「弁明はいたしません」――婚約破棄された公爵令嬢は、王都中の断罪を握り潰してきた〝夜会のお医者様〟でした ~私は何もしません。ただ、治療をやめるだけです~
「セレスティア・ロウ。君との婚約を破棄する」
王宮の夜会で、王太子エルディオ殿下は高らかに宣告した。
(あら。予定より早うございますね)
罪状は、ふたつ。
男爵令嬢リタ様を階段から突き落とした容疑と、その毒殺を企てた容疑だそうだ。
(どちらも身に覚えがない上に、手口が雑ですわ。私なら証拠の残るやり方は選びません)
もちろん内心である。
「わたくし、ずっと怖かったのです……」
殿下の腕の中で、リタ様が声を湿らせた。
見事な湿らせ方だった。
「階段の上で、確かに押されたのだな」
「押された、と思います。……でも、セレスティア様を悪く言いたくは、ないのです」
庇う形で刺す。
教本どおりの手口だった。
(この教本、そろそろ改訂した方がよろしいですわ。診てきた断罪の半分がこれです)
「セレスティア。申し開きがあるなら聞こう」
「弁明は、いたしません」
広間がざわめいた。
「証拠もあるのだぞ。君の部屋から、毒の瓶が出た」
「さようでございますか」
「反論は」
「いたしません。ただ、私の部屋にその瓶を置けた方々の名簿でしたら、頭の中にございます」
「……ならば申せ」
「ご依頼でしたら、お受けいたします。お代は前払いです」
広間が、今度は別の色でざわめいた。
「ふざけているのか。罪を認めるのだな」
「いいえ、殿下。診察を、お断りするだけです」
「……何の話だ」
「こちらの話でございます。本日限りで、王都を発ちますので」
囁きの中に、値踏みの声が混ざり始めていた。
「ロウ家も終わりだな」
「次の婚約者の座は、どこへ」
夜会というのは、断罪の場ではなく市場だ。
私はそれを、仕事で嫌というほど見てきた。
広間の隅で、父が目を伏せるのが見えた。
私は扇を閉じ、ドレスの裾を払って一礼した。
背中に浴びた囁きの数は、数えないことにした。
――その夜を最後に、王都から〝夜会のお医者様〟が消えたことを、まだ誰も知らない。
◆
ロウ公爵家の長女、セレスティア。
表の顔は、王太子の婚約者。
裏の顔は、社交界の一部にだけ知られた相談屋だった。
通り名は〝夜会のお医者様〟。
扱う病は、醜聞と断罪。
「断罪は病気です。かかる前に治すもの」
依頼人には、まずそう説明する。
婚約破棄も毒殺疑惑も、当日いきなり降っては来ない。
夜会のずっと前から、咳のような兆候が出る。
怪しい茶会の招待状。
急に増える借金の噂。
覚えのない贈り物。
私はそれを診て、火種のうちに握り潰す。
依頼人は皆、顔を隠して来る。
医者に掛かるところを見られたくないのは、体の病も夜会の病も同じだ。
たとえば、先だっての依頼がそうだった。
サロンの奥の個室で、扇で顔を隠した夫人と向き合った。
「娘の婚約が、狙われている気がするのです」
「兆候は」
「覚えのない贈り物が届きました。銀の腕輪です」
「差出人は」
「書いてありません。けれど娘は、殿方からの贈り物だと浮かれてしまって」
「拝見します」
腕輪の内側に、小さな紋が彫られていた。
娘の婚約者の、従姉の家の紋だった。
筋書きは読める。
夜会で娘がこれを着ける。
持ち主が「盗まれた」と騒ぐ。
あとは婚約者の前で袖を検めれば、断罪の出来上がり。
「処方箋を差し上げます」
「治るのでしょうか」
「軽症です。まず、この腕輪を磨きに出してください。それも、従姉様のお家が贔屓にしている銀細工店へ」
「……それだけで?」
「職人は仕事柄、紋を確かめます。預かり札に、持ち主の家名が載ります」
「まあ」
「その札を添えて、丁重にお返しなさいませ。『お落としになった品と存じます』と一筆付けて」
盗品の筋書きは、返却の礼状ひとつで灰になる。
仕掛けた側は、贈った覚えも落とした覚えも口にできない。
口にすれば、仕込みを白状することになるので。
「お代は」
「前払いで頂いております」
夫人は革の包みを置き、深々と頭を下げて帰った。
半月後、娘御の婚約は無事に整ったと聞いた。
