第33話 ベールの向こう側
イグナリエル伯爵家の離れにある書斎の窓から見える庭は、秋の光に柔らかく照らされていた。
私は、表紙がひときわ美しい本を持ち、窓際の机の前に腰を下ろした。
セラも気になるようで、本の横に座った。
――ベールの聖女様。
指先で題名をなぞる。
「時代的には、百年前……かな。比較的新しいよね。なぜ古代語なんだろう」
『なにか意味があるのか、もしくは、誰かが面白半分で書いたのか……ん?これは依頼書じゃないか?』
それは本に挟まれていた、一枚の古びた羊皮紙だった。
「本当だ……お祖父様に解読を依頼したのね。でも、依頼主の名前がない」
『……すでに渡した後なのかもしれないな』
「そうだね……解読した資料も見当たらないし、今はこの本だけみたい」
開くべきか否か、迷った瞬間、セラの金の瞳がじっとこちらを見ていた。
答えはもう決まっているような気がした。
ゆっくりと、本を開く。
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「ベールの聖女様」
どこから来たのか……言葉も何もわからぬまま、この国へ連れてこられた少女。
女神像に祈りを捧げると、聖女の証と言わんばかりに、光が降り注いだという。
その瞬間から、聖女様となった彼女は、懸命に生きていた。
日が昇る頃から、夜が更けても灯りを落とすことなく、慣れぬ文字をなぞり、貴族の言葉遣いや所作を覚え、祈りの言葉を繰り返して――ひとときたりとも歩みを止めようとはなさらなかった。
御力はすぐには顕れず、そのことで幾度もご自身を責めておられた。
それでも弱音を吐かれることはなく、ただ「皆を救いたい」と、それだけを願っておられたのだ。
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この本に書かれているのは、召喚された聖女のことだった。
震える指先で、読み進めていく。
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そんな聖女様に、常に寄り添っておられたのが王子殿下である。
殿下はお優しく、聖女様のお心を何よりも気遣っているように見えた。
――けれど。
あの御方が見せていたのは、真の慈しみではなかった。
聖女様を思いのままに動かすために、優しき仮面を被っていただけだと、私は知っている。
そうとは知らず、聖女様は殿下に信頼を……いや、それ以上の思いを寄せていたようだった。
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この王子殿下は、聖女の気持ちを利用していたのだろうか……
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やがて聖女様は御力を開花させ、各地へ闇を祓いに赴かれるようになった。
そのお姿は、常に深いベールに覆われていた。
教会は「民に御顔を見せてはならない」と告げていたが――それには、別の意図があったのだ。
そのため、民から「ベールの聖女様」と呼ばれていた。
そして、大いなる闇が世界を覆った。
聖女様はその身を顧みることなく戦い続け、ついに闇を退けられた。
世界は、あの御方の命と引き換えに救われたのだ。
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息を潜め、指先でページを押さえる。
次の行に、目を落とすのが怖くもあった。
だが、逃げることはできない。
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聖女様の最期を看取ったのは、王子殿下ただ一人。
その後――殿下の指示のもと、聖女と名乗ったのは私だった。
ベールで御顔を隠していたことで、誰も疑わなかった。
御顔を見せない意図はここにあったのだ。
栄光も敬愛も――そして、愛する人さえも。
本来あなたのものであったというのに。
聖女様……。
あなたがどれほど努力し、どれほど孤独に耐えておられたか。
それを一番近くで見ていたのは、この私です。
それなのに――私は、すべてを奪いました。
大いなる権力の前に、そして愛するが故に、私は抗うことができなかった。
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息が、浅くなる。
呼吸を忘れ、指が文字の上に残る。
この告白を、私は知ってしまった――
聖女様の懸命さと孤独、そして王子殿下との複雑な関係が、静かに胸に響く。
指先で文字をなぞると、まるでその声が微かに耳元で囁いているかのようだった。
『まだ、続きがある』
「……うん」
息を吐き、私はページをめくった。
セラも私の横で身を寄せ、文字を追っていく。
そこに綴られていたのは――
罪を背負いながら生き続けた、一人の聖女の記録だった。
赦されることを望むでもなく……
