第38話 公爵家のお茶会
あの夜から三日が過ぎた。
学園は、明日から月末休暇に入る。
ミラベル様の処分は未だ保留となっている。
学園はどこか落ち着かない。
それでも表向きは、いつも通りだった。
笑い声も、足音も、何も変わらない。
「エルリーナ! 待たせたね。さあ、帰ろうか」
振り向けば、ルーカス兄様が立っていた。
「兄様、生徒会のお仕事お疲れ様です」
「月末前は何かと忙しくてね」
「……あの、セレーネ様は?」
「ああ、まだ休んでいるよ。お茶会は、明日だよね。何かあれば公爵家から、連絡がきているはずだ」
怪我はないと聞いている。
けれど、公爵家の意向で学園は休んでいるらしい。
馬車へ向かう廊下は、休暇前の賑わいで満ちている。
帰省する者、街へ出る者、友人と約束を交わす者。
(明日のお茶会……)
招待は、あの騒動よりも前に届いていた。
馬車が門を出る。
窓から見える空は、秋の深まりを見せている。
あの夜、ディアナの残した言葉を考えた。
――エルデナの本のこと。
――ベールの聖女様の本のこと。
(もう一度読み直そう)
「エルリーナ、セレーネは学園を休んでいるが、王宮には予定通り来ていると王子殿下から聞いている。大丈夫だと思うよ」
「そうなんですね。よかった」
馬車がイグナリエル伯爵家の門をくぐると、玄関前にはすでに人影があった。
秋の夕暮れの光を背に、セラフィナ叔母様が静かに立っている。
「おかえりなさい」
その声はいつも通り穏やかだが、どこか待ちわびた響きがあった。
「ただいま戻りました」
兄様と揃って挨拶をすると、叔母様は小さく頷く。
「オルディアス公爵家より、改めて連絡がありました。明日のお茶会は、予定通り執り行われます。“お待ちしております”とのことです」
「そうですか。ということは……エルリーナ、夕食まで頑張れよ」
「兄様?」
叔母様が小さく手を叩いた。
「さて、こちらも準備を整えないとね。ドレスが届いているの。試着してみましょう」
その声音は、先ほどよりもわずかに柔らいでいた。
「い、今からですか?」
「夕食までまだ少し時間があるわ。細かな調整がないか、見ておきたいの」
「では、また後で」
笑みを浮かべながら手を振り、兄様は去っていった。
叔母様とふたり、衣装部屋へ入ると箱が整然と並べられている。
蓋を開ければ、淡い色合いのドレスが姿を現した。
華美ではない。けれど格を備えた一着。
侍女たちが手際よく着付けを整える。
背の紐を締め、裾を払う。
鏡の前に立たされた瞬間、布の重みが静かに肩に落ちた。
「……いいわね」
叔母様は一歩引き、真剣な眼差しで見つめる。
「袖をわずかに詰めましょう。そうすれば、より整うわ」
声は落ち着いている。
けれど、その視線はどこか楽しげだった。
そんな叔母様とは、対照的に――
「なんだか緊張してきました……」
思わず零すと、叔母様は一瞬だけ驚き、それから控えめに笑う。
「そうね、公爵家のお茶会ですもの。緊張もあります。でも……」
鏡越しに、私を見つめる。
「あなたとこうして準備をするのは、初めてでしょう?
