第1話:1ヶ月の猶予
火災から2週間。
ユアン共和国政府は、未だに事件を国民に隠し続けていた。今回の火災で失ったデータは実に2000TB。国家の記録約10年分が完全に消失した。
政府は「システムの大規模メンテナンス中」と発表し、市民には「一時的なサービス停止」と説明している。
昼夜を問わず復旧作業が続いているが、他にバックアップは存在せず、回収できたのは全体の1割にも満たない。
そして、あの夜の管理責任者は翌朝、自宅で首を吊っているのが発見された。
真実が公表されれば、国民は大混乱に陥り、国家は崩壊する。
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大統領府、第二執務室。
厚いカーテンで覆われた密室に、5人の男が向かい合っていた。
「何をやってるんだ、お前たちは!!」
怒声が部屋中に響き渡る。声の主は、机の向こう側に立つ白髪の男だった。60代半ば、黒いスーツに身を包み、細い眼鏡の奥から鋭い視線を放っている。
グリム。12年間この国を統治した前大統領にして、現在は野党の最高実力者。冷酷な政治手腕で知られ、今も議会に隠然たる影響力を持つ男だ。
「分かってるのか! 10年だぞ!」
グリムは拳で机を叩いた。鈍い音が響く。
「俺たちのやってきたことも無駄にしやがって! どう責任をとるつもりなんだ!」
グリムの隣には2人の側近が控えていた。いずれも無表情で、まるで影のように存在感を消している。グリムは手を振った。
「国民には『メンテナンス』だなんだと嘘をつき、裏では必死に消えたデータを探している。2週間経っても回収率は1割だ。バックアップ体制の不備、セキュリティ対策の怠慢、すべてお前たちの責任だ」
グリムは立ち上がった。細身の体躯だが、その存在感は部屋を圧倒していた。
机の向こう側、大統領が静かに口を開いた。
「失ったデータは、必ず復旧させる」
その声には、確固たる意志が込められていた。
「どうやって?」
グリムは机に両手をつき、身を乗り出す。
「10年分の記録が灰になった。どうやって取り戻すというんだ!」
「それはまだ言えない。今は調査中だ」
大統領の声は静かだが、わずかに震えていた。
「調査?」
グリムは鼻で笑った。乾いた、嘲りに満ちた笑い声だった。
「いつまで国民に隠し続けるつもりだ? 市民は身分証明ができず、企業は行政との記録を失い、病院はガイドラインなしに動いている。混乱は日を追うごとに拡大している」
大統領の隣に立つ男が、静かに口を開いた。
レイヴン。大統領側近にして、国家情報院の実質的な最高責任者。50代半ば、灰色のスーツに身を包んだ現実主義者。
「我々は急ピッチで復旧作業を進めています。市民や企業からの再提出、技術的な復元を」
「隠蔽工作の間違いではないか」
グリムは冷たく言い放った。
「火災の原因は設備の老朽化です。前政権時代からの——」
「我々の時代には」
グリムはレイヴンの言葉を遮った。その声は、氷のように冷たかった。
「このような『事故』は起きなかった」
彼は再び机を叩いた。今度はより強く。インク壺が揺れ、ペンが転がり落ちた。
「いいか。このままお前たちが無能を晒し続け、国民を騙し続けるなら」
彼は机を回り込み、大統領の真正面に立った。
「もし復旧ができないようなら我々が、すべてを公表する」
低く、冷たい声が響く。
それはまるで死刑宣告のようだった。
「政府が管理するデータの大半が消失したことを。お前たちがそれを隠蔽し、国民に嘘をつき続けていることを。そして、復旧の見込みが全くないこともな」
沈黙が落ちた。重く、冷たい空気が部屋を満たす。
「それは脅迫か」
大統領が初めて立ち上がった。その声には、わずかな怒気が含まれていた。
グリムは冷たく微笑んだ。その笑みには、一片の温かみもない。口角だけが上がり、目は笑っていなかった。
「いいや」
彼は大統領を見据えた。
「国民の『知る権利』というやつだよ」
グリムは背を向け、側近たちと共にドアへ向かった。靴音が、硬い床に響く。ドアノブに手をかけた瞬間、彼は振り返った。
「1ヶ月だ」
その声には、譲歩の余地がなかった。
「1ヶ月以内に何らかの成果を示せ。さもなければ」
——お前は終わりだ。
言葉を残し、彼は去った。ドアが閉まる音が、静かに響いた。
大統領は深く息を吐いた。肩の力が抜け、わずかに前屈みになる。
「レイヴン」
「はい」
「他に方法はないのか」
レイヴンはしばらく沈黙していた。窓の外を見ている。やがて、静かに答えた。
「一つだけ、あります」
「何だ」
「極秘作戦です。成功の保証はありません。発覚すれば国際問題では済まないでしょう」
レイヴンは大統領を見た。その目には、迷いが一切なかった。
「最悪、戦争にまで発展します」
大統領はレイヴンを見た。その目には、迷いと決意が入り混じっていた。
「それでも、やるか」
「他に選択肢はありません」
レイヴンの声は、機械のように冷徹だった。
大統領は長い沈黙の後、頷いた。
「わかった。始めろ」
レイヴンは一礼し、部屋を出た。
残された大統領は、窓の外を見た。曇り空。雨が降りそうだった。
——本当に、これでいいのか。
その問いに、答えはなかった。