断罪は、燃え広がる前なら礼状で消せる。
広がってからでは、水でも消えない。
こういう火消しを、王都のあちこちでやってきた。
西のバルテ侯爵家では、令嬢の偽の恋文が断罪の証拠にされかけた。
文面は情熱的で、筆跡は令嬢のものとよく似ていた。
似すぎていた。
人は自分の字を書くとき、あそこまで丁寧には書かない。
私は王都の代筆屋を端から回った。
四軒目で、同じ癖の「の」の字を見つけた。
「この字をお書きになったのは」
「お客の詮索はしない主義でして」
「結構な主義です。では詮索の要らないお話を。偽筆の代金の相場と、偽筆で家がひとつ潰れたときの首の相場と、どちらが高いとお思いです」
「…………」
「依頼主のお名前は、聞かずにおきます。次のご依頼を、断ってくださるのなら」
恋文は、それきり増えなかった。
増えない証拠は、証拠にならない。
東のコンラート伯爵家では、跡取りが決闘騒ぎを起こしかけた。
火元は賭け札と、酒と、若さだった。
私は立会人を先に押さえ、日取りを永遠に「調整中」にした。
若さの熱は、日取りが延びるだけで下がる。
南のフェルン子爵家では、当主の急死に毒殺の噂が立った。
私は死因を洗い直し、噂の火元だった賭博場をまとめて畳ませた。
醜聞の火元は、金か、嫉妬か、退屈のどれかだ。
いちばん厄介なのは、退屈である。
報酬は前払い。
診察は、依頼があってから。
治せなければ、全額お返しする。
これまで、返した例はない。
前払いにするのは、治った患者が医者を忘れるからだ。
それから、忘れてもらった方が、こちらの都合もいいからだ。
三年前、私は王太子の婚約者になった。
同じ年に、この裏稼業を始めた。
きっかけは単純で、婚約者の周りに火種が多すぎたせいだ。
最初の火は、婚約披露の夜会だった。
控えの間で、給仕に化けた男が筆記帳を隠し持っているのを見つけた。
「お勤めは」
「……給仕でございます」
「では、この葡萄酒を陛下の卓へ。裏口から出たいのでしたら、その帳面を置いてからに」
男は帳面を置いて、裏口から消えた。
醜聞売りだった。
帳面には、招待客の弱みが人数分並んでいた。
私はそれを一晩で読み、燃やした。
燃やす前にすべて覚えたことは、誰にも話していない。
以来、やめ時を失った。
殿下の側近ダリオ様の実家は、借金で派閥ごと沈みかけていた。
私は匿名で債権を買い上げ、返済を十年の年賦に組み直した。
殿下は「ダリオの家が持ち直した」と無邪気に喜んでいた。
王家御用達のラング商会は、跡取り争いで割れかけていた。
私が畳んだ。
以来、公爵家と王宮に卸される品は、どれも相場よりずっと安い。
父は自分の交渉の腕だと信じている。
王家主催の夜会の招待名簿は、発送の前に私が毎回検めていた。
招いてはならない客を、静かに省くために。
省いた名を、誰かに惜しまれたことはない。
招かれなかった醜聞は、起きなかった醜聞として、誰にも数えられないからだ。
南方交易の出資話が王都で流行ったときは、少し骨が折れた。
あれは絵に描いた詐欺だった。
「セレスティア、南方の話を聞いたか。船一隻で、出した金が倍になるそうだ」
「まあ。では占い師に、日取りを見て頂きましょう」
「占い?」
「大金の動く日は、縁起が命ですもの。……あら。今年の南は、星回りが最悪ですって」
「……そ、そうか」
殿下は占いに弱い。
弱みというものは、使うためではなく、守るために覚えておくものだ。
誘い文句が上手いので、こういう手で、殿下にも父にも何度も断らせた。
礼を言われたことは、一度もない。
当然だ。
誰も、私がやったと知らないので。
いえ、正しくは、ひとりだけ怪しい方がいた。
いつかの夜会で、王太后様に扇の陰から囁かれたことがある。
「近ごろ、王都の風邪が流行らないね」
聞こえないふりをした。
それから、値切らなかった依頼人も、後にも先にもひとりだけ。
北の辺境伯、ヴェイン様。
ご依頼は、国境の砦に絡む横領の噂だった。
「砦の兵を、お疑いで」
「疑いたくないから、あなたを呼んだ」
「では、疑わずに済む紙を差し上げます」
