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エルデナの祈り  作者: 春乃


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第8話 静かな想いを胸に

――午後の日差しが、机の上の紙を淡く照らしていた。


その静けさを破るように、扉が控えめに叩かれる。

「ルーカス様、エリオットでございます」

「……入れ」


扉が静かに開き、エリオットが姿を見せた。

「先ほど、伯爵様からお預かりした手紙と寮の資料を、エルリーナ様にお渡ししてまいりました」


その報告に、手が止まる。

これでようやく、エルリーナは伯爵家を離れられる。

胸の奥に、ゆるやかな安堵がひとすじ流れた。


今の母は、エルリーナを半ば無視している。

けれど、その静けさがいつ崩れるか分からない。

感情の刃は、何の前触れもなく振り下ろされる……僕は、それをよく知っている。


「……そうか。報告、ありがとう、エリオット」

声が、微かに掠れた。


扉が閉まると、再び静寂が降りる。

紙の上を薄い光がすべり、遠くで鳥が鳴いた。


これで、少しはあの子も穏やかに過ごせるだろうか。


妹ができたと聞いたとき、本当は嬉しかった。

イグナリエル伯爵家に子どもは僕ひとりだったから、ただ少し話をしてみたかった。それだけのことだった。


けれど、エルリーナに会うことは許されなかった。

僕が六歳だったある日、こっそりと離れへ向かおうとしたら、母に見つかり烈火の如く怒られた。


「ルーカス! そっちに行ってはいけません!」

初めて聞く怒鳴り声だった。振り返った母の顔は、光を呑み込んだ影のようで――

「あの子には近づかないで!」


あの日から、離れに近づけば母が別人になるのだと知った。

そしてその数年後、廊下の陰で、母と侍女長マルタの会話を聞いてしまった。

――あの子を見ると苦しくなる……感情を抑えられないのよ……

マルタが必死に話を逸らしていたが、母の声の棘は、まだ幼かった僕にもわかった。

いつかエルリーナを傷つけるのでは……そんな母になってほしくない。


胸の奥が冷たくなった。


だから、僕は見守る道を選んだ。

一年前、エリオットに離れの様子をこっそり見て、僕にだけ報告してほしいと頼んだ。


母からは、エルリーナは……

――魔力操作ができず暴走するかもしれない

――熱を頻繁に出すが、熱がないときは暴れる

そんな話を聞かされていた。だが、その言葉をそのまま信じることはできなかった。


離れからの月報には、いつも同じ文言が並んだ。

――体調に不安あり。療養を継続中。


けれど、実際に離れを見て来たエリオットの報告は違っていた。

エルリーナは庭師のバルドと弓の練習を始め、体も少しずつ回復していると。

それでも、月報には「不安あり」とだけ書かれている。


隠したいのかもしれない。母の目を避けるために。

そう思うたびに、胸が痛んだ。


母も、エルリーナも、守りたい。

でも、互いを遠ざけることでしか、それは叶えられないと知っている。


今、ようやく距離を取ることができる。

学園での生活が、あの子にとって新しい光になることを願う。


午後の光が、ゆるやかに紙の上を流れていく。

僕は静かに息を吐き、手を伸ばして机上の封筒を整えた。


――これでいい。

ようやく、少しだけ前へ進める気がした。


♦︎♦︎♦︎


――読みかけの本を机に広げ、エルリーナは書斎の窓から、風に舞う赤や黄の葉が庭を覆う景色をじっと見つめていた。


私は小さく息を吐き、本を静かに閉じた。

「よし。行こう」

立ち上がり、廊下へと足を向ける。向かう先には、オルガとミリアがいる部屋。決心はもうついている。あとは、言うだけだ。


「オルガ、ミリア。ちょっといいかな?」

声をかけると、二人が顔を上げた。


ミリアはすぐにお茶の用意を始める。

「三人分用意して。座って話そう」

私は手で合図し、二人にも席についてもらう。普段通りの柔らかな空気の中、ほんの少し緊張が混じる。


