金曜の夜だしねー。まぁ私は明日も明後日もあるんだけど……」
「頑張りますね」
「稼いでなんぼだからね、大学の単位も全部目途ついたしフルで働けるんだ」
「えっ、早くないですか? 先輩まだ三年でしたよね」
「うちの大学、必修以外の選択授業は取り放題だから、一年と二年で授業パンパンにして全部取ったんだー。だからあとはほとんど必修だけで、後期からはなんと週2でいいの」
「えぇー、羨ましい」
「うちの大学いろいろとゆるいのもあるんだけど、啓介君の大学じゃ厳しいかな? まぁ真面目に頑張りたまえよ。じゃあ気を付けて帰るんだぞー」
「先輩もお気を付けて」
自転車に乗った、先輩の後ろ姿を見届ける。
……もし先輩の家がもう少し遠かったら、送ってあげたりできたかな。と思いながら、自転車で先輩とは反対方向に走り出した。
大きな橋に通りかかり、ふと空を見上げる。ちょうど満月みたいで、月は煌々と空で輝いていた。そしてその隣には一本の線が夜空に突き刺さるように存在している。それはすでに、俺の中で見慣れた光景となっていた。
塔は一本だけではなく、年々数を増やしていた。
塔が発生するのは海上のみで、何年か前には日本の近く、東京から南に少し行ったところにも出現した。
塔はどれも同じく真っ白で、正面には絵の具で真っ黒に塗りつぶしたような入口がある。入口の両脇には天使のような像があり、複雑な模様で彫刻が刻まれている。
入口からその先は見えない、ひたすら真っ黒にしか見えない。もちろんその入口から入ることはできるが、その中がどうなっているかは今でも不明だった。
日本の近くにも塔が発生して間もなく、調査のために入った自衛隊全員が今も消息不明。ドローンにカメラを繋いで中へ侵入させても、入口に入った瞬間に接続が切れてしまう。
その他いくつかの仮説にてなんとか塔の中を見ようと実験を行ったが、そのどれもが失敗した。
やがて政府は諦めたのか塔を封鎖するよう入口に壁を作ろうとしたが、作られた仮の壁は完成した次の日には跡形もなく消えていた。塔の周りの海を壁で囲う作戦も考えられたが、やはり壁が完成し、塔を封鎖した次の日には全てが消えていた。それは人々が知っている知識では解明できない、超常的な現象だった。
発生当初は何か起こるかわからないため警戒されていたが、その塔がそこにあり続けるだけの日々が続くと、監視の目もだんだんと少なくなり、数年経った今では巡回の船が通るくらいになった。
それでも、塔のことを人々が忘れたりはしない。
空を断ち切るように伸びた塔、それは空を見上げれば大抵見ることが出来る。どんなに遠くても、その高さは塔がそこにあることを否応なく突きつける。
塔が初めて現れた時、俺は中学生で、世界のなにもかもが変わる気がしていた。
実際、俺自身に劇的な変化うや影響はない。ないけど、日常の中の一つが変わったのは間違いないことだった。
★ ★ ★
とある日、バイトに行く途中。
バイトめんどくさいなーと思いながら重たい足取りでペダルを漕いでいると、後ろから何やら騒いでいる音が聞こえた。
「あっ、ちょうどいいところに!」
「紗理奈先輩? どうしたんすか」
「よしっ! いけー! 全速力!」
走ってきた紗理奈先輩は俺の自転車のフレームに飛び乗った。ぎりぎりで倒れなかった俺は、肩に乗った先輩の手を感じながら言う通りに足に力を入れる。
「先輩なんかあった――
「おんどりゃあ! 待てそこの娘ー!」
「あっ、ほらっ早く早く!」
さらに後ろから野太い声が聞こえて、なんだこれと思いながらも尋常ではない出来事な気がして、今度は気合を入れてペダルを踏む。後ろからの怒号を見ないようにして、狭い住宅街m先輩を後ろに乗せて滑走する。信号機に引っかからないように路地を進み、車では通れないような細い道や、大きな道路をいくつか超える。
乗っていたママチャリには明らかに重量オーバーだけど、後ろから声が聞こえなくなっても、俺は紗理奈先輩の指示するままに必至にペダルを漕ぎ続けた。途中からはなんか笑えてきて、紗理奈先輩と二人で笑いながら道を進んだ。
長い道路を進むと、やがて海が見えた。海と言ってもバイト先から5キロ程度のところにある小さな海岸で、整備されていない砂浜が広がっている。
先輩がやっと自転車から降りて、海岸へ下っていく。俺も爆発しそうな心臓を整えながら、自転車から降りた。
どうしてこんなことになったんだと思いながらも、少し先を進む紗理奈先輩を見ると、その姿はいつもと違っていた。
いつものポニーテールは、適当に縛っただけという感じだし、着ている服も部屋着っぽい。まるで慌てて家から逃げ出してきたような――
