第32話 静かな渇き
ソレイユ寮の一室には、午後のやわらかな光が差し込んでいた。
磨き上げられた床に長い影が落ち、部屋全体を静かな金色で満たしている。
私は、ミラベル・ローゼンベルク。
ベルンシュタイン王国から来た留学生のひとり。
窓辺に立つのは、同じく留学生のクラリッサ・フォスター。
私は静かに口を開く。
「……今回の件、少しやり過ぎだったわね。クララ」
クラリッサの肩がわずかに揺れる。
振り返った彼女は、すぐに深く頭を垂れた。
「申し訳ございません、ミラベル様。すべては私の浅慮にございます」
迷いのない謝罪だった。
けれどその声音には、不思議と後悔の色が薄い。
私は小さく息を吐いた。
校舎裏の池に教科書を捨てた――そんな噂が流れれば、人は容易く心を乱す。
けれど、すべてはクラリッサが仕立てたものだ。
「噂は便利な道具だけれど、扱いを誤れば刃にもなるのよ」
「承知しております。ですが……」
クラリッサはゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、熱を帯びた光が宿っている。
「私は、どうしても許せなかったのです」
「何を?」
問い返すと、彼女はためらいなく答えた。
「ミラベル様が、正当に評価されないことを――です」
思わず、わずかに眉が動く。
クラリッサは一歩、私の方へ歩み寄った。
「第二王子殿下のお傍らに立つべきお方は、ミラベル様以外におりません」
静かな部屋に、その言葉だけがはっきりと落ちる。
「家柄、教養、立ち居振る舞い……すべてにおいて相応しい。それなのに、取るに足らない令嬢が殿下のお時間を奪っているなど――耐え難いことです」
その声音は穏やかなのに、どこか陶酔めいていた。
まるで揺るぎない真理を語るように、疑いがない。
私は視線を伏せ、表情を整える。
第二王子の婚約者。
その響きが胸の奥に小さな波紋を広げたが、外には出さない。
願いは、言葉にした瞬間に価値を失う。
だからただ、静かに告げる。
「クララ。軽率な行動は、いずれ自分の首を絞めるわ。それに、この国に来てまだ半月よ」
「……はい」
「今回は噂だけで収まりそうだけれど、次は分からない。ソレイユ寮にいる以上、誰もが私たちを見ているのよ」
「肝に銘じます」
即座に返るその従順さに、私は内心で苦笑した。
この子は優秀だ。
行動力もある。
けれど――熱が強すぎる。
「ただ……」
クラリッサが再び口を開く。
「すべては、ミラベル様の未来のためにございます。どうかお許しください」
許すも何も、最初から彼女は自分の行いを正しいと信じている。
それでも。
「顔を上げなさい、クララ」
言うと、彼女は静かに従った。
「あなたの忠誠は理解しているわ。だからこそ、もっと慎重になりなさい」
クラリッサの表情が、ほのかに緩む。
その安堵すら、どこか恍惚として見えた。
しばし沈黙が落ちる。
差し込む光がわずかに傾き、時間の移ろいを知らせていた。
私は小さく息を吐く。
「……もういいわ、クララ。あなたも疲れたでしょう。下がっていいわよ」
クラリッサは一瞬だけ目を見開き、すぐに深く一礼した。
「もったいないお言葉です。私は少しも――」
「下がりなさい」
穏やかに重ねると、彼女はそれ以上何も言わなかった。
「失礼いたします、ミラベル様」
扉が音もなく閉まる。
その瞬間。
張り詰めていた空気が、わずかにほどけた。
――感情で動く者ほど扱いやすい。
どこで目にしたのかは定かではない。
それでも、その言葉だけは不思議なほど鮮明に残っている。
今なら、その意味が理解できた。
「あの子は、少し熱が過ぎるのよ」
そう呟くと、背後から落ち着いた声が返る。
「フォスター様は、幼い頃からお嬢様をお慕いしておりますから」
振り向かなくても分かる。
ナタリーだ。
物心ついた頃から側にいる、私の侍女。