診てみれば、火元は砦ではなく王都の商人で、帳面の写しを一枚押さえたら終わった。
「これで終わりか」
「軽症でしたので」
「請求を」
「こちらに」
あの方は請求書を隅まで検めて、値切らず、額面どおり払った。
「正当な仕事を値切る趣味は、持ち合わせていない」
「珍しい患者様です」
「北は、醜聞が少ないのでな」
「羨ましいことです」
「雪かきで忙しい。人を陥れる暇があるなら、皆、屋根の雪を下ろす」
「良い土地ですね」
「いつでも、診察に来るといい」
支払いを済ませて、扉口で振り返った。
「あなたの請求書は、仕事より正直だ」
帰り際に残したのは、それだけだった。
いえ、もうひとつ。
「次に会うときは、あなた自身の依頼を聞きたい」
「あいにく私は、病気になりませんので」
「なら、なおいい」
変な方だと思った。
私の名簿には、王都の名家がひと通り載っている。
載っていない家が、ふたつだけある。
ロウ公爵家と、王家。
身内は、診察の依頼をくれないので。
婚約者の周りの火消しは、診察ではない。
婚約者の、務めの内だ。
――そして務めは、婚約と一緒に終わる。
◆
断罪の翌朝、父に呼ばれた。
「出ていけ」
「はい」
「王家に逆らうことは許さん」
「いたしません」
「おまえには失望した」
「はい」
「二度とロウの名を名乗るな」
「かしこまりました」
「言い残すことはあるか」
「台所の払いが、来月から上がります」
「……何の話だ」
「来月になれば、お分かりになります」
父は鼻を鳴らした。
最後まで、罪状が真実かどうかは訊かれなかった。
母は扉の陰から出てこなかった。
廊下の途中で、一度だけ振り返った。
扉の陰から、指先だけが見えた。
何かを言いかけて、引っ込んだ。
それでいい。
玄関で、侍女のマーサが旅行鞄を提げて立っていた。
「あなたの分の鞄が大きくありませんか」
「私の荷物も入っておりますので」
「給金は出せませんよ」
「存じております」
「まかないは出ます」
「では参ります」
「……マーサ。あなた、いつから知っていたのです」
「お手紙の宛先を、毎日拝見しておりましたので」
「口止め料は、お支払いしていませんが」
「お給金のうちかと存じます」
こういう忠義の形もある。
乗合馬車は北へ向かう。
車輪の音の合間に、マーサが問うた。
「行き先が北なのは、なぜです」
「醜聞の少ない土地だと、聞いたので」
半分は本当で、残りの半分は、馬車の中では考えない。
「お嬢様。あの夜会は、防げたのではありませんか」
「ええ」
「なぜ、防がなかったのです」
「患者が、治療を望みませんでしたので」
「患者とは、どなたです」
「私です」
「……その患者様は、治ったのですか」
「さあ。ただ、熱は下がりました」
マーサはそれきり、しばらく窓の外を見ていた。
王都の門を抜けるとき、もう一度だけ訊かれた。
「悔しくは、ないのですか」
「悔しいというより、心配ですね」
「お嬢様が、ですか」
「いいえ」
私は遠ざかる街壁を眺めた。
「あの街、今夜から主治医がいないので」
◆
――王都の、それからの話をしよう。
崩れというものは、派手な場所からは始まらない。
最初に音を立てたのは、台所だった。
ラング商会が、公爵家への納品をすべて正規価格に改めた。
理由を問う執事に、商会主は帳面を一冊差し出した。
割引の名目欄には、どの行にも同じ署名があった。
公爵は署名の主を確かめて、書斎に籠もった。
ロウ家への招待状は、季節がひとつ変わる間に途絶えた。
代わりに門へ届くのは、宛名のない手紙ばかりになった。
中身はどれも、勘当した娘への依頼だった。
「旦那様。本日の分にございます」
「……娘は勘当した」
「かしこまりました。では、昨日と同じ棚へ」
棚は、じきに足りなくなった。
ある夜、公爵はふと棚の手紙をひとつ開いた。
読み終えて、元へ戻し、翌朝すべての手紙に「転居先不明」の判を押させた。
判を押させる声が低かったことには、執事だけが気づいていた。
次に、ダリオ様の実家の債権が市場に出た。
匿名の債権者が手を引き、買い取ったのは敵対派閥だった。
