第1話:猿の棲む部屋
始まりました、よろしくお願いします
続きは明日にー
「――終わった。終わったよ、上松さん」
都心にある中堅出版社、その一角にある薄暗い打ち合わせスペース。
私、高水明は、使い古されたソファに深く沈み込み、天井の染みを眺めながら、絞り出すような声を出した。
「お疲れ様です、高水さん。いやあ、今回も素晴らしい原稿でした。特に中盤の『境界儀礼としての辻と、そこから派生する道祖神信仰の変遷』の下り、震えましたよ」
目の前で、丸眼鏡を指で押し上げながら、編集者の上松がニコニコと笑っている。四十路特有の、人当たりのいい、どこか捉えどころのない笑顔だ。
「嘘おっしゃい。あんなの、スランプの果てに絞り出した出涸らしだって。自分で読み返して吐き気がしたもん。民俗学なんて、現代じゃ『役に立たないトリビア』か『オカルトの踏み台』扱いでしょ。真面目に考察すればするほど、読者は離れていく気がするんだよね」
私は、首元まである髪を乱暴にかきむしった。
ライター兼、作家兼、自称・在野の民俗学者。それが私の肩書きだ。
だが最近は、学術的な熱量と商業的なニーズの乖離に、すっかり心が折れかかっていた。
「そんな弱気なこと言わないでください。だからこそ、ですよ」
上松が、持参したアイスコーヒーを一口啜り、声を低めた。
「気分転換に、少し実益を兼ねた外仕事をしてみませんか? 高水さんの専門知識が、そのまま誰かの救いになるような、そんな仕事です」
「救い? 私が? それ、怪しいツボの販売とかじゃないよね」
「まさか。事故物件の調査ですよ」
その単語を聞いた瞬間、私の背筋に、わずかな悪寒が走った。
私は、霊障を受けやすい。自覚はある。
部屋には拝み屋からもらった角大師の札を貼り、鞄には常に粗塩と日本酒の小瓶を忍ばせている。
民俗学を志したのも、元を正せば得体の知れないものを、言葉という枠組みに閉じ込めて、安心したかったからだ。
「事故物件? 私の管轄じゃないじゃん。それは有名な専門家のサイトを見るか、お祓い屋さんの仕事でしょ」
「いえ、普通のお祓いでは解決しない『謎』があるんです」
上松は、鞄から一冊のクリアファイルを取り出した。
「知り合いの大家さんから相談された案件です。2ヶ月前、彼が管理するアパートの一室で、独居老人が亡くなりました。死因は脳梗塞。事件性はなく、遺体が発見されたのも死後数日。腐敗もそこまで進んでおらず、床の貼り替えも必要なかった。…物理的な意味ではね」
「物理的な意味では?」
「問題は、部屋の中身です。これを見てください」
上松がファイルから取り出した数枚の写真を、テーブルに滑らせた。
……絶句した。
「うわっ、なに、これ」
思わず声が漏れた。
写真に写っていたのは、6畳ひと間のワンルーム。
だが、壁という壁が、茶色い「何か」で埋め尽くされている。
よく見れば、それはすべて猿の面だった。
木彫りのもの、プラスチック製のもの、陶器製のもの。
種類も大きさもバラバラだが、そのすべてが「猿」だ。
それらが、一分の隙間もなく壁に打ち付けられ、数千の瞳が一斉にカメラのレンズのように、こちらを凝視している。
それだけではない。
床には、足の踏み場もないほどに、猿の置物が敷き詰められていた。
「これ、亡くなった住民が自分でやったの?」
「ええ。大家さんが発見した時の状態です。警察の現場検証が終わった後、あまりの不気味さに大家さんが震えながら撮った写真だそうです。猿、猿、猿…。この部屋の住民は、文字通り猿に囲まれて死んでいたんです」
私は写真を指でなぞった。異様な光景だ。
単なる収集癖の類には見えない。配置に規則性がある。
まるでお面同士が互いに何かを監視しているような、あるいは、部屋の外から入ってくる「何か」を防ごうとしているような、そんな切迫感があった。
「そして大家さんの話では、発見当時、猛烈な生臭さが漂っていたそうです。ただの死臭じゃない。もっと、獣に近い、むせ返るような匂いだったと。でも、部屋にペットを飼っていた形跡は一切ありませんでした」
上松の言葉に、私は腕を擦った。鳥肌が立っている。
「警察は脳梗塞だって言ったんだよね」
「はい。病死です。でも、大家さんは困り果てています。特殊清掃を入れて、猿の面もすべて処分した。けれど、未だにその部屋からは『匂い』が消えない。おまけに、内見に来る不動産業者も『なんだか落ち着かない』と言って、すぐに帰ってしまう。このままでは事故物件として告知事項が残るだけでなく、呪われた部屋として誰も寄り付かなくなってしまう、と」
「それで、民俗学者の出番ってわけか」
私はため息をつき、アイスコーヒーの結露を指で拭った。
「大家さんは、この『猿』にどんな意味があるのかを知りたがっているんですよ。それが分かれば、どう供養すればいいのかも分かるかもしれない。高水さん、これを記事にするという条件で、調査を引き受けてくれませんか? もちろん、考察だけで構いません。解決できなくても、大家さんの『納得』が得られればそれでいいんです」
私は、もう一度写真に目を落とした。
壁一面の猿。その中央、脳を万力で締め付けられるようにして死んでいた老人。
なぜ、彼は猿を求めたのか。
なぜ、部屋は獣の匂いがするのか。
「…分かった。やるよ」
私は腹を決めた。
どのみち、このままスランプに浸かっていても、粗塩の代金すら稼げなくなる。
「ただし、条件。現場で私が『あ、これヤバい』と思ったら即撤退するからね。あと、セルフお祓い用の日本酒代は経費で落としてね」
「もちろんです。交渉成立ですね」
上松は満足げに頷き、手帳を取り出した。
「大家さんには、高水さんのような専門家が来ると伝えておきます。物件名や場所を特定しない形なら、記事化も快諾してくれていますから…。では、早速明日、現場に行きましょうか。4号棟の404号室。なかなか、数字も揃っていて『それっぽい』でしょう?」
「……笑えないジョークだよ、上松さん」
私は立ち上がり、鞄の中の角大師の札にそっと触れた。
猿の面。消えない獣臭。
嫌な予感がする。だが、それ以上に、私の学者としての好奇心が、泥沼のような暗がりの底から首をもたげていた。
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