「慕う、ね…… 忠誠と敬愛は似ているようで、少し違うわ」
「はい」
余計な言葉は続かない。
ナタリーは、いつもそうだ。
必要なことだけを理解し、必要な距離を保つ。
私はようやく肩の力を抜き、ソファに身を預けた。
クラリッサには信頼していると伝えている。
それは嘘ではない。
けれど――
本当に心を許している相手は、ただ一人。
「ナタリー。紅茶を淹れ直してちょうだい」
「かしこまりました」
静かな所作で茶器を整える姿を眺めながら、思う。
熱に浮かされない者が、側にいる安心。
忠誠だけでは足りない。
必要なのは、冷静さと沈黙、そして理解。
揺れる紅茶の水面を眺めていると、不意に記憶が浮かび上がった。
――あれは、12歳の頃。
何の前触れもなく、私は理解した。
自分は特別な存在なのだ、と。
誰かに言われたわけではない。
出来事があったわけでもない。
ただ、ある朝目を覚ました瞬間、そう確信していた。
根拠などない。
それでも、その思いだけは一度も揺らがなかった。
それに見合う人間にならなければならない。
そう思った日から、私はすべてを変えた。
言葉づかいを正し、無駄な感情を表に出さぬよう努め、立ち方、歩き方、視線の配り方に至るまで整えた。
礼儀作法の教師は驚き、やがて何も言わなくなった。
両親でさえ、ときおり戸惑ったような視線を向けていたのを覚えている。
――そこまでしなくてもいいのよ。
母はそう言ったけれど、私には理解できなかった。
そこまでしなければ、届かない。
どこへ向かっているのかも分からないのに、ただそう思っていた。
そして、もう一つ。
胸の奥に、説明のつかない願いがあった。
私は、”幸せ”にならなければならない。
望む、というより――義務に近い感覚だった。
なぜそう思うのか、自分でも分からない。
けれど、もしその幸福に届いていないのだとしたら、まだ何かが足りないのだ。
だから私は、ずっと考えていた。
何が欠けているのかを。
そして、あるとき――不意に理解した。
“力”が、必要なのだと。
最初から持っていたはずのもの。
本来、私のものであるはずのもの。
理由は分からない。
けれど確信だけがあった。
それを――”返して”もらわなければならない。
カップの中で紅茶が静かに揺れる。
私はそっと目を伏せた。
あの日から一度も、この感覚は消えていない。
だからこそ、この国へ来た。
すべては――手の中に取り戻すために。
それが、最初から私に与えられるべきものなのだから。
そのとき。
意識の奥で、かすかな違和感が揺れた。
鼓動とは違う。
呼吸とも違う。
まるで、もうひとつの気配が重なったような――微かな揺らぎ。
私はゆっくりと顔を上げた。
(……今のは、何?)
問いかけても、答えはない。
けれど次の瞬間、思考の底に言葉が落ちる。
――足りない。
私はわずかに眉を寄せる。
(足りない? 何が?)
考えようとした途端、その感覚は霧のように薄れていく。
だが、不思議と恐れはなかった。
むしろ。
胸の奥に、静かな確信だけが残る。
そう――まだ足りない。
もっと。
もっと強くならなければ。
そのためなら。
私はカップを持ち上げ、紅茶を一口含む。
温かなはずの液体が、なぜかひどく冷たく感じられた。
「ナタリー」
「はい、お嬢様」
「この学園には……興味深い方が多いのね」
ナタリーは一瞬だけ視線を上げ、すぐに伏せた。
「左様でございますね」
それ以上は問わない。
賢い侍女だ。
私は窓の外へ目を向けた。
夕陽に染まる学園。
穏やかで、美しい光景。
けれど。
この場所に――ある。
私に足りない、“何か”が。
理由は分からない。
それでも、確信している。
いずれ私は、それを見つける。
そして――
手に入れる。
その瞬間、胸の奥で何かが静かに微笑んだことに、私はまだ気づいていなかった。