「ねぇ見て、塔がよく見えるね」
紗理奈先輩に声を掛けられて、海を見る。
さえぎる物のない景色の中に、一本の線が垂直に伸びる。それはいくら首を曲げても先なんて見えなくて、空を真っ二つにしたかのような光景だった。
落ちていた大きな流木の上に紗理奈先輩が座る。俺も自転車から手を放して隣に座った。
徐々に陽が落ちていく。あと一時間もすれば夜が来る。
しばらく二人で海を見ていた。脳に不足した酸素が満ちてくるといろいろな考えが浮かんでくる。
いつもなら緊張して話せないことも多いけど、いつもと異なる状況に自然と声が出た。
「……あれってもしかして借金取りとかです?」
「あー、まぁそんなとこ」
「ここまで連れてこられたお代として、紗理奈先輩のこともう少し聞いてもいいですか?」
俺から一歩踏み込む。この勢いのまま踏み込まないと永遠に聞けない気がした。
「助けてもらっちゃったし、少しだけね。誰にも話すつもりなかったんだけど……うちね借金が二億あって」
「二億……ですか」
「その借金お父さんが作ってきたんだけど、そのお父さんも逃げちゃってさ。でも借金取りは毎日のようにうちに来て大声で怒鳴るわけ、それが嫌で一度私が貯めてたお金を渡して、どうやらあっちは私に払わせることにしたみたいなの」
「二億は大きすぎるんじゃ」
「うん、無理だった。バイト増やして、朝も夜もひたすら働いてお金稼いだけど、私の稼ぐお金って、利息分にしかならないみたいでさ。ぜんぜん減らないんだ、借金」
「それ普通の借金じゃないですよね。警察行ったり、どこかに相談したりできませんか?」
「んー、もしかしたら助けてくれるかもしれないけど、お父さんがお金借りたのは事実だし。あとちょっと事情があって……私が返すしかないかなって。ずっとそう思って働いてたんだけど、さすがにちょっと疲れちゃったな」
いつも笑顔なその顔は、感情がストンと抜き落ちたようにただ夕日を見つめるだけだった。
俺に何ができますか、そう声をかけてあげたかったけど、先輩のその横顔はそんなこと望んでいないように思えた。
今日だってたまたま出会ったのが俺だっただけで、きっと先輩は知っている人であったら誰でも助けを求めていただろう。
先輩と俺はただのバイト仲間で、それ以上でもそれ以下でもなかった。
「あの塔、中はどうなってると思う?」
先輩が指を指す先には、真っ白い塔がある。
「中に入ったら出口がなくなって、一番上に着くまで抜けられないとかはどうでしょう?」
「うーん、あるかも。さすがに宇宙までの距離を階段で上るのは無理かな」
「先輩はどう思います?」
「私はさ、中に入ったら違う世界が広がってて、そこではみんな最初は同じ条件で、努力をすればその分上に上ることができて、一層毎に生活がちょっとずつ良くなってくとか考えてたよ。それか剣と魔法のファンタジー」
「もうそういう作品ありませんでしたっけ?」
先輩と笑いあう。それからは先ほどの会話がなかったかのように、他愛のない話を続けた。好きなもの、嫌いなもの、先輩の学校での様子、バイト先での嫌いなスタッフ、美味しいまかないなど、本当に思いついたことを話した。
しばらく話して、太陽もすっかり沈み辺りが暗くなる。いつの間にか会話はなくなっていて、心地よい波の音だけが響いていた。
「そろそろ帰ろっか」
「帰れるんですか?」
「友達の家に泊めてもらうよ。貸しがある子がいるから大丈夫だと思う。啓介君もごめんね。そういえばバイトだったんじゃないの?」
「いや、いいんです。紗理奈先輩が一大事だったんで」
「ありがと」
立ち上がった先輩はいつもの笑顔でそう言ってくれた。でも俺にはその身も、きっと心も、ぼろぼろに見えた。
それから、紗理奈先輩はバイト先に来なくなった。
心配になったバイトの店長が家を訪ねてみたが、もぬけの殻だったらしい。少し騒ぎになったが、一ヵ月、二ヵ月と時が過ぎるにつれ、紗理奈先輩がいない日常が普通になっていった。
バイト先に自転車で向かう途中、空の向こうには塔が見える。
なんとなく、紗理奈先輩は塔へ向かったんじゃないかと思う。塔の中は紗理奈先輩の想像の通りの世界で、元気に笑って剣や魔法を振り回して、時々こっちのことを思い出して、でも時間が経つにつれて思い出さなくなって。
そんな紗理奈先輩を想像する。
今は想像できないけど、いつか、いつか俺も塔の中に入るときが来るかもしれない。その時こそ、紗理奈先輩に俺の気持ちを伝えよう。そう思いながら、自転車のペダルを漕ぎ続けた。