蛇口
成長なんて言葉は大嫌いだ。
生きるということは、今目の前にある瞬間を思う存分楽しむためにある。それなのに中学校では今後のためと叱責されたり、不快な注意をされたりする。昔だったら殴られたりもしたという。人を不快にさせてする成長ってもんは本当に価値があるのか。
今楽しまないで一体いつ楽しむのだ。
だから私は「成長しないクラブ」なるものを立ち上げた。
誰も参加者が来なくても気にしない、ただの自己満クラブだ。それでもしっかりとした活動をする。
まずは週に一冊、カバンの中にある教科書を捨てること。勉強は成長することを目的とする諸悪の根源である。カバンも軽くなるので一石二鳥だ。
今週、私が捨てるのは数学の教科書だ。ポーンと教室の奥にあるゴミ箱に投げ捨てる。教科書がゴミ箱に投げ入れられ、グイングインとゴミ箱が唸り声を上げる。それを聞いて私は大声で笑う。
きっと今を楽しめている。
次に来週の予定を見て、ずる休みする日を決める。
私は体育が嫌なので、体育が二コマある火曜日に休みを取ることに決めた。社会人でいう有給休暇みたいなものである。授業というものは成長を目的としているので、できるだけ参加しないほうが良い。これでますます成長しなくて済む。
残りの時間は近くの川辺でぼーっとする。成長する隙を自分に与えない。周りには川辺でぼーとしているだけの人にしか見えないが気にしない。昨日も今日も明日も、私は私だ。
こうして一ヶ月が過ぎた。
五教科目の教科書が捨てられようとしている時に、不意に扉が開いた。
「このクラブに入りたいです」
入りたい奴がいたということにびっくりしたのと、入ってきた奴がいわゆる「真面目で、できる子」の代表みたいな人物だったことに二度びっくりした。彼女は背が低く、眼鏡をかけていてショートカットの小柄な子であった。私と似ているところは眼鏡をかけていることくらいだ。
「あなたに教科書を捨てたり、学校をずる休みすることができるの?」
率直に聞く。きっとできない。彼女には捨てられない。
しばらく沈黙が続いた。
「私は、変わりたい。自分を変えるために勇気を振り絞ってここに来ました。なんでもします。クラブに入れてください」
「絶対に成長しない?」
「はい!」
こうして初の部員が入った。
「あなた、名前は?」
「太田陽菜と言います」
どこかで聞いたことのある名前だった。芸能人でそんな名前の人いたっけ。まあいいけど。
「ひなちゃんね。私は黒縁美咲、みさきって呼んで。よろしくね」
「美咲さん、でいいですか?」
「うん、いいよ。ずっと美咲さんって呼んでね」
「どうしてですか?」
「呼び名が変わるのって成長した感が出るからね。それだけよ」
「ああ、なるほどです!」
「じゃあ、手始めに教科書捨ててみる?」
「は、はいぃ」
英語の教科書を取る陽菜の指先は震えていた。
「本当にいいの?」
「も、もちろんです!」
その割には腰が引けているように見える。
「無理にしなくてもいいよ」
「私は変わりたいんです! 成長しないって決めたんです。だから英語の教科書も捨てられます! えい!」
陽菜の英語の教科書は勢い余って窓の外へ放り出された。そしてランニングをしていたサッカー部員に当たった。
「あー知らんぷりしよ」
「でも美咲さん……」
「あれくらいで怪我なんてしないよ」
「違うんです。教科書には私の名前が書いてあるんです」
それはまずいな。
次の日、サッカー部の服装をした男子が、陽菜の英語の教科書を私のクラブまで持ってきた。その男子は私よりも背が高く、短髪で手足が長く、目はクルリと丸く、爽やかな印象があった。
「おい、昨日この教室からこれ飛んできたぞ」
「す、すいません」
私が出て、爽やかボーイは驚いていた。
「いつも川のとこでぼーとしている子か。いつもあそこで何してるの?」
「何もしてないですよ」
「ここは、ぼーとする会?」
「違います。成長しないクラブ、です」
「そんなクラブあったっけ?」
「先月、私が立ち上げたのです」
「ふーん」
「なんと思われようと構いません」
「いや、そうじゃなくて」
「そうじゃなくて何?」
「俺も入ろっかなーっと」
「え? サッカー部はどうするの?」
「やめる」
うちのサッカー部って毎年全国出てるんじゃなかったっけ? まあ興味ないけど。
そこに陽菜がやってきた。
「あ、私の英語の教科書」
爽やかボーイはさっと陽菜に英語の教科書を渡した。すかさず陽菜はゴミ箱にそれをダンクシュートする。爽やかボーイは驚きの声を上げる。
「すげえええ」
「見事な捨てっぷり」
陽菜はとてもご満悦そうだった。
「あなたもやってみて」
爽やかボーイにも教科書を捨てることを勧めてみる。
「俺は木葉颯太。そうたって呼んでけろ。そして教科書は余裕で全部捨ててる」
強者が新規入部したもんだ。
「じゃあふたりには次なるステップを。来週ずる休みする日を決めて」
「えっ、いえ大丈夫です」
「んん? んー、もちいけるぜ!」