割れた席のひとつで、ダリオ様が殿下に詰め寄った。
「債権の元の名義を、ご覧になりましたか」
「見た。……見たが、何かの間違いだろう」
「殿下。うちの家がなぜ十年も保ったのか、お考えになったことは」
「それは、おまえの家の才覚で」
「私も昨日まで、そう思っておりました」
側近は一礼して、席を立った。
戻らなかった。
殿下の茶会には、空席が目立つようになった。
王家の夜会には、招かれてはならない客が交ざるようになった。
名簿を検める者が、いなくなったせいだ。
盗みと、間者と、醜聞売り。
数える気も失せる顔ぶれだった。
醜聞そのものも、週ごとに芽を吹いた。
バルテ侯爵家の偽恋文は、今度は誰にも止められず社交界を一周した。
コンラート伯爵家の決闘は「調整中」が解けて、本当に行われた。
幸い、双方とも急所は外れた。
南では、畳ませたはずの賭博場が、看板を替えて戻ってきた。
毒殺の噂も、一緒に戻った。
困り果てた貴族たちの前には、〝夜会のお医者様〟を名乗る男まで現れた。
前金だけ集めて、じきに消えた。
偽者の見分け方は簡単だ。
本物は、治すまで消えない。
偽者に払った前金を取り返したい、という依頼が、また棚に積まれた。
診る者は、いない。
そして南方交易の出資話が、満を持して王宮に届いた。
今度は、断らせる者がいなかった。
殿下とロウ公爵は競うように出資し、仲介料はリタ男爵令嬢が取り仕切った。
船は、最初から存在しなかった。
金庫が空になった朝、リタ様も王都から消えていた。
男爵家に残っていたのは、借り物の家具と、置き手紙がひとつ。
『皆様、お芝居をありがとうございました』
殿下は一度だけ、空になった男爵家を訪ねた。
埃の積もった客間で、置き手紙を読み返した。
芝居なら、幕の上がる前に台本を検める係がいたはずだった。
その係を自分が追い出したのだと、殿下はそこで初めて数え違いに気づいた。
王宮で対策の会議が開かれた。
列席は国王陛下、王太后様、宰相、それから青い顔の殿下。
「ここ二か月の醜聞は何件だ」
「十七件にございます」
「昨年は」
「一年で、その十分の一かと」
「宰相。手を打て」
「打てる者を、先日追放したばかりにございます」
「呼び戻せばよかろう」
「北へ向かったところまでは。その先の足取りが、関所で途切れております」
王は天井を仰いだ。
「なぜ急に増える」
誰も答えなかった。
沈黙を破ったのは、王太后様だった。
「エルディオ。おまえ、あの夜会で何を捨てたか分かっているのかい」
「……婚約者を、です」
「違うね」
王太后様は杖の先で床を打った。
「王都の主治医を、追い出したんだよ」
「……祖母上は、ご存じだったのですか」
「風邪の流行らない街には、良い医者がいるものさ」
殿下が調べさせるまで、さほど掛からなかった。
商会の割引に残る署名。
債権の買い上げの名義。
握り潰された出資話の記録。
三年分の治療の痕が、街のあちこちから出てきた。
請求書だけが、どこからも見つからなかった。
「……全部、無償だったのか」
「診察は依頼があってから、というのがあの子の決まりでね」
王太后様は静かに続けた。
「依頼もせずに治してもらっていた病人が、医者を追い出して、さて」
「さて……?」
「熱が出たら、誰が下げるんだい」
「……医者は、戻るでしょうか」
「さあね。追い出された医者が、患者の顔を見たがるものかい」
殿下は、まず自分で北へ発とうとした。
国境の手前で、丁重に止められた。
北の関所を預かるのは、辺境伯だった。
やむなく使者を立てた。
冤罪の取り下げと、復縁の申し入れと、戻れば侯爵位という条件が並んでいた。
使者は五日で帰ってきた。
返事のほかに、小さな店の様子も持ち帰った。
「いかがであった」
「……お元気そうに、ございました」
「そうか」
殿下はそれきり、北の話をしなくなった。
届いた返事は、一行だけだった。
『新規のご依頼は、受け付けておりません』
◆
北の町は、空気が乾いて明るい。
私は大通りの端に小さな店を借りた。
軒先の看板には「よろず相談・ロウ」。