……私は、嬉しいの」
その言葉は、伯爵夫人でも叔母でもなく、母のようだった。
明日は、公爵家。
何が待っているのかは分からない。
けれど今は、柔らかな灯りの中で、夜が更けていく。
♦︎♦︎♦︎
夜。
灯りを落とした部屋。
月明かりが床に淡く落ちている。
机の上には、二冊の本。
エルデナの本と、ベールの聖女様の本。
「セラ、明日はついて来られるの?」
『ああ。問題ない。すぐ近くにいる』
短い返答に、少し心が軽くなった。
「お茶会には、他にもたくさん来ると思うけど……オルディアス家のこと、聞けるかな」
『さあな。だが、今回の茶会でうまく縁を繋げば、聞ける機会もあるだろう』
オルディアス公爵家とイグナリエル伯爵家の間に、これまで深い往来はなかったはず。
だからこそ――今回の茶会は、家門にとっても意味を持つ席になるのかもしれない。
『もう寝ろ』
「……うん。おやすみ、セラ」
机の上に置かれた二冊の本へ、もう一度視線を向ける。
表紙をそっとなぞり、小さく息をついた。
引き出しに静かにしまい、鍵をかける。
明日を思いながら、ゆっくりと目を閉じた。
♢♢♢
そして、お茶会の日がやってきた。
公爵家から差し向けられた馬車は、揺れも少なく、静かに石畳を進んでいった。
向かいには叔母様が座り、その隣にオルガが控えている。
私も膝の上で指を重ね、そっと息を吐いた。
やがて馬車はゆるやかに止まる。
扉が開かれ、外気が頬を撫でた。
「ようこそお越しくださいました」
出迎えの声に導かれ、私たちは屋内のサロンへと通された。
大きな窓から差し込む午後の陽はやわらかく、室内を淡く照らしている。
暖炉には小さく火が入り、ほんのりとした温もりが広がっていた。
整えられた花。
磨き上げられた銀器。
過不足のない調度。
あまりにも美しく整えられた空間に、思わず声がこぼれそうになり、慌てて飲み込む。
「ようこそ、イグナリエル伯爵夫人」
柔らかな声のほうに目をやると、そこにいたのは――グレイス・オルディアス公爵夫人、その人だった。
自ら歩み寄り、優雅に一礼するその所作は、完璧だった。
「お招きいただき、ありがとうございます」
叔母様もまた、淀みなく礼を返す。
続いて、私は一歩進み出た。
「お初にお目にかかります。エルリーナでございます」
深く、しかし控えめに礼を取る。
「まあ……」
小さく感嘆の声が上がった。
顔を上げると、奥の席にはすでに三名の夫人が着座している。
公爵家の馬車で来たのだから、時間通りの到着のはず。
それでも、整えられた空間の中で視線が一斉に向けられると、胸の奥がわずかに強張った。
叔母様の気配が、ほんの一瞬だけ静まる。
一人の夫人が扇を口元に添え、柔らかく微笑んだ。
「イグナリエル伯爵夫人がお越しになると伺って……どのようなお方かと、ぜひ公爵夫人にお聞きしたくて。つい、早く参ってしまいましたの」
「ええ、わたくしも同じですわ」
別の夫人が続ける。
穏やかな声音。
けれど、その奥にあるのは確かな興味――あるいは品のよい探り。
公爵夫人は、まるで風を受け流すように微笑んだ。
「皆さま、本当に楽しみにしていらしたのよ。わたくしも、どのようにご紹介しようか迷ってしまいましたわ」
そして視線を叔母様へ向ける。
「けれど、何より確かなのは――直接お会いすることですものね」
叔母様はゆるやかに微笑みを深めた。
「そのように仰っていただき、光栄でございます。本日はどうぞよろしくお願いいたします」
張りつめていた空気が、音もなくほどけていった。
そのとき。
「失礼いたしますわ」
澄んだ声が、サロンの入口から響く。
振り向けば、淡い色合いのドレスを纏ったセレーネ様が、静かに立っていた。
優雅な礼に、見惚れてしまう。
「お母様。ご挨拶が遅れました」
「ちょうどよいところへ来たわね。皆さん、こちらは娘のセレーネよ」
公爵夫人は穏やかに微笑み、私へと視線を移した。
「エルリーナ様もお越しくださっているの。あなた方も、ゆっくりお話なさるとよいでしょう」
その言葉に、セレーネ様が一歩進み出る。
「エルリーナ様。もしよろしければ、こちらへ。わたくしの部屋でお茶をご用意しておりますの」
断る理由はない。
けれど、大人たちの視線が静かに集まる中、胸の奥がわずかに波立つ。
(叔母様は……)
そのとき、叔母様がそっとこちらへ視線を寄こし、小さく頷いた。
やわらかく、揺るがぬ微笑み。
それだけで、背筋が伸びる。
私も小さく頷き、前を向いた。
「ありがとうございます。では、失礼いたします」
改めて一礼し、セレーネ様の隣へ並ぶ。
扉へ向かう途中、背後からは穏やかな談笑が再び重なり始めていた。
扉が静かに閉まる。
廊下はひんやりとして、先ほどまでの緊張が嘘のように静かだ。
「こちらですわ」
セレーネ様に導かれ、奥へと進む。
辿り着いたのは、公爵家令嬢の私室。
整然とした空間には、サロンとはまた違う、彼女だけの気配が満ちていた。