真実を語ることも許されぬまま……
ただ祈り続けた生涯。
読み終えたとき、指先がわずかに震えていた。
気づけば、時間はゆっくりと流れ、庭の光も少しずつ角度を変えていた。
窓の外を見れば、秋の木々の葉が風に揺れ、枝先に小さな影を落としている。
「セラ、最後の……これ見て」
『これは……』
「この聖女の名前……お――」
そのとき、控えめなノックの音とともに、ミリアの声が書斎に届いた。
「リーナ様、お昼ご飯の時間です」
セラがそっと尻尾を揺らす。
私は小さく頷き、読んでいた本をそっと閉じた。
胸の奥に、重くも温かい余韻が残っていた。
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「リーナ様、どうかなさいましたか?」
「え? な、何もないよ」
そう答えながら、私はスープに視線を落とした。
立ちのぼる湯気が、ゆらゆらと揺れている。
けれど――味が、よくわからない。
「本を読んでおられたのでしょう? 少しお疲れなのでは」
ミリアの声音はいつも通り穏やかだったが、その瞳にはわずかな心配が浮かんでいた。
「うん……少し、夢中になってしまって」
嘘ではない。
けれど、本当のことでもなかった。
考えたいのに、うまく思考がまとまらない。
「ねえ、ミリア。本邸の書庫に行きたいのだけれど……どうすればいい?」
「執事長に確認いたします。書庫は管理されていますので」
「ありがとう、ミリア」
そう言ってお茶を飲み、気持ちを落ち着かせた。
しばらくすると、ミリアが戻ってきた。
「執事長が、許可などとらなくても、いつでもお越し下さい。とのことです」
「本当? よかった。早速行ってみようかな。本邸に行ったら、今日は離れに戻らないと思う」
「はい。承知いたしました。そのように準備いたします」
ミリアは静かに一礼し、すぐに支度の手配へ向かった。
私は立ち上がり、窓の外へ視線を向ける。
秋の陽射しはやわらかく、それでいてどこか澄んでいた。
あの本に記されていたことが真実なら――
王国の歴史のどこかに、必ず痕跡が残っているはずだ。
逸る気持ちを抑えながら、本邸へと足を向けた。
まだ少し温かい風が吹く中、歩き慣れた道を行く。
私を導くように、白猫のセラが静かに前を歩いている。
本邸に着くと、執事長のハロルドが、穏やかな笑みとともに一礼した。
「エルリーナお嬢様、お待ちしておりました。本日は書庫をご覧になりたいとか」
「ハロルド、腰はもう大丈夫なの?」
「ご心配いただきありがとうございます。もう大丈夫でございます」
「よかった。そうだ!ハロルド、この子も一緒に行ってもいい?」
「大歓迎ですよ。本の敵であるネズミがいなくなるので、是非ご一緒にどうぞ」
ハロルドは柔らかく目を細め、セラへ視線を向けた。
「では、ご案内いたします。書庫はあまり人の出入りが多い場所ではございませんので」
「うん、お願い」
本邸の奥へと続く廊下を歩きながら、私は自然と背筋を伸ばしていた。
窓から差し込む光は次第に遠のき、足音だけが静かに響く。
やがてハロルドが足を止める。
重厚な扉だった。
濃い木目に刻まれた装飾は古く、この屋敷と同じだけの時を重ねているように見える。
「こちらが書庫でございます」
扉が開いた瞬間、わずかに乾いた紙と革の匂いが流れ出る。
外の気配が遠のき、そこだけが切り離されたように静まり返っていた。
思わず、小さく息を呑む。
「わあ……」
視線を上げると、本棚は天井近くまで続いていた。
整然と並ぶ背表紙は、長い年月をこの場所で重ねてきたことを物語っている。
「先代の旦那様は、大変な読書家でいらっしゃいましたので」
ハロルドの穏やかな声が、静寂に溶けるように響いた。
離れの書斎を遥かに凌ぐ蔵書量だった。
これほどの本に囲まれていると、ここだけ時の流れが緩やかなのではないかと思えてくる。
「歴史書を読みたいのだけど……」
そう告げると、ハロルドは迷うことなく歩き出した。
「こちらでございます。王国の正史をはじめ、各時代の記録や編纂書も揃えております」
案内された棚には、重厚な装丁の書物がずらりと並んでいる。
革張りの背には金の文字が刻まれ、触れるだけでもわずかに緊張した。
「お読みになる際は、どうぞそちらの机をお使いください」
棚のすぐそばに置かれた机と椅子を示し、ハロルドは続ける。
「私は入り口脇の机に控えております。何かございましたら、ベルでお呼びください」
「ありがとう、ハロルド」
一礼した彼の足音が遠ざかると、再び静寂が戻った。
私は一冊を取り出し、机の上にそっと置く。
セラが机に飛び乗り、本の横に座った。
――王国正史 第一巻。
表紙に触れた瞬間、胸の奥がわずかに高鳴った。
あの本に記されていたことが真実なら。
この長い歴史のどこかに、必ず痕跡があるはずだ。
深く息を吸い、静かにページを開いた。
――物語の奥へ踏み込むように。
読んでいただきありがとうございます。
来週までまた頑張ります。