真面目な陽菜が動揺するのはよく分かる。しかし颯太まで動揺するのはよく分からない。
「私は体育が二コマある火曜日を休みます。陽菜ちゃんは?」
「じゃあ私も火曜日休んでみます」
「はい、じゃあ颯太くんは?」
颯太は頭を抱える。
「颯太くんくらいのレベルならずっと休んでも大丈夫じゃないの?」
「ふざけるなよ。俺だって事情ってもんがあるんだ」
教科書も持ってないのに授業に出てどうするのだろうか。
「成長したくなったらいつだってやめていっていいよ」
「ちげーよ」
「じゃあ何?」
「今の席順がサイコーなんだ」
「どゆこと?」
「右隣にクラス一可愛いさくらちゃんがいて、左隣に……」
「はいはい」
「だから授業中は女の子とおしゃべりしてて楽しいんだ」
「そうね、あなたの場合、女の子と喋れなくなる選択肢を選ぶ方が自己成長と言えるから休まなくていいよ」
「やったね!」
こうして今日も私たちは成長しなかった。
基本的に川辺でぼーとしているクラブなので、私たち三人は川の流れが音色を響かせているのを聞きながら佇んでいた。
クラブの発足から三ヶ月が経ち、次第に成長しない成果が出始めた。まずは成績がガクンと落ちた。私はもともと頭が悪い方だったのであまり変わりなかったが、陽菜はかなり下がったようで呼び出しを食らっていた。颯太は颯太でサッカー部をやめたことで呼び出されていたようだが、表情はスッキリしていた。
私たち三人に共通する成果は、表情だ。皆、スッキリと憑き物が落ちたような顔つきになった。今を楽しめている証拠だ。
人生に成長なんて必要ない。人は生まれついた時から生き方、楽しみ方を知っている。それを良しとしない人間が邪魔をしない限り、私たちは自由でいられる。
捨てる教科書もなくなってきた今日この頃、それに変わる新しい活動が必要になってきた。
「もう捨てるもんなんてねえしな。なんたって人生捨ててるからなー」と颯太は天を仰ぐ。
「あのね、ここは人生を捨てに来るところじゃないの。今までの人生を見つめ直して、成長なんていうばからしいことをやめて今を楽しもうとするところなの」
「まあ、なんだっていいよ。成長しなくていいと思うだけで気持ち安らぐからさ。今までサッカーの上達だけしか見られてなかった俺の人生が百八十度変わったからさ」
「レギュラーだったの?」
「……一応」
「ふーん」
それ以上は聞くな、と言われているようで聞けなかった。今まで静かに聞き役をしていた陽菜が気を利かせて口を開く。
「私も成長しなくていいと思うだけで、学校の勉強なんてバカらしくなってやめました。今は前から興味があった環境問題の勉強を個人でしています」
陽菜はもともと勉強家だから、勉強していても成長したとは言えない。みんないい方向へ進んでいる。私も今まで生きてきた中で今が一番楽しい。
不意に教室の扉が開いた。教育指導の鬼瓦先生が顔を覗かせた。
「ちょっといいか」
ついに私のクラブにもメスが入るか。それだけ影響力があるってことで納得しておこう。
「いいですよ」私は堂々と聞くことにした。何も悪いことはしていない。
「こんなクラブはお前ひとりでやってくれ。頼むからふたりを、太田陽菜と木葉颯太を返してくれ」
言い方が気になったが、別に誘拐したわけじゃないので正々堂々と返事をする。
「本人の希望で活動してるんです。別に拉致したわけじゃないですよ」
陽菜と颯太は別に何とも思っていないようだった。
「どうしてお前たちはこうなったんだ!」
「成長しないって最高じゃん」颯太は笑う。
「成長しないって決めたら楽になれたんです」陽菜は真面目な顔で視線を鬼瓦の方へ送る。
「ふたりがこう言ってるんでもういいですか?」
鬼瓦は引き下がらない。
「太田陽菜。お前は全国統一模試で常に十位以内に入り続けていたではないか。それが今は平均より下だぞ。せっかくの将来が台無しだぞ。木葉颯太。お前はエースストライカーとしてのキャリアをなぜ捨てる? 前回の全国大会は得点王だったんだぞ! 推薦だってたくさん来てる。なのにそれら全て蹴って、これから将来どうするんだ!」
一番びっくりしたのは間違いなく私だ。こんなにも優秀な人材が私の色にどっぷり染まって人生を大きく変えている。その事実に驚愕している。
「一度ひねった蛇口も、ちゃんと閉めれば元通りだ。こんなインチキ教祖みたいな女の言うことに騙されるな」
鬼瓦は捨て台詞を吐き捨てて帰って行った。ご満悦そうな陽菜と、薄ら笑いを浮かべる颯太を見て私は思う。ひねった蛇口から勢いよく水が出ると、タガが外れてもう元通りにはならないと。
恒例の川辺での佇みのとき、私たちはこのままどこへ流れていくのだろうと考える。私は何者になって、陽菜と颯太は何者になるのだろう。成長しないって決めたことで、新たに見えた世界がある。繋がった人もいる。
尖った石を探しだす。
成長しない人生も悪くないと、私は目の前の流れに向かって石を投げた。




