第7話 確かな道と覚悟
――学園の入学について本邸で話し合ってから、しばらくは離れでいつもの日常が続いた。
朝はオルガとミリアと三人で朝食を作り、洗濯や掃除をこなす。
料理も、掃除の手順も、初めてのはずなのに迷いがない。
(……ああ、そうだった。こうやってやるんだ……ありがとう、里奈)
声には出さず、胸の奥でそっと感謝を伝える。
「リーナ様……もう家事については、私が教えることはほとんどございませんね」
オルガが少し微笑んで言った。
エルリーナは少し照れくさそうに笑いながらも、首を振った。
「でも、オルガやミリアと一緒にやるのは楽しい。せめて朝の支度だけでも、みんなでやりたいな」
オルガは目を細め、にっこりと微笑む。
「そうですか……それなら、朝の時間だけは、喜んでお付き合いしましょう、リーナ様」
ミリアも嬉しそうに笑って、
「リーナ様、今日もよろしくお願いします!」
朝の家事の後は、オルガのマナーレッスンが始まる。
貴族としての振る舞いや礼儀作法が中心だ。
立ち方、歩き方、会話の所作、手紙の書き方……少しずつ指導される。
午前のレッスンの締めくくりは、昼ご飯での実践だった。
ナイフとフォークの持ち方、食器の扱い方、お茶の飲み方――オルガは侍女なのに、なんでもできてすごいな、と私は思った。
午後になると、庭師の仕事の合間に、バルドが離れに現れ、弓の訓練が始まる。
弓は接近戦ではなく、敵や状況を素早く把握し、集中力と判断の速さが求められる武器だ。
私が的に矢を放つ間にも、周囲の風の流れや地面の起伏、バルドの動き、周りの気配を常に確認する。
一瞬の迷いが命取りになる、緊張感のある訓練だ。
「もっと周囲を意識するんだ、リーナ」
バルドは低く、厳しい声で言う。
その言葉に呼吸を整え、私は視線を広げ、矢を放つ。
正確に飛んだ矢が的を貫くと、ほんの少しだけ胸の奥が熱くなる。
訓練が終わった後や、バルドが来ない日は書斎へ。
そこには白い毛並みの猫――セラが一緒にいてくれる。
誰にも邪魔されずに学べるよう、私のそばで本を読んでいるのだ。ページをめくるときは尻尾を器用に使う。声は私にしか聞こえない。
『この単語は、前に出てきた文脈と同じだ』
口数は少ないが、一言で私の迷いを払ってくれる。
距離を保ちつつそばにいてくれる安心感。
セラの静かな見守りがあって、私は今日も文字に向かえるのだ。
寝る前には、魔力の操作に取り組む。
特に魔力の隠し方を、一人静かに練習する時間だ。
呼吸を整え、魔力を感じ、心の中で意識を集中させる。
『うまくなったな』
そう言って、窓辺でセラが寛いでいる。
胸の奥に小さな感謝を抱きながら、私は魔力と向き合った。
今日も、静かで、温かく、守られた一日がゆっくりと終わろうとしている。
♦︎♦︎♦︎
――本邸からなんの連絡もないまま、一ヶ月が過ぎた。
気持ちのいい朝、オルガと二人で洗濯物を干していた。
「ねぇ、オルガ」
「なんですか?リーナ様」
干したシーツが風にはためく音に混ざり、私は口を開いた。
「オルガは、どうして貴族のマナーに詳しいの?」
オルガの手が一瞬止まったあと、空を見上げて穏やかに言った。
「……日差しが強くなる前に、中に入ってお茶にしましょう」
ミリアが頷き、三人で離れの中に戻る。
籠を片付け、風通しのいい窓辺にお茶を用意した。
開け放たれた窓から、夏の風がやさしく吹き込む。
オルガはお茶を一口飲み、イグナリエル伯爵家に来るまでのことを、話し始めた。
「私はハーネル子爵家の娘として、クライネル伯爵領で育ちました。家は伯爵家に代々仕える家柄で、小さくても誇りある家門でした。そして、伯爵家の三男――エドガー様と婚約していたのです」
ミリアは両手を膝の上で握りしめ、静かに聞いている。
オルガは少し照れくさそうに笑いながらも、静かに続けた。
「エドガー様がハーネル家に婿入りし、子爵を継ぐ予定だったので、子爵夫人にふさわしいマナーを身につけていました。けれど――あの年、領地は突如未曾有の災害が襲いました」
オルガの瞳がふっと遠くを見つめる。その視線の先には、失われた日々が揺らめいているようだった。
「川は氾濫し、山が崩れ、村々も屋敷も、すべてが一夜で失われました。……家族も、エドガー様も」
ミリアが俯いて、震える声で言った。
「そのとき、私も家族を……。オルガ姉さんが、私を見つけてくれなかったら……」
「ミリアは、私の親戚です。あの時はお互いに必死でしたね」
オルガは小さく微笑んだ。
静寂の中、外の鳥の声だけが聞こえる。
「クライネル伯爵夫妻と長男夫妻は王都におられたため、難を逃れました。ハーネル家は爵位を王家に返上し、私たちは伯爵家と共に、再建に尽力しました」
