第4話 疑惑と加護
――庭の木々は葉を落とし、冷たい風が枝をわずかに揺らしている。
私の名前は、セラフォルディウス=ルミナリエル。
勝手に「セラ」と呼ばれ、初めは嫌だったが…慣れとは恐ろしいな。
この白猫の姿も板についてきた…慣れとは…まぁ、しょうがない。
天使となってから長い間天界にある光の湖を管理する仕事をしていた。
無数の光の粒が漂い、寄り添い、結びつき
やがて「魂」となって、それぞれ世界へと旅立っていく
その光景を眺めながら日々を過ごしていた。
思い出すのは、ひとつの魂が伸ばした手も虚しく目の前で割れた光景。
(あの時… 一瞬風が吹いたな…… もしかして…)
――あれは事故ではなかった?――
(神が見守れと言ったのは、あれが故意によるものだった可能性があるからか?見守るだけなら天界にある鏡で十分なはず…だとしたら…)
スッと体を起こし、目を閉じる。
範囲は…伯爵家敷地内が限界か…継続時間も短いが、怪しい気配があれば探知できる。
天使の力【聖律】を使おう。
一瞬柔らかい光が弾ける。
(屋敷敷地内には…二つ…やや怪しい波動がある…あの時の風のような波動は感じない。だが警戒はした方がいいな…)
♦♦♦
――年が明けた。
外はまだ冷たい風が吹いているけれど、庭の空気はどこか澄んでいる。
裏庭での訓練は、まだオルガから禁止されている。けれど体調はもういいから、バルドに室内でできる簡単な訓練をいくつか教わった。
姿勢を整え、呼吸を整え、軽く魔力を流す。
でも、すぐ終わってしまう。
(うーん……これだけだと、ちょっと物足りないな)
「そうだ!書斎に行ってみよう」
この離れの建物は、先代伯爵様――お祖父様の趣味で建てたものだと、バルドが教えてくれた。
誰にも邪魔されず、本を読んだり薬草を育てたりしていたらしい。
お祖父様はもう亡くなられていて、会うことはできない…
廊下の奥にある書斎の扉を開けると、壁一面に本が並び、まるで小さな森のように広がっていた。
心が自然と躍り、思わず息を飲んだ。
指先で背表紙に触れると、紙の香りがふわりと鼻をくすぐる。
(わあ……たくさん本がある……!)
机や椅子も昔のまま置かれ、棚の隙間には薬草の観察日誌や辞書が積まれている。
かすかに見える文字は、お祖父様の手で書かれたものらしい。
(お祖父様の文字かな……綺麗だな……)
私は部屋の中央まで歩き、本をひとつひとつ見渡した。
(もし全部読めたら……どんなに楽しいんだろう……)
まずは読めそうな本から探してみよう。
古い辞書、分厚い薬草の図鑑、地図帳、恋愛小説や冒険記、絵本まである。
簡単なものから少しずつ読み進める。
難しい古代語の本も、お祖父様が残した解読用のメモ帳を頼りに少しずつ読めるようになった。
読むことが楽しくて、気づけばいつも時間を忘れてしまう。
そして決まって、オルガの少し厳しい声が耳に届く。
「リーナ様、もう夕食の時間ですよ」
(あ……またやっちゃった……)
「はーい! すぐ行くよ」
そう言って、慌てて書斎を出るのだった。
書斎に通い始めて数日、気が付くとセラがついて来ていた。
「あれ?セラもきたの?」
『……ここには、珍しい本があるな。興味深い』
「セラも本が好きなの?」
『まぁな』
そういって本棚を眺めている。
本を机に置いてあげると、器用に尻尾でページをめくり読んでいる。
(ふふふ。本を読む猫…面白い)
それに、オルガかミリアが呼びに来る前に尻尾で教えてくれる。
セラと一緒にいると、なぜか安心する。
オルガに叱られないから、というだけじゃない。
ただ静かに本をめくる時間を、同じ場所で過ごしてくれる――それが嬉しいのかもしれない。
そんなある日、奥まった場所にある棚に目が留まった。
ほかの本とは違う雰囲気の一冊――表紙は色あせ、古代語で題名が書かれている。
「これは……エ…ル…デナ? かな……?」
本を開くと、ほかの古代語とは比べものにならないくらい、暗号のような文字が並んでいた。
挟まれていたお祖父様のメモには、こう書かれている……
――リュミエール男爵家か?――
(え? リュミエール男爵家って、母様の……)
思わず息が止まり、指先が震える。
隣にあったもう一冊は、どうやら日記のようだった。
無造作に開いたページには、父様――セドリックの名前が見えた。
――領地の者と同じ目線で戦いたいと言っていた――
――いずれ伯爵家を離れるつもりなのだろう…――
その言葉に、目が離せなかった。
(父様のことが書かれてる……これ……お祖父様が……?)