お茶を一口飲み、深呼吸する。

「学園の寮のことなんだけど……私が入るヴェリテ寮には、侍女を一人だけ連れて行けるの」


二人の顔が少し引き締まる。オルガは予想していたのか、すぐに口を開いた。

「でしたら、ミリアを連れていってください」


ミリアも慌てて答える。

「え?! 私はまだ未熟ですから、オルガ姉さんのほうこそ適任です」


二人は自然に互いを推薦し合っている。


でも、私は首を振った。

「誰も連れて行かない」


二人の目が同時に大きく開き、驚きが顔に浮かぶ。

オルガは眉をひそめ、目を伏せて静かに息を吐く。

ミリアも目を丸くして首をかしげた。


「ミリア、あなたは侍女として覚えることがまだまだある。……だから、オルガがそばにいてあげてほしいの」

私の言葉に、ミリアが驚いたように顔を上げた。


「わ、私は……本邸に行けば、他に指導してくださる先輩がいますよ」

ミリアは、だからオルガを……と言いかけた。


だけど私は静かに言葉を重ねる。

「ミリアを誰かに任せるなんて、考えられないもの」

心の奥で確信していた――この屋敷でミリアを正しく導けるのは、オルガだけだと。


「オルガにはクライネル伯爵家の紹介状があるでしょう?イグナリエル伯爵家も、その縁をないがしろにはできない。あなたがここにいれば、ミリアも安心して学べる」


二人が目を合わせる。

まだ納得しきれない表情の奥に、少しだけ理解の色が混ざった。


♢♢♢


――離れの二人部屋。夜。ミリアとオルガはそれぞれのベッドに横になっていた。


「オルガ姉さん……リーナ様は、本当にお一人で寮に行かれるのかな?」


隣のベッドからミリアが不安そうに話す。

「リーナ様は、私たちの事を思って、そう決断なさったのだと思うの」


天井を見つめながら、記憶を探る。

「ねぇ、ミリア。私たちがリーナ様の担当になったばかりの頃のこと、覚えてる?」

「覚えてますよぉ……あの頃のリーナ様は、本当に……何も望んでないみたいで……」


そう。私とミリアが、離れにきた頃のリーナ様は、全てを諦めているようだった。

遠くを見つめ、外に出ることもなく、静かに、ただ時間が通り過ぎるのを待っている……そんな感じだった。


――まるで、クライネル領が災害にあったあの日以降の私の心の中のようだった。


「だけど……ある日、急に歩く練習を始めたのよね」

ミリアが小さく笑みを浮かべ、懐かしそうに言う。

「あの時は、本当にびっくりした。オルガ姉さんも、私も、慌てちゃったよね」


私はむくりと体を起こし、隣のミリアを見た。

「何がきっかけだったのかは分からない。でも、無気力だったリーナ様が、自ら前を向いて努力する姿を見て、私も立ち止まっていてはいけないと思ったのよ」


言いながら、あの日の庭の光景が頭をよぎる。

一歩を踏み出したリーナ様の姿に、胸が締め付けられ、自然と背筋が伸びた。あの瞬間、私も歩みを止めてはいけないと思ったのだ。


少し息をつき、肩の力を抜くと、微かに笑みが浮かぶ。

「リーナ様が一人で寮に行くのも、ただ投げやりな気持ちで決めたことじゃない。自分の力で歩んでみたい――そういう前向きな気持ちからの決断だと、私は思っている」


ミリアが私をじっと見つめ、小さく頷いた。

「そうですね……リーナ様なら、きっと大丈夫かもしれません」


私はその小さな頷きを見て、ほっと胸を撫で下ろした。

――長期の休みに入れば、またこの離れに戻る。戻った時、変わらず迎えられるように。


「さあ、もう寝ましょう。明日の朝は、リーナ様とパンを焼くのよね?」

「はい、リーナ様と美味しいパンを焼きます!オルガ姉さん、おやすみなさい」

「ふふふ、楽しみね、おやすみなさい」


小さく灯していた明かりを消して、暗闇を見る。

――侍女を連れて行かない理由は、きっと他にもある。

でも、聞かない。聞いても、リーナ様は教えてくれないだろう。


それでも、ここで見守ろうと、私は心に決めた。


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