第31話 深まる謎
馬車はゆっくりと学園を離れ、秋の夕陽が窓越しに二人の顔を柔らかく照らしていた。
「ルーカス兄様……」
静かに口を開く。廊下での騒動のことが、どうしても頭から離れなかった。
「生徒会室前でのお話し……詳しく教えていただけますか」
第二王子殿下の傍にいた女子生徒は、やはりふたりとも留学生のようだ。
栗色のくせ毛がクラリッサ・フォスター伯爵令嬢。
黒髪のストレートが、ミラベル・ローゼンベルク伯爵令嬢だという。
ルーカス兄様は少し目を伏せると、揺れる馬車の中で本が滑らないよう、そっと手を置いた。
「それが、クラリッサ様が言うには……ミラベル様の教科書を、セレーネが校舎裏の池に捨てたって話らしい」
あの場面の裏には、そんな話が隠れていた。
「でも……」とルーカス兄様は続けた。
「校舎裏で見たと言った時間、セレーネは君と図書館にいたとわかった。エルリーナには申し訳ないが、司書にも確認した」
「いえ、当然のことです」
私が頷くと、兄様も一度だけ頷き返す。
「それに、噂も立っているらしい。セレーネが……ミラベル様がアレクシス殿下とよく話しているのを嫉妬して、いやがらせをしている、なんて」
ルーカス兄様はわずかに眉を寄せた。
「正直なところ……僕にはわからない。セレーネとは一年のときからずっと同じSクラスだ。いやがらせをするようには思えない」
「図書館で少しお話ししただけですが、私もそう思います」
会話はそこで途切れ、しばらくの静寂が訪れた。
窓の向こうでは秋の風景が流れている。
木々の影が長く伸び、黄昏の光が車内に静かに落ちていた。
♦︎♦︎♦︎
伯爵家は、今日も変わらず穏やかだった。
少し遅い帰宅になったが、ルーカス兄様が生徒会の仕事だと説明すると、それ以上触れられることはない。
その距離感が、ありがたかった。
以前の私なら、どこか落ち着かなかったはずなのに。
ここはもう――
私の居場所になりつつある。
ふと視線を向けると、ミリアがこの一週間の出来事をオルガに報告していた。
その横顔は、どこか頼もしく見える。
侍女として、少しずつ成長しているのだろう。
私は静かにその場を離れ、本邸の自室へと続く廊下を歩き出した。
窓の外には、薄闇に包まれ始めた空が広がっていた。
その片隅で、気の早い星がひとつ瞬いている。
変わらない風景が、静かに私を迎えた。
当たり前のはずの光景が、なぜか今日はひどく愛おしい。
――守りたい。
ここに、いたい。
その想いだけが、確かな熱を帯びて胸に残った。
自室の扉を開けると、ソファにセラが座っていた。
白い毛並みは夜の気配の中でも淡く浮かび上がり、まるで最初からそこにいたかのようだ。
私は何も言わず、その隣に腰を下ろす。
沈黙は不思議と重くない。
ここでは、言葉がなくても心が落ち着く。
やがて、セラが静かに口を開いた。
『リナ、黒髪の方だと思う』
「……私もそう思う。けれど、何かが変だった」
短く答えながら、廊下で感じたあの微かな違和感を思い返す。
「私には気にも留めなかった……けれど、セレーネ様に僅かだけど敵意を向けていた」
はっきりと形にはならない。だが、胸の奥に小さな棘のように残っていた。
セラはわずかに尾を揺らした。
『狙いはリナではない――公爵令嬢だろう』
セレーネ様の姿が脳裏に浮かぶ。
「……勘違いしている可能性は?」
『ある』
迷いのない声だった。
『体の持ち主の魔力が強く、表に出られないのかもしれない。あるいは、この世界に来たことで本来の力を失っている可能性もある』
静かな推測が、部屋の空気をわずかに張り詰めさせる。
『だが――それだけではない気がする』
「どういうこと?」
『完全に支配しているなら、もっと迷いなく動くはずだ。今のそれは……何かに邪魔されている』
私は息を潜めた。
「体の持ち主の意志……かな?」
『もしくは魔力。あるいは、その両方だろう』
もし本当にそうなら――
黒髪の留学生、ミラベル・ローゼンベルク伯爵令嬢の中で、今も見えない抵抗が続いていることになる。
そして。
『狙いは公爵令嬢。だが、まだ確信が持てず探っている段階なのだろう』
「セレーネ様を、危険にさらす訳にはいかないよ……」
部屋に、静かな沈黙が落ちた。
窓の外では、星がひとつ増えている。
穏やかなはずの夜。
守りたいと思ったばかりのこの場所のすぐそばに、静かに忍び寄る気配がある。
それでも――
気づかぬふりは、もうできなかった。
私はそっと息を吐き、空から視線を戻した。
自室に静けさが満ちた、そのときだった。
控えめなノックが扉を叩く。
「お嬢様、失礼いたします」
聞き慣れた声に、肩の力がわずかに抜けた。
入ってきたのはオルガだった。
ワゴンの上には湯気の立つ茶器、下には就寝前の支度が乗っていた。
「お休み前のご用意を」
いつもと変わらない声音。
乱れのない所作。
他愛のない話をいくつか交わし、私たちは小さく笑い合った。
それだけで、この場所が変わらずここにあるのだと知る。
「それでは、おやすみなさいませ」
「うん。おやすみ、オルガ」
扉がゆっくりと閉まるのを見届けると、私は小さく息を吐いた。
セラがソファの上で尾を揺らす。
先ほどまでの張り詰めた空気が、ゆっくりとほどけていく。
気がつけば、窓の外には星が増えていた。
♢♢♢
翌朝、伯爵家はいつもと変わらぬ穏やかな空気に包まれていた。
差し込む陽光も、廊下を行き交う使用人たちの足音も、すべてが静かに整っている。昨夜胸に残っていた不安さえ、この屋敷の中では遠いもののように感じられた。
私は本邸を離れ、庭の奥に建つ離れへと足を向ける。
もちろん、セラも一緒だ。
昨夜、セラと話したことが頭をよぎる。
狙いは公爵令嬢で、まだ確信が持てず探っている段階なのかもしれない――と。
今すぐ行動に移せるものではないけれど、警戒は必要だ。
それでも、セラがそばにいてくれると思うと、少し安心できた。
いつものように書斎へ入ると、セラは本棚を見上げて尾を揺らした。
読みたい本があるらしい。
私はその視線を追って一冊を抜き取り、机に置く。
セラは器用に尻尾で本を開き、さっそく読み始めた。
私はそのようすに微笑みながら、一角に並ぶ古代語の本棚の前に立つ。
背表紙の多くは深く色褪せ、長い年月を物語っていた。
その中で、比較的時代の浅い本が何冊か、目に留まった。
古代という響きから、なるべく古いものばかりを探していたけれど。
ふと思う。
「最初は絵本を読んだのよね……初心に返るのも悪くないかもしれないな」
私が手に取ったのは、表紙がひときわ美しい、少し厚みのある本だった。
「綺麗な表紙……え、これは……ベールの?」
思わず息を呑む。指先で題名の文字を確かめた。
そして、そっともう一度、声に出して言う。
「――ベールの聖女様……」
その名を口にした瞬間、静かな書斎に、何か凛とした空気が流れた気がした。
恋愛要素少なすぎかな……
来週までまた頑張ります!