そして、ふと思い出した。以前、オルガたちが来るずっと前の侍女がぽつりと言っていたこと。
「セドリック様が、どこぞの女に騙されて平民になった」
あの時、言葉が出なかった。喉が詰まり、声にならない代わりに、手の中のカップを強く握りしめた。
気づいた時には、カップは床に落ち、割れた。
白い破片が散り、紅茶が絨毯を染めていた。
侍女は驚いたように後ずさりし、何も言わずに部屋を出ていった。
……その日を境に、私は「時々暴れる」と囁かれるようになったらしい。
本当は、ただ、幸せを否定されたことが悲しかっただけなのに。
日記を読むと、あの話は違っていた。父様はやっぱり自分で道を選んだのだ。
(父様は自分の意志で、伯爵家を出たんだ……)
私は二冊を胸に抱き、窓際の椅子に腰を下ろした。
『どうした?リナ』
ハッと顔を上げたら机の上に白猫――セラがいた。
「…本を見つけて…」
『書斎だからたくさんあるだろう…』
「うん…」
無意識にエルデナの本を開いて真っ白なページを掌でなでたら…ゆっくりと文字が浮かび上がった。
「……光の加護……“エルデナ”の名のもとに……魂をつなぐ……?」
小さく声に出した瞬間、胸の奥がどくりと脈打った。
見覚えのない言葉なのに、どこか懐かしい響きがあった。
そのとき、セラの金の瞳が、開かれた本のページに吸い寄せられるように動く。
「セラ、この“エルデナ”って……母様の家と関係あるみたいなんだけど…」
少しの沈黙の後、セラはこちらを見た。
『……“エルデナ”とは、古の契約を司る名だ。天界では、“失われかけた光をつなぎ止める加護”として伝わっている。』
「失われかけた光……?」
胸の奥がざわりと疼く。
セラは私を見つめたまま、静かに続ける。
『本来なら、割れた魂は形を保てぬ。だが……お前の魂は消えなかった。それは、エルデナの加護が働いた証拠なのかもしれん』
意味を理解するまでに少し時間がかかった。
(消えなかった……魂が……?私が、生きている理由が……その“加護”だというの?)
「……だから、私は……今もここにいるの?」
セラは答えず、ゆっくりと尻尾を揺らした。
その仕草が、答えの代わりのように思えた。
少しして、彼が再び口を開く。
『もっと知るには学びが必要だ』
胸の奥で何かがゆっくりと灯った気がした。
恐れよりも、確かめたいという気持ちの方が強かった。もし私が“加護”によって生かされているのだとしても――
窓の外では、紅や黄に色づいた木々の葉が日の光を受けて揺れ、わずかに散る落ち葉が風に舞っていた。
机の上の本もまた、柔らかな光にかすかに照らされている。
その光が、遠い誰かの手のぬくもりのように感じられた。
ふと考える。
学園に通えば、学生証で図書館に入り、古代語の資料や母様の記録を直接調べられる。
もし学園に行けなかったとしても――私は、両親のようにハンターになるという道もある。
自分の足で世界を回り、人や資料から学ぶことになるだろう。
学園に通うとしても、ハンターになるという選択肢は、いつでも片隅に常に残しておく。
どちらの道を選んでも、自分で確かめ、学び、守りたいものを守る力を手に入れる。
――私には、学ぶ理由がある。
魂を守ってくれたエルデナの加護に、そして、自分のことを知るために。
静かな書斎でページを撫でながら、私は小さく決意を固めた。
次にこの場所を離れるとき、私は学びの旅に出るのだ――まだ見ぬ真実を求めて。
そして、必要なら、両親のように戦う力を手に入れるのだ。
「リーナ様、もう夕食の時間ですよ」
慌ててページを閉じると、余韻が指先に残る。
セラがそっと尻尾を揺らして見上げる。
(ふふ、少しだけ、誰かと同じ場所で、同じ時間を過ごしてくれることが嬉しい)
二冊の本を胸に抱え、私はゆっくりと書斎を後にした。