ロウの名は名乗るなと言われたが、あいにく私の名前だ。
最初のお客は、塩の値段で揉めた浜の女房たちだった。
「浜のやつが、目方をごまかすんだよ」
「秤を替えなさいませ。教会の秤をお借りして、月に一度、皆の前で量り直すこと」
「銭は」
「初回のご相談は、お茶代だけ頂きます」
王都の相場を思えば、笑うほど安い。
けれど、診察は診察だ。
それから、差出人のない手紙がひと通届いた。
『腕の良い医者は、どこの土地でも流行ります。良い療養を』
署名はないが、行間から杖の音がする筆跡だった。
宛先をどう調べたのかは、考えないことにした。
返事も、書かないことにした。
流行る前の医者に、宣伝は要らないので。
実に平和だ。
マーサは店の奥で、薬草茶の棚を勝手に増やしていた。
「うちは医院ではありませんよ」
「看板に偽りがあっては、いけませんので」
その日の午後、扉の鈴が鳴った。
入ってきた長身の客を見て、マーサが茶器をひとつ増やした。
「ご相談を、伺います」
「診察を、お願いしたい」
北の辺境伯、ヴェイン様だった。
「症状は」
「近いうちに、断罪されそうな男がいる」
「どなたに断罪されるのです」
「王都の全部に」
「それはまた重篤ですね。罪状は」
「追放された公爵令嬢を、妻に迎えようとしている」
(あら)
マーサの注ぐお茶の音だけが、しばらく店に響いた。
「……患者様は、いつからその病を」
「あなたの請求書を、初めて読んだ日から」
「進行がずいぶん遅うございます」
「国境の男は慎重なんだ」
「熱は」
「あなたが王都を発ったと聞いた日から、下がらない」
「食欲は」
「この店の茶菓子なら、入りそうだ」
(患者のくせに、図々しいですわ)
マーサが素早く焼き菓子の皿を出した。
(あなたも図々しい)
「慎重な方は、雪の近い季節に求婚には来ません」
「春まで待つと、別の医者に掛かられそうだった」
「あいにく、この町に同業はおりませんが」
「王都が丸ごと、あなたを呼び戻したがっている」
「新規のご依頼はお断りだと、お返事いたしました」
「知っている。だから旧知の患者として来た」
(この方、初診ですのに)
「その旧知の患者様に、ひとつ伺います」
「どうぞ」
「王都からいらした殿下を、関所でお帰しになったのは」
「領主の務めだ。物騒な荷は通せない」
「殿下は丸腰だったと聞きますが」
「未練は、刃物より物騒だろう」
(まあ)
「王都へ戻れとは、仰らないのですね」
「戻りたいのか」
「いいえ」
「なら、話が早い」
私は帳面を開いて、すぐに閉じた。
処方箋の書きようがない病だった。
「あいにくですが、辺境伯様」
「断られる理由を、道中ずっと探して来た」
「見つかりましたか」
「ひとつも」
「……私もです」
困った患者だ。
いや、困った医者である。
「診察料は高うございますよ」
「生涯分を、前払いで」
「……私の流儀を、よくご存じですこと」
「あなたの患者になると決めた日から、調べてある」
「調べ癖のある患者は、嫌われますよ」
「医者に似たんだ」
私は席を立ち、あの夜と同じ角度で一礼した。
「弁明は、いたしません」
この胸の内を、いまさら取り繕う言葉もないので。
「このご依頼、謹んでお受けいたします。――今回の治療は、私自身が動きますので」
「マーサ。お茶のお代わりを」
「お祝いの銘柄にいたしますね」
「気が早くありませんか」
「王都から、鞄に入れて持って参りましたので」
(……この侍女、いつから見えていたのかしら)
「マーサ。うちの雇用条件を覚えていますか」
「給金なし、まかない付きかと」
「改定します。給金あり、まかない付き、お祝いの銘柄は店の経費で」
「よい職場です」
窓の外で、北の空がよく晴れている。
王都の熱は、いずれ誰かが下げるだろう。
私の患者は、当面ひとりで手一杯なので。
さて――治療を、再開いたしましょう。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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