淡々と語りながらも、オルガの手は少しだけ震えていた。
「けれど……私を見るたび、伯爵夫妻は亡くなったエドガー様を思い出されるようで。そのたびに、悲しそうに微笑まれるのです」
オルガは静かに息をついた。
「復興への光が見え始めた頃、ミリアと話し合って、決めました。私たちがこの地を離れたほうが、伯爵夫妻にとってもいいだろうと。それで、紹介していただいたのが――イグナリエル伯爵家でした」
私は、オルガの横顔を見つめた。
「……オルガは、優しいね」
「いいえ。逃げるように出てきたんです。ただ、少しでも誰かの役に立てたらと思って」
オルガの声は穏やかだったけれど、その奥に小さな痛みが残っていた。
「十分、役に立ってるよ」
気づけば、言葉が口をついていた。
オルガは少し驚いたように私を見て、それから、やわらかく微笑んだ。
「……ありがとうございます。だけど、前に進もうと思えたのは、リーナ様のおかげなのです」
「私の……?」
「はい。歩く練習をして、家事を覚えて、毎日を丁寧に生きようとするあなたを見て……ああ、私もまた立ち上がらなきゃって思えたのです」
ミリアが優しく頷く。
「オルガ姉さん、前よりずっと笑うようになったよ」
「……そうかもしれませんね」
オルガの微笑みは、やわらかく輝いていた。
外では夏の風が、木々の葉をさらさらと揺らしていた。
その音を目で追いながら、私は思った。
たとえ過去に痛みがあっても――
“今を生きる人の笑顔は、こんなにもまぶしいのだ”と。
♢♢♢
――本邸での話し合いから、三か月が過ぎた。
呼び出しがあるのではと心のどこかで思いながら過ごしていたけれど、未だ呼び出しはない。
色づいた木の葉がひらひらと舞う秋の朝、いつものように朝食を終え、お茶を飲んでいたとき――
離れの玄関のチャイムが鳴った。
「リーナ様、私が出ますね」
ミリアが椅子を離れ、小走りで玄関へ向かう。
しばらくして戻ってきた彼女の顔には、少し緊張の色があった。
「エリオット様がいらしています」
あの本邸の執事が、わざわざここに?
私は静かに立ち上がり、玄関へ向かった。
そこには、いつものように整然と立つエリオットがいた。
冷たい印象の黒い瞳――けれど、どこかほんのわずかに柔らかさを感じた気がした。
(……気のせいかな)
「伯爵様より、こちらを直接お渡しするよう申しつかっております」
彼は淡々と告げ、封書と小さな木箱を差し出した。
「ありがとう、エリオット」
私が受け取ると、軽く一礼し、無言のまま踵を返す。
その背中を見送り、渡されたものをじっとみた。
リビングに戻り、オルガとミリアの前で手紙の封を切る。伯爵からの文面は、整った筆跡でこう記されていた。
――学園への入学を許可すること。
――入学手続き以外の準備は自分で行うこと。
――制服や教科書は、必要な時期になったらエリオットへ申し出ること。
――寮は「ヴェリテ寮」とすること。
読み終えて顔を上げると、二人の視線がこちらに集まっていた。
「……学園に行けることになったわ」
「まあ!」オルガが手を胸に当てる。
ミリアもぱっと笑顔を咲かせた。
「おめでとうございます、リーナ様!」
「また話し合いをするって言ってたのに、拍子抜けしちゃったね」
苦笑いしながらも――二人の声に、胸の奥がじんと温かくなる。
少し前までは夢のように遠かったことが、今は確かな現実として目の前にある。
「……でも、寮のことや準備は、これから自分でしなきゃいけないみたい」
「大丈夫です。私たちがお手伝いします」
「なんでも言ってください!」
二人に励まされ、私は笑って頷いた。
今日の午後はバルドが来ない日。いつものように書斎……には行かず、自室に戻って手紙と共に渡された箱を開ける。中には寮についての資料が入っていた。
ページをめくると、部屋の間取りや共用部分の見取り図、生活の決まりが目に入る。
そして――「ヴェリテ寮・侍女または従者、一名同伴可」という一文に指先が止まった。
(侍女一名……)
オルガとミリア。どちらか一人を選ぶなんてできない。
もし片方だけが本邸に残ったら、あの屋敷の人たちとうまくやっていけるだろうか。
けれど、二人一緒なら――きっと、お互いの支えになる。
(……それに)
セラの言葉が、静かに胸の底で響く。
“魂を狙う者が本当にこの世界にいるのなら、動き出すのはその時かもしれない”
もし私が標的になるのだとしたら。
誰かを巻き込むくらいなら――最初から、私一人で行くべきだ。
だから、私はひとりで行こう。
迷いのない結論を、そっと心の奥で固めた。
読んで頂きありがとうございます
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