第6話:それでも残る
エピローグです
あのアパートでの出来事から、一週間が経った。
生活そのものは、何事もなかったかのように元へ戻っている。
朝は近所のコンビニで妥協した味のコーヒーを飲み、昼過ぎから重い腰を上げて資料を漁る。夜になれば、角大師の御札に手を合わせ、安い缶チューハイを開けて眠る。
変わったことがあるとすれば、手が止まらなくなったことだ。
キーボードを叩く指先が、考えるよりも先に動く。
あの部屋で見た猿の面。地中に埋められたままの石。
鼻腔の奥に残り続ける、獣の脂の匂い。
それらが勝手に結びつき、物語の形を取ろうとしていた。
「……で、佐藤さんのその後なんですが」
出版社の打ち合わせスペースで、上松が切り出した。
一週間前のやつれた顔は影を潜め、眼鏡の奥の目にも余裕が戻っている。
「結局、地元のお寺に相談したそうです。歴史に詳しい住職を呼んで、一度、正式な供養を」
「一度、なんだ」
私がそう返すと、上松は小さく苦笑した。
「ええ。あくまで念のためだそうで。コンクリートを全部剥がすようなことはせず、できる範囲で、です。まあ、畜霊碑の隣に観音像は建てたようですが」
やはり、そこは越えなかったか。
「それでも、変化はあったみたいですよ。4号棟全体を包んでいた、あの強烈な匂いは、かなり薄れたそうです。隣人からの苦情も止まったとか」
「…404号室は?」
上松は、ほんの一瞬だけ視線を逸らした。
「完全には、消えていないそうです。微かに、ですけど。換気をすると分かる人には分かる程度の匂いが残ると」
「だろうね」
「佐藤さん、あの部屋はもう人には貸さないそうです。物置扱いにして、基本的には立ち入らない。『触らないのが一番だ』って」
それは対処であって、解決ではない。けれど、現実的な落とし所ではある。
「高水さんには感謝している、と。伝えてくれと言われました」
私は、曖昧に頷いた。
解決した。そう言ってしまえば、そうなのだろう。
原因を推測し、対処の方向性を示し、現場の混乱は収まった。作家としては、これ以上ない材料も手に入れた。
「原稿、かなり進んでます」
「それは良かった。では、予定通り次号の特集で。仮タイトルは……」
上松は楽しそうに話しながら席を立った。
出版社を出ると、夕焼けがビルの隙間に沈みかけていた。
駅へ向かう途中、ふと、サンハイツ第4の方角が脳裏をよぎる。
あの場所の下で、馬たちは今どうしているのだろう。
新しい観音像の下で、眠っているのか。
それとも、ただ大人しくしているだけなのか。
考えても、確かめようがない。
自宅までの道を歩きながら、私は一つの違和感を反芻していた。
吉岡老人の部屋を埋め尽くしていた、無数の猿。私はそれを「守護」だと解釈した。
それは民俗学的には、正しい。
だが──もし、あれが「守るため」ではなかったとしたら。
外へ出さないため。あるいは、近づかせないため。
「……考えすぎか」
独り言は、夜の住宅街に吸い込まれた。
部屋に戻り、電気をつける。
いつものワンルーム。角大師の御札も、いつも通りの場所にある。
何も変わっていない。
そう思った、その直後だった。
ローテーブルの中央に、それは置かれていた。
古びた、木彫りの猿の面。
不揃いな彫り。どこか人間じみた、冷たい目。
「……は?」
喉が、ひくりと鳴った。
吉岡老人の遺品は、すべて処分されたはずだ。
私が持ち帰った覚えもない。
鞄の中に入る余地も、記憶もない。
後ずさりし、壁に背中が当たる。
猿の面は、ただそこにある。
鼻腔の奥を、懐かしい匂いが掠めた。
獣の脂。
乾いた藁。
厩舎の、匂い。
私は、息を止めた。
――ああ。
これは、物語の続きを書け、ということか。
それとも。
見てはいけないものを、見ただけなのか。
答えは、まだ分からない。
「意味がない」と切り捨てられたものは、簡単には終わってくれないのかもしれない。
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