第34話 埋もれた歴史
窓の外では、色づき始めた庭木が静かに揺れていた。
伯爵家の書庫は、屋敷の中でもひときわ静かだった。
高い天井まで届く本棚に、年代ごとに整然と並ぶ書物。古い紙と革装丁の匂いが微かに漂っている。
私は机の上に広げた一冊へ視線を落とした。
――アウレリウス王国正史:王統変遷録。
重厚な表紙とは裏腹に、記述は驚くほど簡潔だった。
王の名、血統、功績、そして短い備考。
ページをめくる手が止まった。
「……第六代は二年で崩御。第七代は五十年の治世にもかかわらず、生涯独身――」
小さく息を吐いた。
すると、ふわりと肩に重みが落ちた。
驚いて振り向くと、柔らかな羊毛のブランケットが掛けられている。
「書庫は冷えますので」
いつの間にか傍らに控えていたハロルドが、静かに一礼した。
「ありがとう、ハロルド」
「本に没頭されますと、周囲が見えなくなられますから」
穏やかな声音に、思わず小さく微笑む。
ブランケットに触れると、指先にやさしい温もりが広がった。
だが視線を落とした先にある歴史は、変わらず冷たいままだった。
――そのとき。
書庫の扉が、控えめな音を立てて開き、足音が近づいてきた。
「ずいぶんと読み込んでいるようだな」
低く落ち着いた声に顔を上げると、そこにはマーカス叔父様の姿があった。
「王国正史とは、また堅実な書を選んだものだ。歴史に興味があるのか?」
穏やかな口調。しかし、その眼差しは本の題名を正確に捉えている。
「はい。今後に役立つかなと思って見たら、興味がわきました」
叔父様は、机の上にある一冊の背表紙へ目を向けた。
「ふむ……良いところに目を向けたな。歴史は奥深い」
「……王の子が継がなかった時代があるのですね。子供が生まれなかったのでしょうか」
そう言って、ページを指差した。
叔父様はすぐには答えなかった。
背表紙に指先を滑らせながら、静かに口を開く。
「王家というものは、我らが思うより複雑だ。記録に残らぬ事情も多い」
そして、私が見ているページに視線を落とした。
「もっとも――第七代は賢王として名高い。長きにわたり国を揺るがさなかった稀有な王だ」
それに、とマーカス叔父様が続けた。
「優れた王ほど、己より国を選ぶものだよ」
「文字だけの記録には、そのときの考えや、感情なんてわかりませんものね」
「そうだな……もし、本人が書いた日記のようなものがあったら、どんな思いで国を見ていたのか、もう少し近づけるのだろうな」
小さく頷きながら、再びページへ視線を落とした。
――そこにあるのは、ただ整然と並ぶ文字だけだった。
ほどなくして、ハロルドが本を携えて戻ってきた。
「こちらでございます」
「ああ、ありがとう。 エルリーナ、勉強熱心なのはいいが、休憩を忘れないように」
「はい、叔父様もね」
「はは……気をつけよう。ハロルド、あとは任せる」
「承知いたしました」
静かな足音を残し、叔父様は書庫を後にした。
「日記か……」
小さな呟きは、静寂の中に沈んだ。
――けれど、その言葉は私の記憶から消えることはなかった。
♦︎♦︎♦︎
書庫を出てからも、私の思考は王国正史から離れなかった。
そして、その余韻を抱えたまま迎えた夕食の席で、思いがけない話を聞くことになる。
「エルリーナ、オルディアス公爵夫人からお茶会の招待状が届いたのだけれど……あなたもご一緒に、と書かれているの」
一瞬、食卓が静まった。
「え、私もですか? オルディアス公爵家……セレーネ様の」
叔母様が、わずかに頷いた。
そういえばと、ルーカス兄様が話し出す。
「先日、学園の図書館で話したと言っていたね」
「はい、薬草についてたくさん教えていただきました」
「セレーネは、一年生の時から、薬草学を選択していたからな」
それから、とルーカス兄様は続けた。
「来週は、午後の選択学科の授業は受けずに、王宮に行くと言っていた」
それでも招待を寄越したということはおそらく、月末休暇に改めて言葉を交わしておきたいと思ったのだろう。
「気に入られたのかもしれないね」
「それは嬉しいですが……公爵家……緊張します」
そう言うと、叔母様は小さく微笑んだ。
「ふふ、大丈夫よ。私も一緒なのだから」
叔母様はナプキンを静かに整えながら、穏やかな声で続けた。
「けれど、公爵家のお茶会となれば、普段より少しだけ気を配ったほうがいいわ」
すると、マーカス叔父様が穏やかに口を開いた。
「不安があるのなら、明日の午後にでも所作の確認をしたらどうだ。セラフィナ、頼めるか?」
「ええ、喜んで。そうしましょう、エルリーナ」
微笑む叔母様を見て、張りつめていたものがそっと緩んだ。
公爵家のお茶会と聞いてから、知らず知らずのうちに肩に力が入っていたのだと気づく。
叔母様が見てくださるのなら、大丈夫。
そう思えただけで、心が静かに落ち着いていく。
「はい。よろしくお願いいたします」
そう答え、私は背筋をそっと伸ばした。
叔母様は満足そうに頷く。
本のこと、歴史のこと、お茶会のこと……
(まずは、学園に戻ったら図書館で歴史書を探そう。その後はお茶会か……)
ふと、里奈だった頃を思い出す。こういう時こそ――
慌てない。
出来ることから順番に進めればいい。
そうすれば、いつか必ず終わる。
(今回も、きっと大丈夫……)
♢♢♢
「それでは、ゆっくりおやすみください」
「うん、ありがとうオルガ。おやすみ」
オルガは静かに一礼し、足音を立てぬまま部屋を出た。
扉が控えめな音を立てて閉じる。
セラと並んでベッドに座り、窓の外に瞬く星を見ていた。
「お茶会か……」
『黒髪の留学生、ミラベルとかいう奴のこと、聞いてみればいいじゃないか』
「簡単に言わないでよ。相手は公爵令嬢様なんだから」
『だからこそ、だろう。高位貴族の茶会は、情報が集まる場所だ』
「……情報交換、ってこと?」
『噂、思惑、家同士の関係。本人たちは世間話のつもりでも、案外本音が混じる』
セラの金色の瞳が、星明かりを映して静かに揺れる。
「……気が重いな」
小さく息を吐き、膝を抱えた。
「でも――避けてばかりもいられない、か」
しばらく沈黙が落ちる。
遠くで風が木々を揺らし、かすかな葉擦れが夜に溶けた。
ベッドに身を横たえると、重たかった思考が少しずつほどけていく。
「留学生も気になるけど……まずは図書館ね。歴史書も古代語の資料も調べる。それから、リュミエール先生に会えたら相談してみようかな」
『ああ。あの爺さんなら大丈夫だろう』
「また爺さんなんて言って、ふふ」
小さく笑ったあと、ふと胸の奥に引っかかるものを覚えた。
「あの本の解読を依頼したのは誰なんだろう」
『古代語が読めなくて、先代と交流がある奴か……』
「マーカス叔父様か、ハロルドに聞いたら――」
『もう寝ろ。明日はやることがあるだろ』
「……そうだね」
ランプの灯りを落とすと、部屋は月明かりだけに包まれた。
セラが当然のように枕元へ丸くなる。
「おやすみ、セラ」
『おやすみ、リナ』
考えるべきことは、まだたくさんある。
けれど――今は休もう。
思考は、ゆっくりと眠りへ沈んでいった。




