壁の向こう側
朝の光は、薄いカーテンを透かして部屋に忍び込む。陽菜はベッドの上で膝を抱え、窓の外の白い雲をぼんやりと見つめる。雲は動かない。まるで、彼女の心のように。
看護師になって1年と3ヶ月。陽菜はまだ、その時間を「短い」とは思えない。あの病棟の喧騒、先輩の叱責、患者の呻き声、ナースコールの無慈悲な響き。それらが、彼女の胸に刻んだ傷は、1年3ヶ月分では収まりきらないほど深く重い。うつ病と診断された日、医者の冷淡な声が言った。
「今の職場が合ってないんじゃない?転職を考えてみたら?」
陽菜は頷いたが、心はどこか宙を漂っていた。
復職のための面談。会議室の空気は冷たく、上司の言葉はもっと冷たかった。
「こんなに恵まれた環境でうつ病になるなんて、あなたのこと、私たちの手に負えないよ」
手に負えない。陽菜はその言葉を飲み込み、胃の底で溶かした。彼女の努力、夜勤で震えた指、苦痛の波に飲まれる患者の苦しみにそっと寄り添った日、患者の最期に寄り添った夜。それらは、すべて「手に負えない」の一言で塗り潰された。
意を決して退職した。新しい一歩を踏み出そうと、エージェントにすがった。だが、返ってきたのは決まり文句。「臨床経験が1年半では、異例の短期離職ですよね。今の場所でもっと頑張れなかったんですか?」
陽菜の心は折れた。紙のように薄く、脆く、破れそうに。こんな私を受け入れてくれる病院はない。私は無職になるのだろうか。辛い、苦しい、生きていたくない、と夜の闇に呟いた日もあった。
そして、別のクリニックを訪れた。そこでは「うつ病の傾向はない」と告げられた。陽菜は混乱した。それなら、なぜこんなに苦しいの? なぜ、何もないのに涙が止まらないの?なぜ、朝起きるたびに胸が重いの? なぜ、鏡の中の自分が他人に見えるの?
「私の性格がダメなのかな」
彼女はそう呟き、窓の外の雲に答えを求めた。雲は、黙ったままだった。
夜の静寂が、陽菜の部屋を包む。彼女は日記を開く。そこには、1年目の頃の自分がいた。
「患者さんの笑顔が、私の生きがいになる」
あの頃の陽菜は、こんな未来を想像しなかっただろう。彼女はペンを握り、日記の余白に書く。
「私は、ダメじゃない。ちょっと傷ついただけ」
翌朝、陽菜は小さな一歩を踏み出す。看護師の就職を支援する相談窓口。受付の女性は、陽菜の話を聞く。ゆっくりと、うなずきながら。
「経験が浅くても、大丈夫ですよ。資格は、どこかで必ずいかされますよ」
その言葉は、陽菜の胸に小さな灯りをともす。消えそうで、でも確かにそこにある灯り。
私は思う。生きていたくない、と思った夜もあった。でも、私はまだ、生きている。まだ、息をしている。暗い雲は動かなくても、風はそっと吹く。私はカーテンを開け、朝の光を浴びる。白い壁の向こう側に、何かがある。まだ見えないけれど、きっとそこにある。
彼女は、一歩、踏み出す。ゆっくりと、でも確かに。




